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邪馬台国と大和王権の謎を解く その24

邪馬台国と大和王権の謎を解く
09 /11 2016

このシリーズを一旦お休みしてから、かなりの時間が経過してしまいました。ややこしそうな部分は前回まででほぼ終わっていますので、今回からはもう少し気楽に見ていきたいと思います。では、纏向遺跡の中心部から東へと向かいましょう。その先にも様々な見どころがあります。線路を渡ってすぐの交差点に鳥居があり、正一位穴師大明神と刻まれた石柱が建っていました。この道のずっと先の行き止まりが、穴師坐兵主神社(大兵主神社)の鎮座地となるので、これが同社の一の鳥居に当たると考えられます。

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鳥居。


今回訪問する一帯の位置を示すグーグル地図画像。

地図画像では鳥居の位置は巻向駅北東の交差点となります。オレンジ色に塗られた169号線と交差する辻北の信号を越えて少し東に歩くと、垂仁天皇纏向珠城宮跡の石柱が建っていました。

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石柱。隣は砂利置き場になっており宮殿跡としては寂しい限りです。

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東側を撮影すれば何とか見られます。

崇神天皇に続く第11代垂仁天皇は纏向の地を見下ろすような場所に宮殿を築いたことになります。問題は、垂仁天皇の墓が纏向の地からかけ離れていることです。垂仁天皇陵は奈良県奈良市尼ケ辻町字西池にある宝来山古墳(ほうらいやまこふん)だとされています。また、天皇と関係の深い田道間守命塚が周濠の東側にあるとのこと。宝来山古墳の墳丘長は227mで古代天皇の陵に相応しい巨大さです。けれども、築造が5世紀前半とされているので、4世紀前半の人物と考えられる垂仁天皇の時代から1世紀も後の築造となってしまい、宮内庁の治定には疑問があります。


垂仁天皇陵(とされる古墳)の位置を示すグーグル画像。

では、どれが実際の垂仁天皇陵なのでしょう?天皇陵の発掘は基本的に禁止されており、発掘できた古墳にしても、天皇の名前を記した遺物など存在せず、不明としか言いようがありません。古代初期の大型古墳に関しては後で検討してみることとします。

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西側は大和盆地が広がります。

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北側は景行天皇陵となっています。

さらに進むと古墳群が現れました。

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珠城山古墳群です。

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解説板。画像サイズを大きくしています。古墳時代後期の古墳とのことで新しいものです。

珠城山古墳群は3基の小規模古墳によって構成されているようです。詳細は以下の桜井市観光協会ホームページを参照ください。
http://www.sakurai-kanko.com/%E5%90%8D%E6%89%80%E6%97%A7%E8%B7%A1/%E5%B1%B1%E3%81%AE%E8%BE%BA%E3%81%AE%E9%81%93/%E7%8F%A0%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4/

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案内板。画像サイズを大きくしています。

画像の長四角で区切られた範囲を大兵主神社に向かって歩いていることになります。案内板では北に向かって歩くように見えますが、実際は東に向かっていることになります。

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東側の山並み。大和らしい雰囲気が伝わってきます。

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さらに進むと、また石柱がありました。景行天皇纏向日代宮跡です。

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解説板。

解説板通りとすれば、第11代垂仁天皇と第12代景行天皇の宮殿は近接した場所に存在していたことになります。

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大和盆地を見下ろします。

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山並みが近くなってきました。

もう少し歩くと、次の目的地である相撲神社と穴師兵主神社(大兵主神社)に至ります。

      邪馬台国と大和王権の謎を探る その25に続く
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酔石亭主

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