尾張氏の謎を解く その137


今回は海部郡伊福郷(現在のあま市七宝町伊福宮東)に鎮座する伊福部神社を見ていきます。鎮座地の地名が海部郡伊福郷とは、海部氏と伊福部氏を合体させたように見えて面白いですね。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

ここは尾張において、史料面は別として伊福部氏の痕跡を具体的に見られる南限となり、尾張氏の謎に関連する決定的な情報でも得られればと期待されます。決定的な情報とは、大和国葛城山山麓の高尾張邑から尾張に来たのは尾張氏ではなく伊福部氏であると言う酔石亭主の主張の根拠となる情報を意味します。言い換えれば、尾張氏高尾張邑発祥説を否定できる情報となります。もちろん今までの検討で、ほぼ否定できる状態にまで至ってはいますが…。と言うことで、早速行ってみましょう。

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鳥居です。

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赤鳥居。

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解説板。

随分簡単な由緒で、祭神は伊福部氏が敬愛する日本武尊とのことです。ちょっと理解しがたいですね。尾張における日本武尊は尾張氏との関係が主体で、彼が死ぬ原因となったのが伊吹山ですから、そこで何らかの関係があるのかもしれません。祭神の問題は少し別の視点から見ていく必要がありそうです。

例えば、美濃から尾張における日本武尊の実体は彦坐王と考えたらどうでしょう?日本武尊の名前は記紀を見ても明らかなように、彼が討伐した首長から献上された尊号で、大和国の勇猛な人を意味しています。そうした尊号に相応しい人物の実体が彦坐王であっても不自然ではないし、伊福部氏は彼に率いられて尾張まで来たのですから、間違いなく敬愛の対象となるはずです。

ただ、日本武尊の名前は特定の人物を指す固有名詞ではなく、彦坐王の名前もまた男の王と言う意味であり、両者の名前は普通名詞的なものでしかありません。どちらの側から見ても相手側を特定できないとは、古代史は本当にややこしいですね。ここでは一応、日本武尊の実体は彦坐王としておきます。

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舞殿。

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御神木。

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拝殿。

鏡が掛けられています。伊富岐神社や南宮大社と同じで、伊福部氏が鏡(=天火明命)を奉じて尾張にまで来たことを象徴しているのかもしれません。

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拝殿に掛けられた鏡。

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道路側から見た本殿。

さて、もっと詳しい解説がないか探してみると、拝殿に向かって右手の隅にありました。

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解説板。こちらも簡単な内容です。解説板の背後にある碑をチェックしましょう。

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石碑。

神鳳抄所載 伊福部御厨舊地 明治二十二年三月建之 正七位 角田忠行書」と刻まれています。神鳳抄はWikiによれば、「伊勢神宮(内宮および外宮)の領地の諸国一覧表である。」とのことです。この背後に大きな石碑が設置されていました。一体何が書かれているのでしょう?

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由緒が刻まれた石碑。

文字は薄れており、平仮名も崩してあるので実に読みにくいのですが、正しく驚愕の内容が刻まれていました。ネットを検索してもこの内容に触れたものはないようです。酔石亭主の能力では以下の文面が正確である保証はありませんが、とにかく書き出してみます。

愛知縣知事後五位勝間田稔篆額

この尾張国は神武天皇の御世天火明命の御子天香山命の住され給ひし国なりし由言伝えて、御裔の諸氏あまた有る中に伊福部と言ふあり。姓氏録に笛吹連(は)天火明命の後也。また伊福部宿祢(は)尾張連同祖天火明命の後也と見ゆ。伊福は気吹の假字にて笛に因れる名あり。この大神(天火明命)神代に笛を吹くことを始め給ひし御功によりて伊福天神とも申し其御裔を伊福部氏といふ。さてこの伊麥村(いむぎむら)は倭名抄なる伊福郷にて既に神鳳抄にも伊福部御厨と見えたるを、その後訛りて伊麥郷と転れるなり。もと伊福部氏の住まひし地なるが故にこれを地名となれるにて其の館跡を今に殿垣内といふ。その傍遠祖天火明命を祀られたり。本国神明帳に正四位下伊福部天神といふこれなり。斯くこの由緒深き名所の漸く失へ行かんことを嘆きて、今たびその郷なる古へ慕ふ忠誠人ら相謀りて其事石文に誌記して後世に伝へまくを其由一言をと請はるるままに、かかるわざに心を用ふる性にしあれば諾ひ頓に筆をとりてかかなむ。
明治二十二年三月 熱田神宮宮司正七位角田忠行


アッと驚くような内容ですが、以下現代文で簡略に書きます。

尾張国は神武天皇の御世に天火明命の御子天香山命が住まわれた国との言い伝えがあり、多くの子孫の中に伊福部がいる。姓氏録に笛吹連は天火明命の後とある。また伊福部宿祢は尾張連同祖天火明命の後也と書かれている。伊福は気吹の仮字であり笛にちなむ名である。この大神(天火明命)が神代に笛を吹くことを始められた功績により、伊福天神とも申して、その子孫を伊福部氏と言う。さてこの伊麥村(いむぎむら)は倭名抄にある伊福郷で、神鳳抄にも伊福部御厨と書かれているものを、その後訛って伊麥郷に転訛した。元は伊福部氏の居住した地であることから、これが地名となり、その館跡を今は殿垣内と言う。その傍に遠祖となる天火明命を祀った。本国神明帳に正四位下伊福部天神と言うのがこれに当たる。

内容をじっくり検討していきます。まずこの由緒は熱田神宮の宮司である角田忠行が書いたものでした。角田忠行に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。なかなかの大人物です。

角田忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年12月6日) - 大正7年(1918年)12月15日)は日本の国学者、神官。通称は由三郎。信濃国佐久郡長土呂村(現長野県佐久市)の神官角田忠守の子として生まれる。父は岩村田藩主の侍講、藩校達道館教授を務め、終身禄を受け藩士身分となった。
安政2年(1855年)脱藩して江戸に出奔し、藤田東湖に入門。その後は国学者平田鐵胤の門人となって塾の運営に関わった。文久3年(1863年)上洛して等持院にある足利三代木像梟首事件に首謀者の一人として関与し、幕吏に追われて伊那谷に潜伏。慶応3年(1867年)米川信濃と変名し澤為量に仕える。戊辰戦争では秋田藩の官軍恭順に尽力した。
維新後は明治政府に出仕し皇学所監察、学制取調御用掛、大学奏任などを務め、賀茂御祖神社少宮司、廣田神社宮司を経て、明治13年(1880年)熱田神宮大宮司となり、大正3年(1914年)までその職を務めた。

熱田神宮は三種の神器の一つを祀っていることから、伊勢神宮と同格であるべきとの主張があり明治時代の初めに伊勢神宮に準じた待遇にするよう政府に請願していますが、この時点では却下されています。その後大宮司となった角田忠行が同様の請願を行い明治22年(1889年)までに伊勢神宮に準じることが認められました。それと時を同じくして、伊福部神社の由緒が設置されたものと考えられます。全くすごい人物ですね。では由緒内容の検討に入りましょう。

まず驚いたのが、書かれた内容が基本的に笛吹連に関連していることです。伊福部神社の由緒は、「その9」にて書いた葛木坐火雷神社の由緒と明らかに照応していると理解されます。対比のため葛木坐火雷神社由緒の主要部分を以下に記載します。詳細は「その9」を参照ください。

天香山命ハ石凝姥命トモ奉申リ天照皇大神天岩屋戸ニ籠リ坐セル時天香久山ノ天波波迦木又竹ヲ切リ取リ笛ヲ造リ吹鳴シ亦金ヲ堀リ八咫鏡ヲ鋳造シ皇祖ニ奉リ大御心ヲ慰メ奉リシ神ニ坐シテ音楽及鐵工業ノ祖神ニシテ此ノ御鏡ヲ伊勢神宮ノ御神体ト奉仰ルモノナリ 
社家持田家ノ家譜ニ崇神天皇ノ御代ノ十年建埴安彦兵ヲ挙ゲテ帝都ヲ襲ハントス仍テ大彦命ハ笛吹連櫂子等ヲ率ヒ奈良山ニ於テ安彦ニ軍ト戦ヒテ和韓川ノ南ニ於テ櫂子ノ射放チタル矢ハ安彦ノ胸ヲ射貫キ之ヲ斃ス故ニ賊軍降テ平定ス依テ櫂子ノ戦功ヲ賞シテ天磐笛及笛吹連姓ヲ給フ其ノ夜天皇ノ御夢ニ此ノ磐笛ヲ以テ瓊々杵尊ノ神霊ヲ祭レバ国家安寧ナランコトニヨリ當社ノ相殿ニ奉祀セラルタルト有レバ崇神天皇御宇以前ノ古社ニシテ地誌其ノ他ノ古書 笛吹神社トアルハ所謂是也


片仮名交じりの由緒なので、現代文で簡略に書きます。

天香山命は別名が石凝姥命で、天照大神が天岩屋戸に籠ったとき、天香久山の天波波迦木と竹を切り取り、笛を作って吹鳴した。また天香山命は金(一般的に鉄或いは銅)を掘り、八咫鏡を鋳造して皇祖に奉った音楽と鉄工業の祖神で、この鏡が伊勢神宮の御神体となった。(注:尾張氏の祖神であるはずの天香山命が、上記由緒では尾張氏と無関係な笛吹と鏡作部の祖神・石凝姥命の事績において語られている点が注目されます)

社家持田家の家譜によれば崇神天皇の御代の十年建埴安彦が兵を挙げた。大彦命は笛吹連櫂子(かじこ、かじし)等を率いて建埴安彦と戦い、櫂子が放った矢は安彦の胸を射抜き賊軍は降伏した。天皇は櫂子の戦功を賞して天磐笛と笛吹連の姓を与えた。その夜天皇の御夢に、この天盤笛をもって瓊瓊杵命の神霊を祀れば国家安泰ならんとの御告げがあり、命は当社の相殿に奉祀された。崇神天皇時代以前の古社として、地誌などの古書に笛吹神社と記されているのが当社である。


両社の由緒及び、伊富利部神社の由緒に「伊冨利部の連は大和葛城山麓より尾はり田の国に国郡の主として、このあたり土器野なる地に居住し、其の祖を祭り業を行へり。時代は弥生後期古墳前期頃と学者の指摘する所なり。」と書かれた部分を総合すれば、かつての大和国高尾張邑を出て天火明命(=鏡)を奉じながら尾張国に来たのは尾張氏などではなく伊福部氏であると改めて確認されます。

今回の尾張氏の謎探索における起点となった葛木坐火雷神社と、終着点である伊福部神社の由緒により謎は完全に解けたことになります。以上より、尾張氏の祖神が天火明命、天香山命であるのは伊福部氏より取り込んだものと見て間違いないと思われます。

なお、木製の解説板に書かれた伊福部神社由緒には祭神が日本武尊とあり、石碑では天火明命を祀ったと記載されています。この問題は、既に書いたように日本武尊を彦坐王と考えれば解消します。伊福部氏は鏡(天火明命)を奉じながら彦坐王に率いられ移動しました。そうした伊福部氏のありようを考慮すれば、祭神が日本武尊(=彦坐王)と天火明命の両者であっても特に違和感はないと思われます。

さらに伊福部神社の鎮座地は海部郡内であり、彦坐王に率いられた伊福部氏に丹波の海部氏の一部が同行していたと考えれば、尾張氏は伊福部氏のみならず海部氏をも取り込んだため、「尾張国熱田太神宮縁起」に「海部氏これ尾張氏の別姓なり」との記述が現れたものと推定されます。平城宮址出土の木簡には、「尾治国海郡島里人 海連赤麻呂米6斗」と言った文面も見られます。

結論部分を先に書いてしまいましたが、伊福部神社の由緒内容を具体的に見ていきます。「この尾張国は神武天皇の御世天火明命の御子天香山命の住された国との言い伝えがあり」とある最初の部分は、あくまでも伝承との前提で、尾張国に来たのは天火明命ではなく天香山命と確認される内容となっています。

姓氏録に笛吹連(は)天火明命の後也。」の部分に関して、「新撰姓氏録」には、河内国神別(天孫) 笛吹連 火明命之後也と記載あります。他の関連する内容として、河内国神別(天孫) 吹田連 火明命児天香山命之後也と記載あります。また「先代旧事本紀」の天孫本紀には、六世孫建多乎利命は笛吹連・若犬甘連らの祖とあります。これらから、笛吹連は天火明命の後裔と確認できます。(注:既に葛木坐火雷神社で確認済み)

伊福部宿祢(は)尾張連同祖天火明命の後也と見ゆ。」の部分は、「新撰姓氏録」の「京師左京神別下 伊福部宿祢 尾張連同祖 火明命之後也」によるものと思われます。既に書いたように、伊福部氏は鏡(=天火明命)を奉じて尾張に来たものの、天皇家が初期天皇家の系図を捏造するに当たり、尾張氏に加担させたため、その見返りとして尾張氏は天皇家から天火明命を祖神とすることを許されました。伊福部氏からすれば、自分たちの奉じる天火明命が尾張氏の祖神になってしまったので尾張氏同祖として朝廷に申告せざるを得ず、「新撰姓氏録」のような内容になった、と判断されます。

次がこの碑文のハイライトとなります。「伊福は気吹の假字にて笛に因れる名あり。この大神(天火明命)神代に笛を吹くことを始め給ひし御功によりて伊福天神とも申し其御裔を伊福部氏といふ。」の部分ですね。伊福は気吹の仮字で笛にちなんだ名前とのこと。さらに天火明命が神代に笛を吹き始めたので伊福天神とも言い、その子孫が伊福部氏と言うとあります。ここで笛吹連と伊福部氏がしっかり連結されました。

さらに、碑文における「正四位下伊福部天神」の表記は式内社・伊副神社(後の社宇福寺天神社)に関して、「尾張志」が「本国帳(本国神明帳)に従三位伊副天神と記し」と記載している内容に照応しています。伊福部氏が中島郡日下部郷に来て伊副天神を祀り、その後海部郡伊福郷に至って再び伊副天神を祀ったと言う経過がこの碑文から窺えるのです。(注:この場合の天神は菅原道真ではなく、天津神の意味で伊福部氏の祖先神と考えられます)

葛木坐火雷神社の由緒やホームページでは、同社社家の持田家は笛吹連櫂子の子孫で、櫂子は天火明命の後裔であり、天香山命は笛吹連の祖となっています。伊福部神社の石碑に刻まれた由緒では、伊福は笛にちなんだ名前で、天火明命が神代に笛を吹き始めたので伊福天神とも言い、その子孫が伊福部氏でした。両社のストーリー構造は全く同一と理解されることから、葛木坐火雷神社の祭祀氏族は大和岩雄氏が主張されたように伊福部氏である可能性が高くなってきます。少なくとも伊福部氏はかつて葛木坐火雷神社と何らかの関わりがあったのでしょう。

従って、高尾張邑を含む大和葛城一帯にいた伊福部氏が近江、美濃経由尾張に到来し、その一部が海部郡伊福郷にまで南下して定着、後の時代になり伊福部神社の創建に繋がったと考えられます。この見方は、酔石亭主がこれまで追求してきた基本線に完全に沿っていることになります。

次に驚かされたのは、伊福部神社の由緒を書いているのが尾張氏の最重要神社・熱田神宮の宮司である点です。天火明命が尾張氏の祖神であるなら、その点を由緒の中心に据えて書くべきなのに、天火明命は笛吹を始めた神で伊福天神とも言って子孫が伊福部氏になるとしているのですから、完全に伊福部氏を中心に据えた書き方になっています。これは熱田神宮の角田忠行宮司自身が、尾張氏の祖神は天火明命ではないと言っているに等しい内容で、酔石亭主の視点の正しさを証明している内容と言えるでしょう。

それ以降の部分は木製の解説板にあるように、伊福郷が伊麥村に変わり、由緒ある村名が変わったのを嘆いた人々が県知事に願い出て、また伊福村に戻った経緯が書かれています。なお、神社の由緒に創建年が出ていないのですが、あま市七宝町伊福弐之割36にある東光寺の縁起によれば天平2年(730年)の創建となります。

大和葛城の伊福部氏が彦坐王に率いられ、丹波から因幡にまで赴いた後、近江、美濃を経て尾張に来たとする酔石亭主推定はこれで最終確認されたことになります。以上で大収穫のあった伊福部神社は終了です。少し話は変わりますが、平田篤胤の「古史成文」には以下のように書かれています。

故れ其の伊斯許理度賣命(いしこりとめのみこと)。亦の名天香山命は、天照國照彦火明亦の名は天糠戸の神の兒、鏡作造、水主直、六人部連、五百木部連、伊福部連、檜前舎人、竹田連、竹田川邊連、笛吹連等之祖なり。

内容はデジタル化されていますので、以下のコマ51を参照ください。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0026-09304&IMG_SIZE=&IMG_NO=51

「古史成文」に関しては以下Wikipediaより引用します。

『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『風土記』などを材料とし、諸々の古典の中から伝承の異同を考察し、神代から推古天皇までの古伝を『古事記』の文体にならって補足や訂正し、平田が正説だと考える伝えを書き添えて記述する構想を練っていた。古伝に異説が多々あることを訝しく思っていた篤胤は、真の伝は必ず一つである、との見解に立ってこの『古史成文』を著した。

石凝姥命(=伊斯許理度賣命)は亦の名が天香山命で、天火明命(亦の名が天糠戸神)の子であり、鏡作造、五百木部連、伊福部連、笛吹連などの祖となります。ここには、今までに見てきた要素がほぼ全て含まれ、竹田連、竹田川邊連は竹田を一文字にすると笛になります。石凝姥命=天香山命と天糠戸神=天火明命が「古史成文」においてもほとんど伊福部氏との関連で書かれ、尾張氏の祖とされていないところがミソのように思えませんか?

本年の記事はこれで終了して、また来年も尾張氏の謎解きから始める予定です。それにしても、2014年の11月末頃から書き始め2016年に突入してしまう訳ですから、ずいぶん長い間この問題に取り組んできたことになり、感慨もひとしおと言ったところです。

                尾張氏の謎を解く その138に続く
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