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蒲郡探訪


たまたま以前のテンプレートをプレビューにて見たところ、元の状態に戻っていたので、元のテンプレートに復帰します。復帰に伴い、過去何回分かの記事の写真が枠をはみ出す形となってしまいましたが、ご了承ください。

さて、今まで愛知県各地の都市を歴史探索の中でご紹介してきました。主だったところは終わったかなとも思いましたが、まだ蒲郡市が残っています。なので、今回から蒲郡市をご紹介します。


蒲郡市の位置を示すグーグル地図画像。

蒲郡と聞けば、思い浮かべるのは江の島を小さくしたような竹島やその周辺の潮干狩り、ラグーナテンボスと言ったところでしょうか?いや、他にも面白い歴史が隠されているかもしれません。まずは、蒲郡の地名由来から見ていきましょう。

蒲郡は明治になって二つの村が合併して誕生した地名です。具体的には、1878年に宝飯郡蒲形(がまかた)村と西郡(にしのこおり)村の合併により成立しました。名前からして「蒲」が主体となっているのは間違いなさそうです。その「蒲形」は、鎌倉時代からある「蒲形荘」に由来しています。この地方は三河国の国司となった藤原俊成(ふじわらのとしなり)が開発し、熊野山へ寄進したことから、荘園を意味する「蒲形荘」が成立したのでしょう。

藤原俊成は平安時代後期から鎌倉時代初期の公家で、有名な歌人でもあり藤原定家の父となっています。彼は久安元年(1145年)に三河守に遷任され1149年までこの職に留まっていますが、実際には現地に赴任せず、代理(目代)を置いて俸禄・租税などの収入を得ていたようです。こうした形だけの職務遂行を遥任(ようにん)と呼びます。貴族たちにすれば京の都を離れ草深い田舎に赴任するなど、まっぴら御免だったのでしょう。藤原俊成は当時としては驚くほど長寿で、生没年は1114年~1204年とされ91歳の長寿を全うしました。

藤原俊成とほぼ同時代の人物に、源氏の棟梁・源義朝の六男・源範頼(みなもとののりより)がいます。彼は源平合戦の戦功により寿永3年(1184年)から三河守に任じられ、建久4年(1193年)まで務めます。源範頼は遠江国長上(ながかみ)郡の伊勢神宮領である蒲御厨(現静岡県浜松市東部)で生まれ育ったことから、蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)などと呼ばれていました。蒲御厨は当地の開発領主の子孫蒲氏が平安時代に伊勢神宮内宮に土地を寄進して成立したものです。また源範頼の母は、遠江・池田宿の遊女とされています。

さてそこで、蒲郡の地名由来の有力候補は、蒲冠者と称された源範頼の「蒲」を取って蒲形の地名が成立と言うものです。地名由来としてはかなり面白いのですが、蒲形荘が藤原俊成の三河国司時代に成立したとすれば、そこから40年近く時代を下った蒲冠者源範頼の名前に由来するとは言い難いものがあります。この時代差を考慮すると、蒲冠者源範頼に由来するとの説は成り立たないと思われます。

蒲郡が熊野三山に寄進されたことで、熊野から熊野信仰を三河に伝播させ、蒲形荘を管理運営する目的である氏族がやってきたと推定されます。それが秦氏の末裔ともされる鵜殿氏です。彼らの居住地は南牟婁郡鵜殿村で、三重県の最南端に位置し新宮川を渡れば和歌山県の新宮市となります。鵜殿氏は神官系の氏族でしたが、戦国時代になると国人(在地の領主)として蒲郡の支配者になっていきます。ただ、平安時代末期から鎌倉初期にかけて三河に入った鵜殿氏と、戦国時代に国人となった鵜殿氏は別の系統のようにも思えます。

鵜殿姓は現在も存在し、全国で212人。内愛知県が28人と多いことは多いのですが、長崎県が39人、千葉県が37人となっています。他には埼玉県19人、神奈川県17人となり現在では関東各県に集中しているようです。愛知県内では西尾市が15人と圧倒的で、肝心の蒲郡市は1人のみでした。また、南牟婁郡はゼロとなっています。色々と変遷があったのでしょうね。

以上、蒲郡が歴史に姿を現すのは平安時代末期からで、藤原俊成、源範頼、鵜殿氏などが関係者となるので、彼らの痕跡も蒲郡の各所にあると思われます。では、それ以前はどうだったのでしょう?蒲郡市神ノ郷町には赤日子(あかひこ)神社が鎮座しており、過去に社前で発掘調査が実施され、弥生時代後期(1800年前頃)の環濠の遺構や土器片などが出土しました。

1800年前であれば、倭国大乱に関係しそうに思えてきます。「梁書」によれば、後漢の霊帝の光和年間(178年 - 184年)倭国は乱れ、何年も攻め合った、とのことです。この大乱を避けるため、九州の海人勢力が大挙して海路瀬戸内海を東に向かい、その一部が紀伊半島を回り、伊勢湾を経て三河湾に入ったのです。時をほぼ同じくして、ニギハヤヒ率いる物部氏も難波に上陸し大和入りしました。

ニギハヤヒ率いる物部氏は単独ではなく、海人系部族の動きに乗じて移動したと推定されます。そう、物部氏は海人族の支援を受けて大和入りしたのです。彼らを支援した海人系部族は多分安曇族であり、蒲郡市神ノ郷町に1800年前定住した一族もまた安曇族のはずです。なぜなら、赤日子神社の祭神は彦火火出見尊、豊玉比古命、豊玉比売命で、明らかに海人系の神を祀っているからです。

渥美半島の名前が安曇族に由来しているのと同様に、蒲郡にも安曇族が入植し、彼らの居住地の背後に祖神を祀る赤日子神社が創建されたことになります。以上で、蒲郡市に赤日子神社が創建され、鎮座地のすぐ南側に1800年前頃の弥生遺跡が存在する理由が解明できたことになります。

弥生時代後期から平安時代末期の間、蒲郡では何もなかったようにも感じられますが、5世紀後半築造で墳丘長40mの丸山古墳があり、これも安曇族と関係している可能性があります。また、6隻期末頃築造の権現山古墳からは銀象嵌紋様の大刀や金銅製耳環、鉄鏃(てつぞく)、土器などが出土しています。史料面では7世紀後半から8世紀の木簡に、方原(今の形原)、美養(今の三谷)の地名が出ているとのこと。

蒲郡ではありませんが、お隣の西尾市には面白い話が伝わっていました。「日本後記」の卷八延暦18年(799年)七月是月には以下のような記述があります。

是月。有一人乘小船。漂着參河國。以布覆背。有犢鼻。不着袴。左肩著紺布。形似袈裟。年可廿。身長五尺五分。耳長三寸餘。言語不通。不知何國人。大唐人等見之。僉曰。崑崙人。後頗習中國語。自謂天竺人。常彈一弦琴。歌聲哀楚。閲其資物。有如草實者。謂之綿種。依其願令住川原寺。即賣隨身物。立屋西郭外路邊。令窮人休息焉。後遷住近江國國分寺

大意は以下の通りです。

799年に三河国に一人が乗った小舟が漂着した。彼は布で背を覆い、褌をつけ、袴は着けず、左肩に袈裟に似た紺布を着けていた。言葉は通じず、どこの国の人間かわからなかった。唐人がこれを見て、彼は崑崙人だと言った。その語中国語を習い、自分で天竺人だと言った。常に一弦琴を弾き歌声は哀愁を帯びていた。彼は草の実らしきものを持っていて、綿種であった。

この崑崙人(実際には天竺人なのでインド人と考えられる人物)が日本に最初に綿を伝えたことになります。ただ、種が日本の風土に合わず栽培はうまくいかなかったようです。彼は後に近江国国分寺に移り住んだとのこと。彼が漂着したのは現在の西尾市の東南部に位置する、矢作古川西岸の村でした。インド人が漂着したことから、その村は天竺村と呼ばれ、後に天竹村(てんじくむら)に変わり、明治の合併で六郷村、福地村と名が変わり、1954年に西尾市に編入されました。一人の外国人が村の名前の由来になるとは実に面白いですね。

なお、現存する最古の綿布は、インダス川流域のインダス文明最大級の都市遺跡・モヘンジョダロ遺跡から出土したとのことで、インダス川流域の木綿産業はその後も発展を続けたそうですから、漂着した人物はインドから来たと見て間違いなさそうです。

話が横にそれました。古代の蒲郡を概観すると、抜け落ちた部分もあるかもしれませんが、大略上記のようになります。

次回からは実際に訪問した場所をアップしていきます。ただ、歴史とは特に関係のない訪問先も多い点、お含み下さい。
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