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尾張氏の謎を解く その103

尾張氏の謎を解く
10 /11 2015

今回は彦坐王率いる犬山市方面隊の動きを探っていきます。不破地峡帯を越えた美濃・尾張遠征部隊は古代東山道にほぼ沿った形で移動していったと推定されます。垂井町の北側には美濃国府跡があり、南宮御旅神社の少し南の境内地に正殿部分が重なっています。そこからずっと南に下ると南宮大社の鎮座地となりますので、美濃国府と美濃国一宮である南宮大社の存在は連動していると考えられ、国府の南に鎮座するから南宮との説が出たのでしょう。


南宮御旅神社と美濃国府跡の位置を示すグーグル画像。

美濃国府に関しては以下に詳しいので参照ください。
http://komatsu0513.heteml.jp/mino.html

東山道はどんなルートになっていたのか不明ですが、美濃国分寺跡の前を東に進み、奇妙な名前の青墓町や昼飯古墳を過ぎて赤坂金生山の前を抜けていくのではないでしょうか?現在で言えば、216号線とそこから分岐する216号線の旧道に沿っていると推定されます。


位置関係を示すグーグル地図画像。

美濃赤坂を過ぎそのまま東に向かうと思いきや、東山道は北東に方向を変えます。揖斐川の手前に神戸の地名があることから、この辺りで渡河したのでしょう。池田町は既に見てきたように大海皇子(天武天皇)の領地だったことから、ルートが北東に変わったようにも思えますが、彦坐王の時代にそうした点は関係ありません。

縄文時代の濃尾平野はほとんどが海の底だったとされ、彦坐王の時代にも下流部分は川幅が広く、その何倍もの湿地帯があってとても渡河できる状態ではなかったはずです。このため渡河可能な上流部に向かう必要があり、北東に進路を変えたのではないでしょうか?

揖斐川を渡ると根尾川と揖斐川に挟まれ、北側は山地となった三角形の平野部に至ります。現在の大野町で、岐阜県揖斐郡大野町郡家(ぐげ)が東山道の大野駅所在地とされています。郡家は郡衙、郡院とも言って、郡の政務を司る役所を意味します。現在の郡家をグーグル画像で見てもそれらしき痕跡は確認できません。本当に彦坐王はこの辺りを通過したのでしょうか?


郡家の位置を示すグーグル画像。

何か痕跡がないか周辺を探してみます。郡家の北西には領家の地名があり郡家との関係性はありそうです。郡家の南西をチェックしてみます。すると、大野町立南小の東側に古墳らしきものが見えています。グーグル画像を拡大して確認ください。なぜこんな場所にかなり大規模な古墳群があるのでしょう?ここは彦坐王の時代における交通の要衝だったので、かなりの権力を持った首長がいて、その跡地付近が東山道の経路(大野駅所在地)になったとは考えられないでしょうか?もちろん古墳の築造年代が7世紀辺りであればそうした推定は成立しませんが…。


小磯古墳群の位置を示すグーグル画像。

画像で南小の北側に位置するのが亀山古墳、その東側に位置するのが北山古墳。北山古墳の南側に位置するのが南山古墳となります。

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北山古墳です。

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北山古墳敷地前にある解説板。画像サイズを大きくしています。

4世紀初頭から5世紀前半にかけて築造されたとあります。4世紀初頭は彦坐王の時代とほぼ重なっていること、古墳からは数多くの銅鏡や直刀片、鉄の鏃、鉄の斧などが出土していることから、彦坐王の移動と関係している可能性は高そうです。ただ最も古い笹山古墳が滅失しているのは残念です。

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北山古墳の登り口。現在は神社が鎮座しています。

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頂上部に鎮座する八幡神社。

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南山古墳です。やや形が崩れています。

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亀山古墳。

上磯古墳群の詳細は以下の大野町ホームページを参照ください。
http://www.town-ono.jp/0000000493.html

彦坐王の美濃・尾張遠征部隊は大野町郡家にまで至ったことにして(まだ二方面には分かれていない)、南宮大社の東、岐阜県大垣市荒尾町1283-1に鎮座する御首神社(みくびじんじゃ)を見に行きます。御首とは何ともただならぬ雰囲気漂う社名です。

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鳥居です。

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境内です。

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拝殿。

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拝殿をズーム。

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解説板。画像サイズを大きくしています。

解説板とほぼ同じですが、岐阜県神社庁のホームページを参照してみましょう。

当社は大垣市荒尾町に鎮座しており桓武天皇六代の皇胤平将門公の御神霊をお祀りしている。今から約1000年前、平将門は時の朝廷の政策に憤りをおぼえ乱(天慶の乱)を起こした。しかし藤原秀郷・平貞盛等に鎮められ将門は捕らえられ首を討たれた。その首は京に送られさらし首となったが、故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛び立った。この異変を知り美濃国南宮神社では、将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に坐す隼人神が矢をつがえ東に飛びゆく将門の首を射落とした。(その時、隼人神の射た神矢が飛んで行った道筋を矢の通った道であるとして、現在の大垣市矢道町がある。)この首が落ちた荒尾の地に将門公を神として崇め祀ることによって、再びその首が関東に戻らぬようその怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたのが当御首神社であると伝えられている。

ホームページは以下となります。
http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=1964&shrname=%E2%98%85%E5%BE%A1%E9%A6%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%98%85

おどろおどろしい社名を持つ御首神社は、怨霊と化した平将門の御魂を鎮める目的で創建された神社でした。でも、将門の首は東京の大手町まで飛んで行ったはずですが、この辺の関係はどうなっているのでしょう?

そうした疑問はさて置き、同社の相殿には、南宮神社(金山彦命)、西宮神社(蛭子命)が祀られています。この南宮神社は平将門伝説に関連すると思われ、時代的にはずっと新しいものとなりそうです。

南宮大社から分祀された南宮神社を調べてみると、関市や加茂郡、土岐市、瑞浪市、恵那市、下呂市金山町などに多数鎮座しており、鍛冶や鉱山に関係する地域に勧請されたものと推定されます。これらも時代的には新しそうで、彦坐王の動きとは無関係と思われます。

            尾張氏の謎を解く その104に続く
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酔石亭主

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