尾張と遠賀川流域の謎を解く その5


前回で安曇族の問題と元志賀の地名を提起しました。志賀と言えば、安曇族の原郷である九州の志賀島が思い浮かびます。志賀島にいた安曇族が船で高倉下一行を尾張まで案内したのかもしれません。その可能性を確認するため、元志賀町の地図を眺めてみましょう。地図に目を凝らすと、名古屋市北区元志賀町 2-53-1に綿神社と言う名前の神社が鎮座していました。社名だけでは織物に関係する神社かと間違えそうですが、綿は海の古語であり、綿津見神の綿で海人系の安曇族に関係する神社となっています。

尾張のお隣の三河には渥美(あつみ)半島があり地名に安曇族の痕跡を残しています。三河の安曇族に関連する神社には赤日子神社があり、当ブログでもアップしていますが、詳細は以下の蒲郡市ホームページを参照ください。
http://www.city.gamagori.lg.jp/site/gamagoriseibushogakko/akahiko.html

尾張と三河を比較すると、なぜか三河の方に安曇族の痕跡が多いように思われます。そうした問題はさて置いて、尾張における安曇族の拠点・綿神社に行ってみましょう。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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綿神社の社号標と鳥居。解説板が二つ見えています。

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教育委員会解説板。

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詳細の解説板。やや読みにくいので、内容を以下に記載します。

主祭神 玉依比売命(神武天皇の御母) 応神天皇(八幡様)
(一)綿神社の創建は大変古く、文字の使用もなかった弥生前期に九州の弥生人が此の地に定住し稲作農耕文化を東海以東へ広めた基となった、其の中核は北九州「志賀」の安曇部族であろう。則ち故郷九州「志賀」には祖神、海神の裔「玉依比売命」を祀り「海神社」と称し、此の新天地も亦「志賀」と偲び名も同じく玉依比売命を祀って「海神社」と称した。既に「延喜式」にも「尾張の山田郡綿神社は筑前志加の海神社と同例の社なり」と記され、本国帳にも「従三位綿天神(略)綿は海の仮字で昔は此のあたりまで入海にてさる神社のおわしますなり(略)とある。文字の転化は縁起や因縁等時代により珍しい事ではない。
(二)志賀村の領主平手政秀(織田家の家老信長の師傳役)常に信長の奇行を心痛せるが、天文二十一年綿神社を再建、「願主政秀」と刻名せる神鏡と自ら手彫りの狛犬一対を奉納した。政秀の祈願は察するに余りあるも、祈願空しく翌年天文二十二年正月十三日遂に諌死するに到った。爾後信長の態度一変、天下平定の基を開いたのも実に政秀の誠忠に依る。即ち政秀なくば郷土三英傑の出現も又疑問ではなかろうか。…以下略。

実に興味深い内容ですね。由緒における最初の記述、「綿神社の創建は大変古く、文字の使用もなかった弥生前期に九州の弥生人が此の地に定住し稲作農耕文化を東海以東へ広めた基となった、其の中核は北九州「志賀」の安曇部族であろう」が弥生時代に関する酔石亭主の推論を裏書きしているかのようです。ただ、この由緒内容には問題もありそうなので、じっくり見ていきます。

綿神社の鎮座地は元志賀であり、安曇族の原郷である九州の志賀島と関係があるのは間違いありません。そして志賀島には志賀海神社が鎮座しており、祭神は底津綿津見神、中津綿津神、上津綿津見神となっています。既に書いたように綿は海の古語であり、綿津見は海の神を意味し、転じて海そのものを指す場合もあるようです。志賀海神社の詳細は以下の同社ホームページを参照ください。
http://www.shikaumi-jinja.jp/about/index.html#section1


志賀海神社の位置を示すグーグル地図画像。

綿神社の一帯はすぐ近くに貝塚もあり、弥生時代においては海に近い場所となっていました。また周辺の遺跡からは遠賀川式土器が出土しています。それに由緒内容を加味すると、安曇族の動きが見えてきます。志賀島に本拠を置く安曇族は、弥生人を乗せた船で瀬戸内海を渡り、紀伊半島をぐるっと回って伊勢湾に入り、湾内を北上して綿神社周辺地域にまで到達したのです。と言いたいのですが、ちょっと待ってください。

綿神社の由緒からはそうした流れが読み取れるものの、実際には注意すべき点もあります。それは由緒の最初の部分です。この部分を読む限りでは、同社の創建は弥生時代前期の2300年前にまで遡ってしまいますが、そんなことはあり得ません。確認のため安曇族の始まりを文献でチェックしてみましょう。

「日本書紀」の応神天皇3年条には阿曇連の祖大浜宿禰の記事があり、彼が海人の騒乱を鎮めたので以後海人の統率者となったとの記事が見られます。応神天皇3年は実年代では392年(注:必ずしも正確な年代ではありません)なので、4世紀の終わり頃が安曇族の始まりとなります。従って、弥生時代前期(紀元前300年頃)だけでなく、弥生時代後期でニギハヤヒがいた190年頃まで下っても安曇族(阿曇族)を名乗る一族は存在していないと理解されます。では、どう考えればいいのでしょう?

弥生前期の北九州には物部氏も安曇族も存在していませんが、遠賀川流域と尾張を結ぶ海路が存在していたのは厳然たる事実であり、この流れは、弥生後期の190年代へと繋がっていきます。従って、190年代においてはプレ安曇族がプレ物部氏を大和や尾張にまで船で運んだとの推定が可能となります。プレ物部氏を尾張まで運んだ志賀島を拠点とするプレ安曇族。彼らの記憶は時代を超えて受け継がれ、後代の綿神社創建へと繋がり、その記憶が由緒のような内容として語られたのです。

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鳥居と拝殿。

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拝殿。社殿はコンクリ製のようです。

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本殿。

         尾張と遠賀川流域の謎を解く その6に続く


         
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