FC2ブログ

尾張氏の謎を解く その95


今回は粕川の南側に当たると思われる伊福郷に向かいます。粕川は糟川と表記され、一般的には春日川が転じたとされますが、もっと以前は精錬で出た滓を捨てる川、すなわち滓川だったのかもしれません。Goo辞書によれば、「【滓/糟/粕】: [名] 1 液体をこしたあとに残ったり、液体を入れた容器の底に沈殿 したりしたもの。おり。」とのことです。滓は無機物、糟、粕は有機物を対象とした表記で意味としては同じですから、やはりかつては滓川だったのではと思えてきます。


旧伊福郷の位置を示すグーグル地図画像。

池田町の伊福郷に当たる地域(沓井、養基)に伊福部氏系の神社がないかチェックしたところ、養基神社(やぎじんじゃ)が揖斐郡池田町養基大字田中に鎮座していました。同社の祭神は養基大神とされています。これではどんな神様なのかわかりませんが、神社庁のホームページは以下のように書かれています。

主祭神 養基大神(やぎおおかみ)
創建年月不詳。口碑には往古八木之宮と申しその後何時頃か従五位式内養基之字と成し給ひ、一郡総鎮護にて付村も有之神田も多く朝廷より御付與之有大社に該処天正年中兵乱の頃信長公の為炎上に相成り、無由にて古事来歴相知不申候。古来より村社にて明治六年郷社に被列。


神社庁のホームページは以下を参照ください。
http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=3045&shrname=%E2%96%A0%E9%A4%8A%E5%9F%BA%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%96%A0

祭神は八木大明神で、八岐大明神とも称されているらしく、八岐大蛇が連想されることから、やはり伊福部氏が関連するのではと思えてきます。


養基神社の位置を示すグーグル画像。表示はなく西美濃さくら苑の右隣となります。

021_convert_20150928080144.jpg
養基神社前から撮影。広々としています。

028_convert_20150928080252.jpg
鳥居と社名を刻んだ石柱。

022_convert_20150928080354.jpg
境内。

023_convert_20150928080500.jpg
拝殿。

024_convert_20150928080600.jpg
本殿。

これだけでは養基神社が伊福部氏の祀る神社かどうかはっきりしません。しかし、伊福郷内に鎮座することから伊福部氏の神社と思えるので、もう少し考えてみましょう。伊福部は五百木部とも表記され「いほきべ」と読みます。「いほき」が「ようき」に転訛して、養基と表記され、その読みが「やぎ」になったとは考えられないでしょうか?

「ようき」がさらに転じると「ゆうき」になります。丹波編の「その61」において、伊福部氏が関係する結城神社を見てきました。となると、養基神社の近くに結城神社もあるかもしれません。そうであれば養基神社は間違いなく伊福部氏の神社となります。

養基神社を出て揖斐川町に入ります。すると、早速お目当ての神社が姿を現しました。名前も想定通りの結城神社で、鎮座地は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積1551番地の3となっています。

085_convert_20150928080645.jpg
鳥居と社名を刻んだ石柱。

086_convert_20150928080745.jpg
境内。

087_convert_20150928080833.jpg
拝殿。

088_convert_20150928080944.jpg
本殿。

090_convert_20150928081150.jpg
周辺の光景。のどかです。

岐阜県神社庁のホームページによれば由緒は以下の通りです。

創建年月不詳なるも郡内稀に見るべきの古社にして従六位上伊福部君は当社の氏子にして尊信篤く本殿の改築等修行せり 又西行法師も来りて(こけよりも流れ出るくたせ川つくもよかかるはへのかずかず)と詠せり 現今に至る此川に産する?を供するを例とす 尚境内は古へ祐木山と称し往古の社地たるを以て今回勅令の御趣旨に基き官許を受け村内各所の鎮座たる社を荘厳に合併し境内の風致を作り本殿拝殿鳥居を新設し基本財産等を修め次の各社を合併す…以下略

いかがでしょう?結城神社の結城が伊福部氏関連と確認できますね。境内は古へ祐木山と称し、とあります。養基が祐木、結城に転じた流れが見えてくるようです。伊福部氏に関連する表記は、伊吹、息吹、気吹、伊富岐、伊夫伎、伊夫岐、五百木、養基、祐木、結城、八木など数えきれないほどあります。伊吹山に関しても、それと連動するかのように伊服岐能山、胆吹山、夷服岳、伊富貴山など数多くの表記がありました。

以前、八岐大蛇は伊福部氏のような製鉄・精銅など金属精錬に従事する民を象徴していると書いており、それは伊富岐神社の祭神に八岐大蛇説がある点からも窺えます。けれども、確証となるものはありません。それを、八木が伊福部氏関連である点から考えてみます。

八岐大蛇の八岐の音は(やまた)ですが、(やぎ)とも読めます。八木が伊福部氏関連であるのは今回で確認済みです。よって、伊福部氏に関連する八木と八岐は同じであり、八岐大蛇も伊福部氏に関連すると理解されるのです。

「日本書紀」において、日本武尊は伊吹山の荒神の成敗に出かけました。日本武尊は伊吹の神の化身の大蛇を跨いで通ったため、神に氷を降らされ、意識が朦朧としたまま下山、その後死に至ります。この大蛇は八岐大蛇ともされており、荒神(=八岐大蛇)とは伊福部氏を意味すると考えて間違いなさそうです。

時代が下りますが、別の例も検討します。スサノオに退治された八岐大蛇が出雲の国から近江に逃れ、そこで成した子供が酒呑童子だとの説があります。またWikiには大略以下のように書かれています。

奈良絵本『酒典童子』によれば、酒典童子は、近江国須川(米原市)の長者の娘・玉姫御前と、伊吹山の伊吹大明神(八岐大蛇)との間に生まれた。伊吹大明神の託宣によって、出産後、玉姫は伊吹山に上り、酒典童子は祖父である須川の長者の子として育てられた。

酒呑童子の本拠は大江山とされ、大江山など丹後の山々には製鉄遺跡も存在しています。ここで重要なのは、産鉄・製鉄族の八岐大蛇は出雲から近江に来た点(言い換えれば伊福部氏は出雲から近江に来た点)と、その子である酒呑童子も産鉄に関係がありそうな点です。これらを以下のように整理します。

吉田家本「神名帳」には、因幡国に鎮座する伊福部氏関連の宇倍神社について、竹内宿祢(実際には伊福部氏)垂迹の地であると記載され、さらに彼は当国宇部山、大和葛城堺、美濃国不破ノ関、の三ヶ国に同日同時に顕現したと書かれている。酒呑童子はスサノオとの戦いに敗れた八岐大蛇が出雲国から近江へと落ち延びて成した子とする伝説もある。伊富岐神社の祭神は八岐大蛇だとの説がある。

上記の様々な伝説に関し、八岐大蛇、酒呑童子、伊福部氏のいずれも製鉄に関係する点を踏まえて現実的な視点から見れば、大和系伊福部氏を率いて丹波に入った彦坐王が、因幡国、出雲国に向かい、その地の息吹く民(伊福部氏)を自分の軍勢に組み入れ、一旦大和に帰還した後、近江経由美濃・尾張方面に向かった遠い過去の出来事が投影されていると明確に理解されます。

では、伊福部氏は不破の地峡帯を越え美濃に入り、そのまま北に向かったのでしょうか?伊福部氏が美濃に入ってから北に向かったのは、大海人皇子との関係を考えるとずっと後の時代になりそうです。すなわち、美濃に定着した伊福部氏の一部が後代になり北に領域を広げていったのです。

既に書いたように池田郡には伊福郷があります。しかし、湯沐邑の設置は推古天皇期以降とされていることから、伊福郷の成立は6世紀終わり頃となります。湯沐邑の源流となるのは6世紀前半以降に設置された大和王権の私有民となる子代の部であり、伊福郷の成立をこの時点まで遡らせる可能性はあります。

いずれにせよ、美濃国池田郷の伊福部氏に関しては、彼らが崇神天皇の時代に近江を経由して美濃から尾張に入ったことの検証とは関係がありません。もちろん、周辺に伊福部氏の存在があったことが池田郡における伊福郷の成立に繋がったのは間違いないと思われ、間接的な関係性は見て取れます。

            尾張氏の謎を解く その96に続く
スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2015/10 | 11
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる