近江探訪 その50


前回で日牟禮八幡宮の概要を見てきた結果、同社には八幡宮(宇佐八幡宮)とそれ以前から存在していた大嶋大明神と言う二つの異なる要素があると判明しました。さらに、社名の一部となる日牟禮(ひむれ)もちょっと変わった名前であり、別の要素を持つのではないかと考えられます。その場合同社においては、少なくとも三つの異なる要素が混在していることになります。それらがどのような要素なのか、まずは同社ホームページの由緒から見ていきましょう。同社の由緒は以下を参照ください。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~him8man/

この由緒から引用しようと思いましたが、残念ながらホームページに無断転載・引用禁止と書かれているので、引用はWikipediaからとします。

伝承によれば、131年、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている(この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、境内社の大嶋神社なのかは定かではない)。
275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。
691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。
991年(正暦2年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに、1005年(寛弘2年)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付ける(現在の社殿は下の社に相当)。
1585年(天正13年)に豊臣秀次が八幡山城を築城するため、上の八幡宮を下の社に合祀した。その替地として日杉山に祀りなおすこととなったが、1590年(天正18年)に秀次が自身の居城を尾張国清州城に移したため、移転作業は行われなかった。

日牟禮八幡宮のホームページには和珥氏関連の伝承も掲載されていますが、Wikiの記事には出ていません。和珥氏についての情報を得るため、国立国会図書館デジタルコレクションの「近江蒲生郡志. 巻6」コマ番号37を参照し抜粋します。(注:読みやすいように必要部分のみを抜粋し現代文にて書き直します)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965735

神天皇の御座所跡に日輪の形が二つ見えたので日群の社と称したと言うのは付会の俗説であり、比牟禮は日觸(ひふれ)の転訛である。国語に「ふ」が「む」に転ずる例は多い。「日本書紀」や「古事記」には応神天皇が和珥臣の祖日觸使主(ひふれのおみ)の娘である宮主宅媛やその妹小甂媛を妃として皇子皇女の誕生があったことが書かれている。
要するに比牟禮の社名は日觸の転であり、和邇(わに)日觸使主に由来し、和珥氏は応神天皇と深き縁故を有し、和珥氏と同族の櫟井(いちい)氏が当社の神主職を相伝している等に鑑みて、当社が日觸氏櫟井氏の祖神の斎場であることが推論される。

三つの要素を赤、青、紫色で色分けしています。赤色が大嶋大神(=大嶋大明神、以降は大嶋大神で統一します)、青色が応神天皇と八幡宮、緑色が古代豪族の和珥氏関連と三つの要素に分類できました。これらをどう解釈していけばいいのか、なかなか難しそうではあります。Wikiの記事では和珥氏に関して何も書かれていませんが、同社ホームページでは和珥氏を三番目に記載し、「近江蒲生郡志. 巻6」は和珥氏の存在を重視しているようにも思え、それぞれ力点の置き方が異なります。いずれにしても、まず大嶋大神なる神様の実態を探ることから始めなければなりません。

では、大嶋大神の実態を探るため日牟禮八幡宮の祭神から見ていきましょう。同社祭神は譽田別尊(ほむだわけのみこと、応神天皇)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、比賣神(ひめがみ)となっており、比賣神は宗像三女神すなわち田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫神(たぎつひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)の御神霊になります。祭神を見る限りでは、宇佐八幡宮と全く同じで、同社の始まりは宇佐八幡宮を勧請した正暦2年の991年(或いは寛弘2年の1005年)とさえ思えてきました。けれども、それでは大嶋大神とは何の関係もなくなってしまいます。

そこで、少し視点を変えてみましょう。比賣神はもうご存知のように宗像三女神に当たることから、北九州に鎮座する宗像大社を見ていきます。同社ホームページで三女神の祀られている社をチェックすると、田心姫神は沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神は中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神が辺津宮(へつぐう)となっていました。(注:各祭神に関して「古事記」と「日本書紀」で違いがあります)

鎮座場所に関しても見ていきましょう。沖津宮は沖ノ島、中津宮は大島、辺津宮が宗像本土と書かれています。ここで大嶋大神と関係しそうな名前が出てきました。そう、中津宮の鎮座する大島です。どうやら大嶋大神は宗像三女神とりわけ中津宮の湍津姫神と関係が深かそうです。宗像大社のホームページは以下を参照ください。
http://www.munakata-taisha.or.jp/html/sanmiya.html

大嶋大神が宗像三女神と関係するかどうか、他の例からも探ってみます。石川県の羽咋郡志賀町大島イ3には意冨志麻神社(おおしまじんじゃ)が鎮座し、同社は大島大明神または遠津姫三社と称し、祭神は奥津島姫命、辺津島姫命、市杵島姫命となっていました。やはり大嶋大神は宗像三女神に関係すると考えられます。意冨志麻神社に関しては以下の石川県神社庁ホームページを参照ください。
http://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/search/detail.php?e7a59ee7a4be4944=1189

上記の例から、大嶋大神(大島大明神)が宗像三女神の総称として使われていると理解されます。従って、大嶋大神の実態は宗像三女神となりそうです。日牟禮八幡宮由緒では大嶋大神は地主神とありましたが、その実態が宗像三女神であるとすれば、宗像海人系の神となり地主神ではありません。

ここで面白いことに気が付きました。そもそも現在の近江八幡市の旧市街から北東部一帯はかつての蒲生郡大島郷となります。蒲生郡大島郷の地名からしても、大嶋大神との関係が窺えるのですから、日牟禮八幡宮の始まりと近江八幡は切っても切れない繋がりがあると理解されます。大島郷の範囲はわかりにくいのですが、近江八幡観光物産協会ホームページには八幡まつりに関連して以下のように書かれています。

社伝によれば、八幡宮本殿の南側に祀られる大島神社がその地主神で、正暦2年(991年)に八幡神を宇佐八幡宮から勧請、その後、帰属した船木郷と両郷の鎮守として推移したと伝えられています。八幡祭における、上之郷が大島郷、下之郷が船木郷とされ、幕末までは、祭りの中に上之郷が大島社に対して行う神事があり、特に「大島祭」と称していたようです。 現在は上之郷(市井、多賀、北之庄、鷹飼、中村、宇津呂、大林、土田)と下之郷(船木、小船木、大房、南津田)12郷のまつりとされています。

大嶋大神が宗像三女神に関係するのは確認されましたが、まだ疑問が残ります。日牟禮八幡宮境内に鎮座する大島神社の祭神は大国主命と仁徳天皇で、宗像三女神とは関係ない点です。(注:この問題は後の回で検討します)また宗像大社においては、各女神が沖津宮は沖ノ島、中津宮は大島、辺津宮が宗像本土と別々に鎮座しているのに対し、広大な琵琶湖を九州の海に擬して考えた場合、日牟禮八幡宮は同じ境内に宗像三女神が祀られる形となってしまう点もやや理解に苦しみます。

この問題をどう考えればいいのでしょう?琵琶湖を九州の海に見立てた場合、宗像大社の沖ノ島や大島に相当する島があるのではないでしょうか?そう思って琵琶湖をチェックすると、ありました。琵琶湖最大の島で人も住んでいる沖島です。


沖島の位置を示すグーグル画像。

そこで滋賀県神社庁のホームページを見たところ、沖島の近江八幡市沖島町188には奥津嶋島神社(おきつしまじんじゃ)が鎮座していました。奥津嶋神社に関する滋賀県神社庁のホームページは以下を参照ください。
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=281

由緒によれば、祭神は興津島比賣命で、和銅五年藤原不比等、勅命を奉じて創立すると伝える。とのことです。また、祭神の興津島比賣命は宗像の興津宮に坐す神と同神、と記載ありました。奥津島比売命は宗像大社における田心姫命と同神になります。奥津嶋神社創建の和銅5年は712年に当たるので時代的にはちょっと遅いですが、琵琶湖の沖島と宗像大社の沖之島は島名と祭神が完全に対応しています。

滋賀県神社庁の日牟禮八幡宮の由緒には、「続いて持統天皇五年(691年)に藤原不比等日群社に詣でられ、「天降の神の誕生の八幡かも比牟礼の社になびく白雲」とお詠になり、故に比牟礼之社と改むと記され」との記事があることから、これを契機として藤原不比等が沖島に奥津嶋神社を創立したとも考えられます。滋賀県神社庁の日牟禮八幡宮の由緒は以下を参照ください。
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=268

奥津嶋神社の写真等は以下の玄松子さんの記事を参照ください。沖島にも行ってみたいとも思いましたが、船便の本数が少なく他が回れなくなるのであきらめるしかありません。
http://www.genbu.net/data/oumi/okitusima_title.htm

以上で、琵琶湖の沖島と奥津嶋神社の存在は、宗像大社の沖ノ島と沖津宮に相当すると確認されました。

では、大島にある中津宮は琵琶湖のどこに相当するのでしょう。滋賀県神社庁のホームページで調べてみると、島ではありませんが近江八幡市北津田町529に大嶋奥津嶋神社(おおしまおくつしまじんじゃ)が鎮座していました。(注:以降は上記の滋賀県神社庁による漢字表記で統一します。なお、沖島の奥津嶋神社は「おきつしまじんじゃ」の読みとなっていますが、大嶋奥津嶋神社のばあいは「おくつしまじんじゃ」となっており異なります)


一帯を示すグーグル画像。神社の鎮座地は後の回でアップします。

この画像から、古代におけるこの一帯の山群は島状態であったと理解されます。その証拠にこの山群は奥島(おくのしま)、奥津島(おきつしま)などと呼ばれ、長命山、津田山、御所山など個々の名前がついた山群は奥島山と総称されていたそうです。(注:以降はこの一帯を奥島山で統一します)従って、奥島山の大嶋奥津嶋神社(同じ境内に大嶋神社と奥津嶋神社が鎮座)が大島の中津宮に相当すると考えられます。但し祭神は大嶋神社が大国主命(注:日牟禮八幡宮境内社の大島神社と同じ)、奥津島神社が興津島比賣神(奥津島比売命)となっています。

由緒によれば、本社の創祀は、社伝には成務天皇高穴穂宮遷都の時に、大臣竹内宿禰勅を奉じて勧請するとあり、日牟禮八幡宮の由緒と内容的には全く同じ形になっています。つまり、日牟禮八幡宮の始まり(=同社ホームページの由緒にある大嶋大神の鎮座)は現在地ではなく、奥島山の近江八幡市北津田町近辺だったことになります。と言うことで、次回は大嶋奥津嶋神社に行ってみます。


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