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蒲郡探訪 その15

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10 /23 2016

「その1」において、「蒲郡が歴史に姿を現すのは平安時代末期からで、藤原俊成、源範頼、鵜殿氏などが関係者となるので、彼らの痕跡も蒲郡の各所にあると思われます。」と書きました。藤原俊成は既に書いたように蒲郡を開拓し八百富神社を創建しています。他にも蒲郡市竹谷町今御堂89番の1に鎮座する白山社(1155年創建)や、蒲郡市宮成町6番4号に鎮座する大宮神社(1185年創建)は藤原俊成の手になるものとされています。

一方源範頼は岡崎市の上地八幡宮を創建しています。また八百富神社の境内社となる宇賀神社祭神は宇迦之御魂神で、「宇賀神王略縁起」には寿永3年(1184年)から建久4年(1193年)に三河守を務めた源範頼公が深く信仰していたと記されています。以上のように、藤原俊成と源範頼は既に姿を見せていました。

残る関係者(氏族)は鵜殿氏で、長い時代を通して蒲郡には深く関与しています。彼らは多分、蒲郡の歴史において最も重要な存在なのでしょう。と言うことで、まずは鵜殿氏が関係する長存寺を見に行きます。


長存寺の位置を示すグーグル地図画像。所在地は蒲郡市上本町4-5。

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松の参道。

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山門を潜った先の参道。

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本堂です。

長存寺は文安2年(1445年)に新潟県三条市の本成寺3世の日存が創建したとされます。永正15年(1518年)下ノ郷城主鵜殿又三郎長存が帰依し、寺の発展につながったとのこと。天文12年(1543年)に長存が死去した後、彼の名前にちなんで長存寺と改められました。お寺には長存の墓碑があるとのことなので、早速見に行きます。

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鵜殿氏の供養碑。

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二基の五輪塔の間に墓碑があります。

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墓碑です。内容を以下に記載します。

鵜殿又三郎長存公は室町時代紀州熊野より当地に移封せし下ノ郷領主であった。深く法華宗に帰依し当時実相坊と称した当寺を信仰し庇護されたので人よんで長存の寺といわれた後その息又三郎玄長は越後本成寺貫主日存聖人に願って寺号を長存寺として永く父の霊を弔うた…以下略

おや、鵜殿氏は平安末期から鎌倉初期にかけて熊野から三河に移住した一族だと思っていましたが、この墓碑によれば長存は室町時代に熊野から移住したことになります。長存の没年は天文12年(1543年)とされていますので、移住時期は1500年代の前半頃でしょうか?

さらに蒲郡市博物館のホームページには、鵜殿氏の初代・鵜殿長善(うどのちょうぜん、鵜殿長存の父)は、15世紀後半に活躍した人物だと書かれていました。この記述と墓碑の記述は一定程度整合しているようにも見えてきます。鵜殿氏の詳細は以下の蒲郡市博物館ホームページを参照ください。
http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/kaminogo-index.html

上記の内容を纏めると、鵜殿氏は1500年代(或いは長善の1400年代後半)に蒲郡に移住した氏族のように見えてしまいます。酔石亭主の想定とは大きく異なるので、鵜殿氏に関してもう少し検討していきましょう。

鵜殿氏は三重県最南端に位置する南牟婁郡(みなみむろぐん)鵜殿村の出身氏族であり、ここは平安末期から戦国時代における熊野水軍の根拠地の一つとされています。航海にたけた熊野水軍の船で、平安時代末期に鵜殿氏や鈴木氏、榎木氏などが熊野から三河に渡ったと考えてもおかしくはありません。もちろん、室町時代に鵜殿氏が熊野水軍の船で三河に渡ったとも言い得ますが…。


三重県南牟婁郡紀宝町の位置を示すグーグル地図画像。鵜殿村は2006年に紀宝町と合併消滅。

鵜殿氏の始まりに関しては、紀伊熊野別当・湛増の子が新宮鵜殿村に居住したことから、鵜殿姓を名乗ったとされる説があります。Wikiによれば、「湛増(たんぞう、大治5年(1130年) - 建久9年5月8日(1198年6月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧(法躰)で、21代熊野別当である」とのことです。従って、鵜殿氏の始まりは1160年代頃と見積もられます。

蒲郡市室町14の3には神倉神社が鎮座しており、ここはその社名からしても新宮市に鎮座する速玉大社摂社神倉神社から勧請されたものとなります。新宮市の神倉神社は神倉山に鎮座しており、磐座のような「ゴトビキ岩」を御神体としています。蒲郡の神倉神社社伝によると、新宮別当の子が頼朝に取り立てられ、三洲西ノ郷(蒲郡市神ノ郷町一帯)を領したが、初め新宮の鵜殿に住んだので鵜殿と名乗ったとあります。

またWikiには「諸説あるが、『鳥取藩史』の着座家伝によれば紀伊熊野別当・湛増の子・某が新宮鵜殿村に住したことから、鵜殿姓を名乗ったという」と書かれていました。両方を纏めると、新宮別当である第21代・湛増の子が頼朝に取り立てられて三河の西ノ郷を領したが、初め新宮の鵜殿に住んだので鵜殿と名乗ったことになります。この説をベースに熊野別当系図を使って鵜殿氏の始まりを見ていきます。

第15代長快(1122年没)―第18代湛快(1174年没)―第21代湛増(1198年)―鵜殿長政

上記系図と湛増の没年代から判断すれば、鵜殿長政が蒲郡に移住したのは1180年代頃となりそうです。ところが、Wikiに記載ある熊野別当系図では異なる流れとなっていました。具体的に見ていきましょう。

第15代長快(1122年没)―第16代長範(1141年没)―第19代行範(1173年没)―第23代範命(1209年没)―定範(没年不明)-鵜殿長政

定範の没年を1230年頃とすれば、鵜殿長政は1220年代頃に蒲郡に移住し、1250年前後に死去したと推定されます。二つの説の間に約40年の誤差が出てきました。熊野別当系図は以下を参照ください。
https://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/article/faith/data/data/3_Kumano_Bettoukeizu.htm

こうした混乱は他の場面でも見られます。蒲郡市には勝善寺(かつての薬勝寺)があり(所在地は蒲郡市坂本町深山26)、同寺の梵鐘が蒲郡市博物館にて管理されています。この梵鐘に関して蒲郡市教育委員会の解説板には、「銘によれば承元2年永範(えいはん)の鋳造したものを、その子、行範(ぎょうはん)が寛喜2年に再鋳したものである」と書かれ、以下の銘文も記載されています。

三河国薬勝寺推鐘
承元二年五月日
本願主金剛佛子 永範
改寛喜二年卯月三日
大勧進金剛佛子 行範
大衆並結縁衆等

愛知県の文化財ナビには、「銘の中にある薬勝寺は熊野社領蒲形庄にあった熊野関係の寺院で、本願主永範は熊野別当記の長範にあたり大勧進行範はその子といわれる。この鐘は小鐘ながらよく鎌倉時代の特徴を示した精巧な作である。」と書かれていました。文化財ナビのホームページは以下を参照ください。
https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kougei/kunisitei/0475.html

梵鐘が鋳造された承元2年は1208年で、再鋳された寛喜2年は1230年となります。ここで熊野別当系図を見ると、長範の没年が1141年、行範の没年は1173年となり、梵鐘の銘文と系図の間に60年程度の時代差が存在します。系図は造作されたものが多いのですが、銘文は梵鐘の製作時点で刻まれた可能性が高く、熊野別当系図より信憑性が高くなりそうです。梵鐘の銘文年をベースに考えれば、長政は1200年代後半の人物で蒲郡移住は1270年代頃となってしまいます。このように鵜殿氏へと繋がる熊野別当系図にも曖昧な部分が見られるのです。

従って、鵜殿氏系図と熊野別当系図のいずれもどこまで信用していいのかわかりません。ただ、長存寺の墓碑や蒲郡市博物館ホームページの記載内容は疑問が残ります。Wikiなどの鵜殿氏系図を見る限りでは、鵜殿長政から鵜殿長善へと続き、長善の次が下郷鵜殿家の長存となり、もう一つの流れが上郷鵜殿家の長将となり、さらに不相家が分離しており、後に柏原家も分かれていることから、蒲郡市博物館は長善を鵜殿氏の基点となる意味で初代としたのかもしれません。そう考えれば、長存寺の墓碑や蒲郡市博物館ホームページの記載内容は鵜殿氏の蒲郡への移住時期とは直接関係しない話となります。

あれこれ整理してきたものの、初代鵜殿氏が誰の子であり、その子が鵜殿長政かどうか、彼の蒲郡移住年代が1180年代頃か1220年代頃か、或いは1270年代頃かと言った問題はなおも残ります。さらに長政は熊野別当ではありませんが、彼の子の長真や孫の長慶はいずれも熊野別当に就任しています。従って、長政は蒲郡に移住した一方で、その子や孫は熊野に戻ったのかもしれません。いずれにしても、鵜殿氏初代の蒲郡移住は平安末期から鎌倉時代の話になりそうです。

また、藤原俊成が1145年から1149年の間三河国司を務め、竹谷、蒲形両荘(現在の蒲郡市)を熊野三山に寄進した点もほぼ間違いなさそうです。この年代を考慮すると鵜殿氏が蒲郡に移住したのは1180年代頃とするのが妥当なように思えます。不明確な部分は多々ありますが、酔石亭主としては、鵜殿氏の祖が室町時代ではなく1180年代頃蒲郡に来ていたとの考え方を採用しておきます。

ちなみに、鵜殿氏以前に三河に進出した熊野系(熊野別当系)は、藤原俊成から蒲郡を寄進され、寄進後の両荘は第18代熊野別当の湛快のものとなり、続いてその娘、娘から最初の夫・第22代熊野別当の行快へ、次いで娘の再婚相手の平忠度(清盛の異母弟、薩摩守)へと譲られています。

戦国時代の上郷家は今川氏に臣従し、下郷家は徳川家康に臣従して別々の道を歩むことになります。鵜殿氏本家となる上郷家は、下郷家などの分家が悉く徳川家康に臣従する中、鵜殿長照の母が今川義元の妹と言う姻戚関係もあり、桶狭間の戦いの後も今川方に忠誠を誓っていました。このため、居城であった上ノ郷城は徳川家康によって攻め落とされ、鵜殿長照は討ち死する羽目となります。この戦いには家康の放った甲賀忍者が活躍したとのこと。鵜殿氏系図に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。なお、蒲郡市博物館のホームページにも戦国時代の鵜殿氏系図が出ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%AE%BF%E6%B0%8F

こうして見ると、鵜殿氏系と熊野別当系は別の流れで、支配地域も微妙に異なっているようにも思えます。けれども、鵜殿氏も熊野系の流れに連なっており、同じ流れとも言い得ます。既に検討したように、熊野別当系図、鵜殿氏系図が正しいものか何とも言えませんが、いずれにしても、平安末期から戦国時代の蒲郡において重要な地位を占め続けた鵜殿氏は、蒲郡における最重要氏族となりそうです。
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酔石亭主

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