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邪馬台国と大和王権の謎を解く その35

邪馬台国と大和王権の謎を解く
03 /11 2017

今回は天璽十種神宝の御霊威である布留御魂大神から見ていきます。天璽十種神宝は「先代旧事本紀」の天孫本紀に出てくるもので、ニギハヤヒが天降りする際に、天神御祖から授けられた十種のお宝です。具体的には、沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死返玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道返玉(ちかへしのたま)、蛇比礼(へびのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物之比礼(くさぐさのもののひれ)となります。

これらの宝物はニギハヤヒの子・宇摩志麻治命が天皇に奉り、永く宮中で奉斎されていましたが、布都御魂剣と同様崇神天皇7年に物部氏の祖、伊香色雄命により石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)、すなわち石上神宮の現鎮座地に遷し祀られました。石上神宮は天皇家の武器・宝物の収蔵庫であると理解され、その管理と祭祀に物部氏と市川臣の子孫が関与していることになります。

以上で、主祭神となる布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、配祭神となる布留御魂大神(ふるのみたま)、布都斯魂大神(ふつしみたま)、宇摩志麻治命、市川臣命の検討が終わりました。

次に五十瓊敷命(いにしきのみこと)を見ていきます。「日本書紀」の垂仁天皇39年条冬10月には、五十瓊敷命(いにしきのみこと、垂仁天皇の皇子で景行天皇の兄)が、茅渟(ちぬ)の菟砥(うと、大阪府泉佐野市日根野)の川上宮にいて剣一千口を造り、石上神宮に納めた。この後、石上神宮の神宝を掌られた。とあります。続いて87年条には、五十瓊敷命が妹の大中姫に、自分は年を取ったので神宝の管理ができなくなった。これからお前が管理せよと話した。けれども姫は辞退し、物部十千根(もののべのとちね)大連に管理を任せたので、物部連が今に至るまで石上神宮において神宝の管理をしているのは、この間の事情が元になっている。とあります。

垂仁天皇39年条冬10月の一に云はくでは、五十瓊敷皇子が一千口の大刀を、忍坂邑(現在の桜井市忍阪)に納め、その後に忍坂より移して、石上神宮に納めた。この時に、神が乞して、「春日臣の族、名は市河をして治めしめよ」とおっしゃったので、市河に命じて治めさせた。これが今の物部首が始祖である。とあります。彼の子孫は布留宿禰と称し、祭主である物部連に副って永く祭祀に奉仕したとのことです。

時代をさらに下ります。天武天皇3年(674年)には、天皇が忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したとあります。ところが「日本後紀」によると、桓武天皇の延暦23年(804年)二月庚戌条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国・葛野郡に移した際、人員延べ十五万七千余人を要したとあります。

天武天皇の時代に子孫に返還したはずの神宝ですが、実際は返還しなかったのでしょうか?それとも返還以降また大量の武器が石上神宮に納められたのでしょうか?天武天皇が返還させたのは神宝とあるので、宝物類で武器ではなかったのかもしれません。

桓武天皇の804年、武器類を葛野郡に移した後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めましたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こります。怪異を鎮めるため石上神宮の女巫に鎮魂を命じますが、なぜか女巫は一晩中怒り狂います。遂には多数の僧侶を招集して読経させ、神宝は元に戻したとのことです。

配祭神となる白河天皇は第72代天皇で、石上神宮に対する崇敬が厚く、永保元年8月(1081年)鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿を遷して神門を改め拝殿を造営したとされます。同年9月、参議源俊明を派遣し、奉幣走馬十列を献って同社の祭祀を執行させたとのこと。

主祭神と配祭神の検討は以上です。上記以外にも、履中天皇が皇太子の時、住吉仲皇子の反乱を受け、難波宮から石上振神宮に避難されています。雄略天皇3年には阿閇臣国見(あへのおみくにみ)が、石上神宮に逃げ込んでいます。具体的には、雄略天皇の皇女で斎宮の栲幡姫皇女が湯人の盧城部連武彦の子供を妊娠したと阿閇臣国見讒言し、栲幡姫皇女は無実を訴えて自殺。阿閇臣国見は讒言の偽りが発覚した後、石上神宮に逃げ込んだとのこと。

阿閇臣国見は尾張氏の謎解きでも少し書いた記憶があります。石上神宮は悪事を働いた人物を匿ったのでしょうか?石上神宮は駆け込み寺ならぬ駆け込み神社ですね。いずれにしても、石上神宮が治外法権的な力を持っていたと理解される記事ではあります。

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その36に続く

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酔石亭主

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