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熊野神社の続き


境内に入ると正面に拝殿が見えています。

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拝殿です。新しそうですが、本当に立派な社殿です。

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拝殿をもう一枚。この拝殿は奥行きもありそうです。

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拝殿を横から撮影。本殿がほんの僅か見えています。

これだけの社殿を持つ神社であれば、さぞ奥の深い由緒があるのでしょう。チェックしたところ境内には解説石板がありました。

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解説石板。主要部分は以下に記載します。

當神社の創建については詳かではないが、古記録によれば「永禄三年五月(一五六〇年)今川の家臣であった久能清兵衛宗政が駿府久能山を出る時弥陀・薬師・観音の三尊を所持していたが、加木屋村に足をとどめた宗政はこの観音を氏神神体として當時、宗政の家屋の戌亥に當って氏神本社があったが、この森へ移し奉り御徐地に願って熊野之社宮と崇め奉る」と記述されている。

今一つ理解できませんが、順に内容を見ていきます。永禄三年五月と言えば、桶狭間の戦いがあったときの話です。この戦いは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国の桶狭間で行われており、熊野神社の創建は桶狭間の戦いが関係していると理解されます。450年以上の歴史がある神社と判明しました。

もう一つ気になる点があります。久能清兵衛宗政が駿府久能山を出る時、とありますが、久能山の久能と言えば、秦川勝の子あるいは孫とされる秦久能の存在が頭に浮かんできます。秦久能に関しては「東海の秦氏 その3」で書いていますので、参照ください。

久能清兵衛宗政が秦久能の子孫だったら面白いですね。熊野神社に近い東海市富木島町(尾州知多郡富田荘)には藤原秦氏兵曹道武と言う秦氏系の人物もいました。この人物に関しても以下で書いていますので、参照ください。どうも東海市のこの一帯は秦氏関係の匂いがするようです。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20130522.html

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境内のクヌギの古木。

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根元を撮影。巨木とまでは言えないものの、かなりの存在感があります。

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逆方向からクヌギを撮影。

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奉納されたおびただしい数の酒樽。全部國盛です。

ところで、久能清兵衛宗政は桶狭間の合戦で今川義元が敗れた後に加木屋に来たのでしょうか?或いは合戦で敗れ一度駿河に戻ってから改めて加木屋に来たのでしょうか?多分、合戦に弥陀・薬師・観音の三尊を持って参加し、今川勢が敗れたので加木屋に逃げたのではないかと想像します。仮にそうだとしても、仏様を氏神にするというのはよく理解できません。仏様は別に安置し、既にあった熊野神社を奉斎したとも考えられます。熊野神社の近くには普済寺と言う大きなお寺もあるので後日立ち寄ってみます。何かヒントが得られるかもしれません。

なお熊野神社のホームページには、「然し熊野権現の造営とか熊野三社と崇め奉るとあるし「熊野三社宮」の社名額が現存しているので、紀州(今の和歌山県)熊野から勧請されたものであると考えられる」とあるので、熊野神社自体に関しては、やはり桶狭間の合戦よりずっと以前から鎮座していたと考えられます。

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