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邪馬台国と大和王権の謎を探る その26


とても不思議なのですが、何もしていないはずなのにブログのテンプレートが2コラムから1コラムに変わってしまいました。しばらくしてからパソコンを起動したところ、一度元に戻ったものの次にはまた1コラムになり、サイドコラムがメインコラムの後に出てくる形となっています。対処方法はあるようですが、酔石亭主の能力では恐ろしくて手を出せません。仕方がないので、テンプレートを変更することにしました。トホホ😢

相撲神社から穴師坐兵主神社(大兵主神社)まではすぐの距離となります。鎮座地は桜井市穴師1065。鎮座地を示すグーグル地図画像は前回の画像を参照ください。

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鳥居と社号標。

縣社 兵主神社とあったのを、縣の糸と社を消した形で県大兵主神社としています。何か問題があったのでしょうか?

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境内と拝殿です。かなり山懐に入った雰囲気です。

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解説板。

解説板では大兵主神社とあり、その下に穴師坐兵主神社と書かれています。もう一つの手書きの解説板では、崇神天皇の60年に天皇の命を受けて倭姫命が創建したとありました。

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手書きの解説板。

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拝殿です。

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本殿です。

左が大兵主神社、中が兵主神社、右が若御魂神社となります。祭神は左から順に、大兵主神、兵主神社、若御魂神なので社名と同じです。唐破風付きの立派な本殿です。

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本殿をもう一枚。

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本殿と拝殿を斜め位置から撮影。

現在地に鎮座していた穴師大兵主神社に弓月岳にあった穴師坐兵主神社と巻向山にあった卷向坐若御魂神社が合祀された結果、現在のような社殿構成となったようです。正式な社名は穴師坐兵主神社ですが、社号標に大兵主神社とあるのは元々この場所に鎮座していたのが大兵主神社だったからでしょう。各祭神の実態に関しては諸説あり、これは後代になって様々な潤色が加えられたためと思われます。同社の概要に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%B8%AB%E5%9D%90%E5%85%B5%E4%B8%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE

なお、「日本の神々 4巻」(白水社)には同社に関する大和岩雄氏の詳しい論考が掲載されていますので、是非ご参照ください。重要部分を以下に抜き書きします。

当社は弓月岳にあった穴師坐兵主神社が上社で、下社の穴師坐大兵主神社が現在地にあり、上社は応仁の乱で焼失し神体を下社に遷し、そのとき卷向坐若御魂神社を合祀した。上社は弓月岳(斎槻岳)の峰から南南東に下った人口の平地にあったと推測される。土地の人はそこを「ゲシノオオダイラ」と呼び、これはおそらく「夏至の大平」を意味する。これは、箸墓から見て、弓月岳に太陽が昇る時期を夏至として、この時期に播く稲の生育を祈る祭祀が行われたと考えて間違いない。地図で書きこんでみると、弓月岳頂上・穴師上社跡・穴師下社・箸墓後円部の中心・前方部の中心と一直線に並ぶ。(注:弓月岳に関して、それが穴師山、巻向山、龍王山のどれに当たるのか明確ではありません。大和氏は穴師山=弓月岳の前提で書いているようです)

さて、上記の弓月岳頂上から箸墓に至る一直線のラインで気になる点があります。大和氏が書かれたように、農耕に関わる祭祀が行われたのは間違いなさそうですが、全く別の意味を付与できるように思えるのです。弓月岳頂上から箸墓へと続くラインのすぐ近くにはホケノ山古墳があり、大神神社の社伝によると被葬者は豊鋤入姫命とのことです。そして穴師上社は倭姫命が創建したとの伝承が残ります。箸墓は既に見てきたように、台与が被葬者と推定されます。

すなわち、箸墓から弓月岳を結ぶラインは台与、豊鋤入姫命、倭姫命の旧女王国グループを結ぶラインでもあり、そこからも箸墓の被葬者が台与であると確認されます。

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電子国土地図画像。

画像左端の池の南側にある古墳が箸墓で、古墳の中軸線上にラインがあります。ラインを北東方向に進むと、ホケノ山古墳が記載されており、位置的には赤いラインのすぐ南側となります。更に北東方向に進んで、ラインの上にある鳥居のマークが穴師坐兵主神社となり、やや見えにくいですが409mの表示がある山が穴師山(弓月岳)となります。

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電子国土地図画像。

穴師坐兵主神社と穴師山の部分を拡大。鳥居のマークが穴師坐兵主神社。409mの標高表示があるのが穴師山(弓月岳)で、一段低い等高線のでっぱり部分が夏至の大平に当たります。

続いて箸墓を中心とする別のラインを検討してみましょう。大和の聖山・三輪山山頂から箸墓へとラインを引き、さらにそのまま延長してみます。すると秦氏の氏寺である秦楽寺に至りました。その間に何があるのでしょう?

まずは三輪山です。三輪山は大和における太陽信仰の中心をなす聖山です。また、豊鋤入姫命が元伊勢第一号の笠縫邑を出て諸国を流浪した末に、弥和乃御室嶺上宮(三輪山山頂)にて2年間天照大神を奉斎した場所でもあります。寄る年波にこれ以上祭祀を続けられない豊鋤入姫命は、倭姫命に後を託しました。つまり、ラインの起点である三輪山は天照大神と関係しています。

三輪山山頂から箸墓の間には、天照大神の元伊勢第一号ともされる檜原神社が鎮座しています。(注:檜原神社はラインから北へ約200mずれています)箸墓は卑弥呼(天照大神)の宗女である台与の墓となります。そして三輪山山頂からのラインは、箸墓から笠形を経由し秦楽寺に至ります。秦楽寺の境内には天照大神を祭神とする笠縫神社が鎮座し、酔石亭主が元伊勢第一号と考える笠縫邑に当たります。以上から何が見えてくるでしょう?そう、三輪山山頂から秦楽寺に至るラインは天照大神のラインとなるのです。

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三輪山から秦楽寺に至るライン。箸墓はラインの2㎞と3㎞の間に位置します。

以上の検討から、箸墓から弓月岳を結ぶラインは天照大神(卑弥呼)を祭祀する台与、豊鋤入姫命、倭姫命の旧女王国グループラインであり、三輪山山頂から秦氏の秦楽寺を結ぶラインは彼女たちによって祭祀された天照大神(卑弥呼)のラインに当たり、両ラインは箸墓で接続されると言う実に見事な構成になっていると判明しました。このライン構成が偶然の所産とは考えにくく、一定の意図を元に作られたものと理解されます。

以前尾張氏の謎解きで、檜原神社は元伊勢第一号ではないと書きましたが、三輪山山頂から秦楽寺を結ぶライン上(実際には多少ラインからずれる)にあるのですから、元伊勢と受け止められてもある意味頷けるものがあります。

さらに上記から、九州にある女王国の女王・卑弥呼の死後、その宗女である台与が女王となり、大和(邪馬台国)に遷して卑弥呼(天照大神)を祀り、台与に続く豊鋤入姫命、倭姫命が新たな祭祀場を求めて各地を流浪、最終的に伊勢の地に鎮まった流れが見えてくるようです。また天照大神を祀る笠縫神社が秦氏の氏寺・秦楽寺境内に鎮座しているのは、九州における両者の関係が影響していると考えられます。

豊前国風土記には、宮処の郡(現在の行橋市、京都郡一帯)に関して、「宮処の郡、むかし天孫がここから出発して日向の旧都に天降った。おそらく天照大神の神京(みやこ)である。云々。」と書かれています。豊前国は秦王国とも称され、秦氏系の部民が数多く居住する地域でした。

秦氏が豊前に居を定めたのは、多分この地が天照大神の神京であると知っていたからでしょう。そうした事情を踏まえ、大和に移った秦氏が同地における元伊勢第一号の場所を選んで入植した上で、自分たちの氏寺である秦楽寺を笠縫の地に創建したのではないでしょうか?つまり秦氏は、九州においては天照大神の神京に入植し、大和では天照大神の元伊勢第一号の地に入植したという、実に似通った構図となるのです。

         邪馬台国と大和王権の謎を探る その27に続く



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