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尾張氏の謎を解く その102

尾張氏の謎を解く
10 /10 2015

前回で書いたように、彦坐王率いる美濃・尾張遠征部隊と吉備津彦命率いる山陽道遠征部隊の目的が同じ鉄だとしたら、山陽道遠征部隊にも伊福部氏が加わっているのではないでしょうか?実は「播磨国風土記」(霊亀元年(715年)頃の成立とされる)飾磨の郡の記事に面白い話があります。内容は大略以下の通り。

昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。則ち因達の神山まで来て、その子を水汲みにやって、帰らない間に、すぐさま船を出して逃げ去った。さて火明命は、水を汲んで帰ってきて、船が出て去ってゆくのを見て大いに怨み怒った。それで風波をまき起こしてその船に追い迫った。 父神の船は前に進むことが出来ないで、ついに打ちこわされた。…以下略

大汝命は大己貴命で、天火明命が大己貴命を酷い目に遭わせるところなど、中山神社の話とよく似ています。中山神社の場合は中山大神(鏡作命)が大己貴命に土地を譲らせたことになりますが、天火明命は鏡ですからほぼ同じと言えるでしょう。

一方、「丹後風土記残欠」の志楽郷の項にも、大穴持命(大己貴命)と天火明命のやり取りが見られます。それは志楽の地名由来譚となっており、少彦名命、大穴持命が各地を巡覧し、高志の國に至ったときに、天火明神を召して「お前がこの国を統治せよ」と命じ、天火明神は大いに喜んで、「永母也青雲の志良久国(ながくもや、あおくものしらくのくに)」と答えたので、志楽、と言う。とありました。

内容は異なるものの、大己貴命と天火明命のやり取りと言う意味では「播磨国風土記」と同じで共通性はあります。中山神社の創建譚は大己貴命が鏡作命に土地を譲った話。「丹後風土記残欠」は大己貴命が天火明命に土地を譲った話。「播磨国風土記」は大己貴命が天火明命から逃げようとして酷い目にあった話。この三つの話には共通するものがありそうです。

中山神社や播磨国の伝説の背後には、因幡国から一旦大和に入った伊福部氏が吉備津彦命に率いられ播磨国から吉備国へと進軍した事実があると推定されるのです。ここで、尾張氏国外発祥説の中には吉備・播磨発祥説がある点に思い至りました。

尾張氏吉備・播磨発祥説の詳細はもっと後の回で検討する予定ですが、一例を挙げてみます。吉備国には尾針神社が鎮座しており、祭神は天火明命となっています。社名と祭神を見る限りでは、誰でも尾張氏系の神社と思うはずです。同社概要は以下の岡山県神社庁ホームページを参照ください。
http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01091

ところがです。ホームページには以下のように記載されています。

また、ご鎮座地一帯は、往古「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地で、その祖神「天火明命」を奉斎し、創祀したと言われている。

同社の由緒からしても、尾針神社は伊福部氏の関連であり尾張氏は関係ないと理解されます。問題は社名に尾針とある点で、同地に入った伊福部氏には二系列あると考えます。最初に吉備津彦に率いられて吉備に入ったのが因幡国を中心とした山陰の伊福部氏。かなり時代が下り、美濃・尾張に定着し天火明命が祖神として確定した後に移住した伊福部氏。この二つ伊福部氏が入植したと考えれば尾針神社の社名問題は解消されるでしょう。鎮座地が御野郡であるのは美濃との関係も物語っているように思えます。

因幡国を中心とした山陰の伊福部氏は美濃・尾張の伊福部氏と異なり、大己貴命が祖神となっています。吉備津彦に率いられた山陰の伊福部氏が吉備に入り、当初は大己貴命を祀っていたものの、後に天火明命を奉じる美濃・尾張系の伊福部氏が入植したことで、大己貴命と天火明命の間で土地を譲るなどの伝説が成立したものと思われます。そうした要素は上記したように、中山神社の伝承や丹後の「丹後風土記残欠」にも見られます。

以上から、伊福部氏の動きが尾張氏のものと誤認され尾張氏吉備・播磨発祥説が唱えられたと理解されます。尾張氏吉備・播磨発祥説の背後にあるものは伊福部氏だったのです。南宮大社に関連する検討があちこちに飛んで収拾がつかなくなりそうなので、この辺で切り上げます。

美濃において伊福部氏に関連する神社は、岐阜県安八郡安八町牧905番地に鎮座する伊富神社、愛知県一宮市木曽川町門間字北屋敷3714に鎮座する伊富利部神社などがあります。伊富神社は南宮大社東南の揖斐川と長良川に挟まれた位置に鎮座し、伊富利部神社は伊富神社の東、長良川と木曽川を越えた位置に鎮座しています。その動きは、明らかに尾張国一宮である真清田神社方面を目指しているのです。

では、遠征部隊の全員がこのまま東に進んで大垣市辺りに出て、次に東南に進路を取り、安八郡方面へと向かうのでしょうか?多分違うと思われます。犬山市の東之宮古墳からは鏡作坐天照御魂神社で祀られる三角縁神獣鏡の同笵鏡(同じ鋳型または原型から作られた鏡)が出土していました。

この事実から、遠征部隊は大垣市辺りで東南に向かう部隊と、犬山市方面に向かう部隊の二手に分かれたと推察されます。最終目的地はいずれも尾張国ですが、二手に分かれた上で西と東から尾張に入ることになり、大和王権が尾張を掌握する上で優れて戦略的な動きのようにも感じられます。

と言うことで、犬山市方面隊の移動ルートを事前に推測してみます。以前にも書きましたが、彼らは後代の東山道にほぼ沿って移動したものと思われます。その場合、大垣市から一旦北東に向かい、揖斐川を渡り、揖斐郡大野町を過ぎて根尾川を渡り、少し東南に進路を変えて岐阜市に入り、長良川を渡り各務原市を抜け、木曽川を渡って犬山市に入ることになりそうです。

一宮市方面隊の方向性は明確なので、その追求は後に回し、犬山市方面隊の動きを追ってみます。うまくいくか保証の限りではありませんが…。

         尾張氏の謎を解く その103に続く
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酔石亭主

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