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尾張氏の謎を解く その141


長く続いてきた尾張氏の謎解きも「その141」をもって終了とします。最終回は尾張氏国内発祥説を検討します。これを考える前に、尾張氏系図の乎止与命(おとよのみこと)以前の部分が後代になって付加されたもの(捏造)である点をもう一度見ていきます。と言うことで、「先代旧事本紀」の尾張氏系図から検討に入りましょう。

「先代旧事本紀」巻五の天孫本紀にはニギハヤヒの十一世孫(注:系図によって何世かは異なっています)として乎止与命が記載され、この命は、尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘の真敷刀俾(ましきとべ、下知我麻神社祭神)を妻として、一男をお生みになった。とあります。次が十二世孫・建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮・本宮の相殿神)で、この命は邇波県君(にわのあがたのきみ)の祖・大荒田(おおあらた)の娘の玉姫を妻として、二男四女をお生みになった。とあります。

乎止与命と建稲種命はその記述内容からして明らかに続いています。ところが、乎止与命はその前の十世孫と続いているような表記になっていません。乎止与命の前は単に十世孫として淡夜別命(あわやわけのみこと)から小縫命(おぬいのみこと)までの人物が書かれているだけなのです。このため、乎止与命は淡夜別命或いは小縫命の子供として一般的には考えられています。

さらに不可解なのは、巻十の国造本紀に記載された内容です。ここには尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の項目があり、成務天皇の時代に、天別・天火明命の十三世孫の乎止与命が国造に定められた。とあります。第13代の成務天皇は4世紀後半の天皇と考えられ、一方国造制度は正確には不明ですが、5世紀から6世紀頃に定められたとされています。よって小止与命が国造になるのはおかしな話です。

この点はまあ目をつぶるとしても、乎止与命の子となる建稲種命は第12代景行天皇の時代の人物で、日本武尊の副将軍となって東国征伐に参加しています。第13代の成務天皇期に登場した乎止与命の子である建稲種命が、第12代景行天皇の時代に活躍したとは考えられず、大きな矛盾が生じています。

このように、同じ史料で乎止与命の前後に幾つもの混乱が見られますが、最も大きな問題は、やはり初代尾張国造とされる乎止与命がその前と繋がっていない点でしょう。これは、乎止与命以前の尾張氏系図が創作(捏造)されたものであることを物語っていると見て間違いなさそうです。

以上から、尾張氏に関しては初代尾張国造(とされる)乎止与命を以って始まりとすべきとなりそうです。この時点で尾張南部の年魚市潟周辺地域を拠点とする集団は尾張氏を名乗ったことになります。では、尾張氏発祥の地はどこになるのでしょう?

現在の熱田神宮境内摂社に上知我麻神社があり、祭神は乎止与命になります。乎止与命が実質的な尾張氏初代であり、熱田にて祀られているなら、当然ここが尾張氏の発祥地となりそうですが、そうではありません。上知我麻神社は当初星崎の星宮社周辺に鎮座しており、この地は笠寺台地にありかつては松炬島と呼ばれていました。また社名の知我麻は千竈(ちかま)で製塩の窯が数多くあることを意味し笠寺台地に地名が残っています。

同社は、松炬島から大化3年(647年)に熱田の地に勧請されています。下知我麻神社と松姤社も同様に大化3年に遷座していることから、尾張氏はこの時期に笠寺台地や氷上邑(名古屋市緑区大高町火上山)から大挙して熱田台地に移動したものと考えられます。


松炬島(現在の笠寺台地)の位置を示すグーグル画像。呼続から星崎にかけての一帯が松炬島です。

かつては島状態でした。画像を拡大すると現在でも川に囲まれ、かつての雰囲気が多少は感じられます。


氷上邑の位置を示すグーグル地図画像。

松炬島に関しては「熱田神宮の謎を解く その9」、氷上邑に鎮座する氷上姉子神社に関しては「熱田神宮の謎を解く その10」にて詳しく書いていますので参照ください。

では、肝心要の熱田神宮はどうなのでしょう?熱田神宮史料「朱鳥官符」には、熱田大明神が尾張国の愛智郡の衛崎の松炬嶋の機綾村に大化二年丁未、歳五月一日、天下して鎮座した、と書かれています。

「朱鳥官符」はデジタル化されており、原文は以下のコマ番号5を参照ください。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0357-013206&IMG_SIZE=&IMG_NO=5

大化2年は646年ですが、年代に関して干支を採れば大化3年となり、上知我麻神社の創建と同じになるので、やはり647年に笠寺台地や大高を本貫地としていた尾張氏が大挙して熱田台地に移動したと想定されます。熱田にも松炬嶋の地名が含まれていますが、これは笠寺台地=松炬島から持ち込んだ地名と考えられます。松姤社の松姤は松炬なので、ここからも地名の持ち込みが窺えます。

「朱鳥官符」に書かれた熱田大明神とは天照大神ではなく草薙神剣で、宮簀媛命(宮主媛命で、氷上姉子神社の巫女と考えられ、特定の個人を指すものではなく巫女を意味する普通名詞)がこの時点で草薙神剣を氷上姉子神社から熱田に移したと考えられます。

要するに、熱田神宮の創建は宮簀媛命が蓬莱の地である熱田台地に草薙神剣を遷した孝徳天皇の大化3年(647年)となるのです。裏付けとなるのは二次資料ですが名古屋都市センターの研究報告書(23P)に以下の記事があります。

宮簀媛命は、日本武尊から託された神剣を守るために氷上邑(ひかみむら、尾張氏の本拠地・現在の名古屋市緑区大高町火上山)に熱田神宮の元宮となる氷上姉子神社を創建した。その後、年齢を重ねてきたことを憂えた宮簀媛命は、神剣を末永く祀るにふさわしい地を尾張一族に諮り、大化3年(647)、かねてから尾張氏の斎場であった蓬莱の地(現在の名古屋市熱田区神宮一丁目)に移され、名称も改められた(「熱田神宮」が正式とされたのは明治元年)。 宮簀媛命は尾張国造乎止世命の娘であったことから、この地方に土着して勢力を持ってい た尾張氏一族は、神主や祝(はふり)などといった神職を司り幾世代もこの神社を守り続けたのだった。

名古屋都市センターの研究報告書は以下を参照ください。
http://www.nui.or.jp/user/media/document/investigation/h22/shimin1.pdf

熱田神宮の創建は同社ホームページでは景行天皇の43年(およそ1900年前)となっているものの、実際には1369年前でしかないと理解されます。名古屋都市センターの研究報告書は二次資料なので、この裏付けとなる史料を探しましたが、残念ながら見当たりません。ただ、記載内容は上、下知我麻神社及び松姤社の遷座と完全に連動していることから、正しいものだと推定されます。「朱鳥官符」の記述内容もまた研究報告書の記事の正しさを証明するものとなっています。

以上から、尾張氏の実質的初代である乎止与命は松炬島(笠寺台地)にいたことになり、ここが尾張氏発祥の地と考えても違和感はありません。さらに「熱田神宮の謎を解く その4」で書いたように、松姤社は宮簀媛命と日本武尊の出会いの場であるとされていますが、松姤は松炬であり、出会いの場も松炬島であることを論証しています。これらを総合すれば、尾張氏の発祥地は松炬島及び氷上邑とならざるを得ないでしょう。もう少し広く取れば、鳴海も含む年魚市潟周辺地域となるはずです。

(注:「熱田神宮の謎を解く その45」以降で尾張氏国内発祥説の各説について書いています。内容的には粗雑で今から思えば間違いもありますが、参考としてください。尾張氏尾張国内発祥説は各説があっても、尾張氏の始まりを乎止与命とすれば年魚市潟周辺地域とならざるを得ません)

乎止与命がいつの時代の人物か想定するのは困難ですが、国造制度が始まったころと見れば、早くても5世紀以降となります。400年代になって年魚市潟周辺で勢力を増してきた尾張氏は、5世紀以降朝廷の東国支配の先兵になり、伊勢湾の沿岸警備、船舶の提供、人員の提供など様々な支援を行って朝廷との関係を強化し、最終的には尾張国全体をほぼその支配下に置いたものと思われます。

以上で尾張氏発祥地の謎解きは終了ですとしたいのですが、実は自分で書いた内容に納得のいかない部分も残っています。例えば、尾張氏は朝廷に対する貢献が大であったので、天皇家の系図捏造と言う極秘事項にも加担でき、初期天皇や崇神天皇の皇妃が尾張氏から出た形の系図作成も許され(これは尾張氏が大和にいたと見せかけるためのものですが…)、さらに天火明命や天香山命を祖神とすることが可能になったと書いています。

ところがです。以前書いたように、天智天皇の668年、熱田神宮の草薙神剣が新羅僧道行に奪われました。道行は捕まり神剣は熱田神宮に戻されると思いきや、宮中預かりとなってしまうのです。この事件は三種の神器の一つである神剣を自分たちのものにしたかった朝廷側の捏造と考えられます。

天智天皇の時代はそうであったとしても、次の代は天武天皇となります。もうご承知のように、尾張氏は672年の壬申の乱において大海人皇子を支援しました。そのお蔭で大海人皇子は戦いに勝利し天皇に即位できたのです。だとすれば、大海人皇子は天皇に即位した時点で神剣を尾張氏に返還していなければなりません。

ところが実際に返還されたのは朱鳥元年(686年)で、天武天皇の即位からかなりの年月が経過しています。返還の理由も妙なもので、神剣の祟りにより天皇が病に倒れたからとされています。つまり天武天皇の即位から崩御までの間、神剣は返されることなく宮中にあったことになります。

この経緯を見ると、朝廷は尾張氏を軽く見ていたと思わざるを得ません。また壬申の乱において、尾張大隅は自分の私邸を大海人皇子の行宮に提供し軍事面での支援もしています。ところが、「日本書紀」における壬申の乱の記述に彼の名前は出てこないのです。

あれこれ探してみると、天武天皇13年(684年)12月2日では、尾張連など連姓の50氏が宿禰の姓を与えられたとありますが、50氏の中の一つとしての扱いです。持統天皇10年(696年)5月8日には、天皇は尾張宿禰大隅に直広肆の位と水田40町を与えたとあります。しかし壬申の乱の功績により、とは書かれていません。

彼の名前が壬申の乱に関係して出てくるのは、「続日本紀」天平宝字元年(757年)12月9日条で以下のような内容となっています。

従五位上尾治宿禰大隅壬申年功田卅町。淡海朝廷諒陰之際。義興警蹕。潜出関東。于時、大隅参迎奉導。掃清私第。遂作行宮。供助軍資。其功実重。准大不及。比中有余。依令上功。合伝三世。

大意は、大海人皇子が吉野を脱出して関東(鈴鹿の関の東)に出た際、尾張大隅が出迎えて先導し、自分の私邸を掃き清め行宮(不破関近くの野上行宮)として提供し、軍事物資も支援した。その功績は重いが、大功と言うほどではなく、中程度よりは大きいので、上功に当たり、三世に功田を伝える。と言ったところでしょうか。

「日本書紀」において尾張大隅はほぼ無視された形となっており、「続日本紀」でようやく壬申の乱に関係する記述となりますが、功の大小が議論され明らかに軽く扱われています。記紀の編纂は天武天皇の命によりスタートしたものと考えられるので、この時点で初期天皇家の系図捏造が行われ、その作業に尾張氏も加担したとすると、酔石亭主の仮説は史書の内容に矛盾する結果となってしまいます。

ただ、「古事記」の序には舊辞の誤り違えるのを惜しみ、先紀の誤りが混じるのを正すため撰録して献上させた、と言った文面があり、天武天皇や天智天皇以前の段階で既に初期天皇家の系図捏造と尾張氏の加担が実行されていた可能性は十分にあります。と言うか、天武天皇は帝紀(先紀)・旧辞自体の改竄を意図していたとも考えられますので、ここからも初期天皇家の系図捏造は天武天皇以前の可能性が高そうです。

その後の尾張氏は正史に登場することもなく、どうやら熱田神宮の大宮司職を務めるだけの存在になってしまったようです。ところがその大宮司職も平安時代後期に藤原南家の藤原季範に譲ってしまい、尾張氏は祝詞師としての田島氏と惣検校の馬場氏になってしまうのです。Wikiには藤原季範に関して次のように書かれていました。

季範の母の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。

この時点で尾張氏の命脈は絶たれたも同然と思われます。PDFのデータで『「熱田神宮大宮司千秋家譜」について』があり、天照大神に始まる系譜が掲載されているので参照ください。
www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf

「その137」にて伊福部神社の由緒を書かれた熱田神宮の大宮司・角田忠行氏に関して書いていますが、同氏は「熱田神宮略記」を著されており、近代デジタルライブラリで読むことができます。わかりやすく纏められているので、興味のある方は以下を参照ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1096390

尾張氏に関して別の視点からも見ていきます。熱田神宮の主祭神に関しては「熱田神宮略記」のコマ番号11に記載あり、「天璽 草薙大御剱 一座」となっていました。また相殿神として天照大神、スサノオ、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五座が祀られています。ところが現在の熱田神宮ホームページでは以下の記載となっています。

熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)・御神体としてよらせられる、天照大神のことです。

相殿神は「熱田神宮略記」と同じになっています。熱田神宮ホームページは以下を参照ください。
https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/gosaijin.html

上記から主祭神が「熱田神宮略記」と現在のホームページとでは異なっていると理解されます。現在のホームページでは主祭神が熱田大神で、熱田大神とは草薙神剣を霊代とする天照大神とのこと。この内容には理解しがたいものがあります。天照大神の霊代は鏡のはずで草薙神剣ではないからです。

また主祭神が天照大神なら、相殿神として祀られている天照大神はどうなるのでしょう?熱田神宮の本宮に天照大神が主祭神として、また相殿神として祀られているなど、どうにも理解できそうにありません。相当無理な操作をした結果、矛盾を来すような形になったのではと思われます。

背景を調べてみると、尾張造であった熱田神宮の社殿が明治26年に神明造に変っており、これに伴って祭神のありようにも変化が起きたと推定されます。具体的には、明治時代に大宮司の角田氏が熱田神宮の地位の向上を目的として、社殿を伊勢神宮と同じ形式にするよう政府に働きかけた結果、神明造に変わったとのことです。

角田氏の尽力により熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟としての地位を得ました。けれども、その代償は大きく主祭神は天照大神となってしまい、尾張氏の最重要神社としてのありようは薄められてしまったのです。

よく理解できないのは、社殿を神明造に変えた(この時点で主祭神も天照大神に変えたはず)のは当時の熱田神宮大宮司である角田氏のはずなのに、同氏が著した「熱田神宮略記」では祭神を草薙大御剱としている点です。背後に何があったのか現時点では不明ですが、角田氏としては祭神の矛盾には目をつむり、熱田神宮の地位向上を優先したのかもしれません。或いは、角田氏が大宮司を退任した後に祭神が変更されたのでしょうか?

角田氏の意図は別としても、結果的に尾張氏にとって重要な神社の主祭神が天孫系になってしまった訳です。天武天皇以降の朝廷が尾張氏を軽く見ていた点は既に書いていますが、この状況が近代になっても続いているように思え、ちょっと複雑な気分になりました。利用されて捨てられて、は現代の人間社会においてもしばしば見られる現象です。尾張氏も天皇家から利用され、用が済んだら打ち捨てられた氏族だったのかもしれません。

何となく悲哀を感じさせるお話になったところで尾張氏の謎解きは終了とします。結論はありきたりの尾張氏尾張国内発祥説となりますが、その論証は独自の視点で書けたのではないかと思っています。
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