尾張と遠賀川流域の謎を解く その19


今回は鞍手町中山に鎮座する八剣神社の由緒を検討していきましょう。取り敢えず、幾つかある問題点の整理から始めたいので以下に箇条書きします。

同社は剣岳の山麓に鎮座しているのに、なぜ社名は剣神社ではなく八剣神社となるのか?
一般的に八剣神社の場合、祭神は日本武尊のみのはずなのに、なぜ日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神なのか?
日本武尊と素戔嗚尊は北九州にて数多く祀られているが、尾張限定のはずの宮簀媛命がなぜこの地にて祀られているのか?
創建は安閑天皇の時代だが、そこにどんな意味があるのか?
前回でアップした同社の由緒には、草薙神剣を当社(当時は剣岳山頂のはず)にしばらくの間安置したとあり、新たな謎まで加わっている。これをどう説明したらいいのか?

と言ったところでしょうか。これらの検討のため、前回の解説石板から必要部分を抜粋します。

八剣神社由緒
日本武尊熊襲征伐の折當国を経歴し給う酋長田部今朝麿村人と共に之を迎う尊喜び一方ならず 帰路再びこの地に留り給う酋長行宮を集英して守護し奉る 
安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて当社を剣岳山上に奉仕す
祭神日本武尊 須佐鳴尊 宮簀姫命
創立剣岳山上 中山の称起こる 安閑天皇時代
本社に草薙剣を奉護す 天智天皇七年二月
梅野土佐山上に城を築き本社を山の艮に移す 応仁年中
本社を山上に再建す 元亀二年
本社を新北に分霊す 元亀二年
本社炎上 天正元年七月
本社を小牧八剣神社に分霊す 寛文五年
本社を山の中腹に移す 宝永二年十二月
本社を現在地に移す 明和三年九月
本社を新北に分霊す 元亀二年

上記の中には幾つも重要な情報があるので、じっくり見ていきます。最初に登場するのが日本武尊で、熊襲征伐の折に当地に立ち寄り歓待を受け、帰路にも再び立ち寄ったとのこと。もちろんここで言う日本武尊とは北九州の武人であり、彼は遠賀川流域全体に多くの足跡を残しています。遠賀川流域の中でもとりわけ重要な場所となる剣岳に武人の伝承があるのは当然とも言えるでしょう。ただ彼の話は伝承として存在するだけで、中山八剣神社の創建は安閑天皇の時代まで下ります。この時点における日本武尊は、北九州の武人ではなく尾張や大和の日本武尊と想定されますが、詳しい検討は後の回とします。

続いて中山は八剣神社か或いは剣神社なのかについて考えてみます。「その17」や「その18」などで、最初は剣岳山頂に鎮座していた点、3神を祀っている点から、中山は本来剣神社ではないかと書いています。今回はこの部分を一旦横に置いて検討を進めます。

解説石板によれば社名は八剣神社、その創建は安閑天皇の御代で、剣岳山上に鎮座したことになります。ところが、「太宰管内志」の記事では表題が中山劒神社になっており、記事中の「社記略」には、中山村劒神社は初め中山村山上にあり、と書かれていました。「太宰管内志」に従えば、同社が剣岳山上に創建され鎮座したのは剣神社(剣大明神)であって八剣神社ではないことになります。「太宰管内志」の中山八剣神社に関する記事詳細は以下のコマ番号313を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766660

ちなみに、「太宰管内志」は古物神社の神職家に生まれた伊藤常足が天保12年(1841年)、68歳の時に完成したものです。

由緒と史料の間で早くも齟齬を来した中山八剣神社の社名問題を、同社が最初に鎮座した剣岳の側から探ってみます。剣岳に関しては、「筑前國續風土記」鞍手郡のコマ番号15に記載あるので参照ください。
http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/pdf/d13.pdf

釼岳 此山鞍手郡の中央に只一あり。故に中山共云。
中山村にあり。村より七町ある坂を登る。山上に釼大明神の社あり。故に釼岳と號す。社は巽に向へり。凡此邊に、釼大明神を祭る社八社有。中山村、新入、龍徳、新北、新延、下木月、遠賀の本城村也。

剣岳は鞍手郡の中央にあるので中山とも言う。中山村にあり、村より七町ある坂を登る。山上に剣大明神の社があるので、剣岳と号している。社は巽に向いている。剣岳山麓周辺に剣大明神を祀る神社が八社ある。中山村、新入、龍徳、新北、新延、下木月、遠賀の本城村である。

「筑前國續風土記」には、山上に剣大明神の社があるので、剣岳と号している。と書かれていることから、山の名前は山頂の祠から採ったものと確認されます。それを前提として考えてみましょう。仮に山上で八剣大明神を祀っていたとしたら、山名はどうなりますか?そう、当然八剣岳になっていたはずです。けれども山名は剣岳でした。矛盾しそうなこの問題をさらに追及してみます。

以前簡略に書いていますが、ネット情報に以下の内容がありました。元史料は鞍手町の八剣神社に伝わる「中山八剣之伝記」(鞍手町中山八剣神社蔵書)とのこと。これには、安閑天皇の御宇今朝麿の遠孫人麿が山上に小祠を立神霊をまつり、熱田の号に本つき八剣大明神と崇め奉り、と言った記事があるそうです。出典まで書かれているので内容は多分間違いないでしょう。この記事により中山八剣神社は熱田神宮の影響を受けていると確認されます。

ポイントは、熱田神宮の号(別名)に基づいて八剣大明神と崇め奉ったと書かれた部分です。その時代は安閑天皇の御宇ですから、中山八剣神社の創建時点となり、同社は剣岳山上に祀られた最初の時点から八剣大明神(=八剣神社)だったことになります。一方「筑前國續風土記」には、山上に剣大明神の社があるので、剣岳と号している。と書かれていました。山の名前は山頂の社名から採ったものと確認されており、社名が八剣大明神であれば山名は八剣岳となるべきです。

ところが実際の山名は剣岳なので、「中山八剣之伝記」の記述に誤りがあることになってしまいます。結論的には剣岳山上に最初に鎮座したのは、八剣神社ではなく剣神社になると見て間違いなさそうですが、反論の余地もあります。本城の場合は、剣大神を勧請して社名は八剣神社でした。中山は逆に、剣岳山上に鎮座するのが剣大明神だとしても、社名が八剣神社になるのは本城の例からすればあり得ると言えるのです。よって、少し別の角度から見ていきましょう。

熱田神宮の号(別名)が708年に創建された八剣宮(祭神は熱田神宮・本宮と全く同じ)を意味しているのは、「中山八剣之伝記」の記述内容から明らかです。だとすれば、530年代となる安閑天皇の御代に熱田神宮の号が八剣大明神(八剣宮)だなど、全くあり得ない話になってしまいます。

上記以外にも根本的な問題があります。熱田神宮の創建は社伝によれば景行天皇43年(113年)で、「熱田太神宮縁記」(コマ番号6)には日本武尊が亡くなってから宮簀媛命が熱田社に祀ったと書かれています。けれども、これらは日本武尊の死去した時点であり、伝説に過ぎません。実際の創建を文献でチェックすると、「熱田神社問答雑録」が大化元年(645年)、「朱鳥官符」が大化2年の丁未で干支を取れば大化3年になっています。

大化3年には熱田神宮摂社の下知我麻神社、上知我麻神社や境外社の松姤社などが松炬島(注:現在の笠寺一帯。かつては島状態で尾張氏の当初の拠点の一つ)から揃って遷座していますので、事実上の熱田神宮創建は645年から647年の間とみてほぼ間違いなく、安閑天皇の時代にはまだ存在していないのです。日本各地の主要な神社は大化の改新の進展に連動する形で創建されていますので、「熱田太神宮縁記」説は誤りと理解すべきでしょう。剣岳山上に最初に鎮座したのは、八剣神社ではなくやはり剣神社だったのです。(注:「熱田太神宮縁記」はデジタル化されていますが、本記事をアップした時点では接続できなくなっています)

「中山八剣之伝記」に書かれた記事の矛盾を追求することで、剣岳山上に鎮座していたのは八剣神社ではなく剣神社だったと確認できました。他にも確認できる史料があります。鞍手郡鞍手町古門には古物神社が鎮座し、そこに合祀された剣神社は剣岳から勧請されており祭神も3神でした。古物神社の由緒からも剣岳山上に鎮座していたのは剣神社だったと理解される内容ですね。(注:古物神社の詳細は後の回で個別に書いていきます)

以上、あれこれ検討した結果、中山八剣神社は本来剣神社だったとほぼ論証できたようです。

にもかかわらず社名が八剣神社となっているのは、1185年に本城の八剣神社の影響を受けたか、或いは熱田神宮別宮の八剣宮が創建された708年以降のある時点において何らかの影響を受けたことによるのでしょう。それは「中山八剣之伝記」に、熱田神宮の号に基づき云々、と書かれている点からも推論できます。社名問題はややこしさを極めましたが、「その17」にて既に書いたように、剣岳周辺に鎮座する各社は剣岳と本城の両方の影響を受けたため混乱を来し、剣神社か八剣神社かわかりにくくなってしまったのです。

残念ながら中山八剣神社において、本城或いは八剣宮の影響を示す史料は失われ、残存していなかったことから、創建時点にまで遡って八剣大明神と崇め奉ったことにしたと推定されます。ただ、遡り過ぎてしまったため、安閑天皇の時代に熱田の号に基づき八剣大明神と崇め奉ったなどと言う矛盾に直面する羽目となったのです。

続いて祭神を見ていきます。剣岳山上にある剣大明神は明らかに日本武尊を意味しており、一柱の神のはずなのに、中山八剣神社の祭神は日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神でした。もちろん、主祭神を日本武尊、配祀神を素戔嗚尊、宮簀媛命とする見方や、3神をひっくるめて剣大明神とする見方も可能ではあります。その見方が正しいかどうかはともかくとして、中山八剣神社における日本武尊自体に大きな問題が残っています。そうした問題は後の回でじっくり検討予定です。

「筑前國續風土記」に記載された剣大明神を祀る八社のうち、残りの神社も見ていきます。新入剣神社は日本武尊を戦国時代に熱田神宮から勧請していますので、時代も遅く別枠と考えます。龍徳剣神社は詳細が不明ですが、鎮座位置から判断すると祭神は3神だと推定されます。新北(現在の熱田神社)、新延(剣神社)、下木月(剣神社)はいずれも3神が祭神となっています。本城八剣神社は剣大神(日本武尊)となっていますが、どう考えても剣岳山麓周辺にはならないので、別枠的に考えるべきではないかと思います。

そして、別枠的に考えるべき本城の八剣神社のみが日本武尊(剣大神)だけを祀っているのですから、剣大明神を祀るとされる八社のうち、祭神と言う意味において「筑前國續風土記」の記述に整合してくるのは、時代が新しすぎる新入を除き本城だけとなります。

本当にややこしいのですが、鎮座地と祭神をベースに考えれば、やはり八剣神社が日本武尊で、剣神社を日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神とするのが妥当なように思えます。剣岳山上に祀られた剣大明神は剣神社だとして、祭神が3神になるのか、或いは日本武尊のみとなるのかは、他のもっとややこしい問題の解明が必要となり、現時点では結論を出せず、一旦保留するしかなさそうです。

他の史料もチェックします。吉田東伍氏の「大日本地名辞書 上巻」には「其(剣岳)頂上に剣大明神を祀り山北を剱村と呼ぶ、此峯郡の中央に聳ゆれば、中山とも称したり、剱明神は山下の諸村に分祀す、蓋物部氏の兵仗(ひょうじょう)を祭る所にして、以て往時其族等の住止を徴すべき者とす。」と書かれていました。「筑前國續風土記」とほとんど同じですね。
「大日本地名辞書 上巻」はデジタル化されていますので、以下を参照ください。コマ番号は735となります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937057

社名問題から少し離れ、「大日本地名辞書 上巻」の内容をざっと見ていきます。兵仗とは戦闘用の実用の武器や武器を持った武官である随身 (ずいじん)・内舎人(うどねり)などの称とされます。ここから吉田氏は、剣岳を物部氏の武器(を持つ戦士)を祀る場所とされているようですが、混同している部分があると思われます。

遠賀川流域が物部氏の原郷であるのは間違いありません。けれども、前にも書いたように、彼らが武器を祀るようになったのは大和に進出し石上神宮が創建され、朝廷の武器を管理するようになって以降の話であり、それ以前の遠賀川流域にいたころは物部氏と名乗っていた可能性も低いと思われます。こうした観点からニギハヤヒ東遷以前に遠賀川流域を拠点としていた集団について、本シリーズではプレ物部氏と書いている訳です。

剣岳が物部氏の武器(を持つ戦士)を祀る場所ではない点は、剣岳周辺に鎮座する剣神社の祭神が物部氏の神でないことからも確認されます。つまり、剣岳はプレ物部氏にとっての聖山ではあっても、物部氏の武器や武器を持つ戦士を祀る場所ではないのです。この点に関して混同や誤解がないよう留意ください。

「筑前國續風土記」の剣岳の項に書かれた剣大明神を祀る社に「新北」があり、この社は現在の熱田神社に当たります。(注:熱田神社は剣岳のやや南寄り西麓に鎮座し、鎮座地は鞍手郡鞍手町新北)中山八剣神社由緒には、本社を元亀2年(1571年)、新北に分霊するとありました。理由は熱田神社が同年に炎上したためと思われます。従って、熱田神社祭神は既に書いたように中山八剣神社と同じとなりますが、ここで新たな疑問が浮上してきます。

中山八剣神社から分霊され祭神が同じなら、新北の社名は八剣神社となるべきなのに、なぜ熱田神社と称したのでしょう?(注:同社の手書き史料によると、曖昧な表現ながらかつて八剣神社と称した時代もあったようです)これも解くべき新たな謎の一つになりそうです。ただその解明は中山八剣神社などの調査が終了してからとします。

八剣神社は数が多いので、参考までに遠賀川流域一帯に鎮座する八剣神社を以下に纏めておきます。(注:現在は剣神社の社名だが史料で八剣神社と書かれているもの、過去に八剣神社と称していたものなども含めています)

現在は八剣神社
北九州市八幡西区本城に鎮座:(1185年に熱田神宮より勧請)
北九州市若松区小敷に鎮座:(本城より勧請と推定)
北九州市若松区塩屋に鎮座:(本城より勧請)
遠賀郡水巻町立屋敷に鎮座:(本城より勧請と推定。草薙神剣盗難事件の伝承あり)
遠賀郡遠賀町今古賀に鎮座:(立屋敷より勧請)
遠賀郡遠賀町広渡に鎮座:(立屋敷より勧請)
中間市中底井野に鎮座:(浅木神社より勧請)
鞍手郡鞍手町中山に鎮座:(草薙神剣盗難事件の伝承あり)
鞍手郡鞍手町小牧に鎮座:(1665年に中山の八剣神社より勧請)

現在は剣神社
鞍手郡鞍手町木月に鎮座:「太宰管内志」は表題を木月八劒神社とする。
直方市下新入に鎮座:「太宰管内志」は表題を新入八劒神社とする。
              戦国時代に熱田神宮より日本武尊を勧請し八劔大神と称えた。
鞍手郡鞍手町新延に鎮座:「太宰管内志」は表題を新延八劒ノ神社とする。

その他
高倉神社:遠賀郡岡垣町に鎮座(八剣宮とも俗称された。草薙神剣盗難事件の伝承あり)
熱田神社:鞍手郡鞍手町新北に鎮座 かつて八剣神社と称した時期もあった。
日吉神社:直方市植木に鎮座(かつては八剣宮と呼んでいた模様。「福岡県神社誌」に書かれた中山八剣神社の由緒からその可能性が指摘できる)

こうして並べると、剣岳山麓周辺に鎮座し、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命を祭神とする剣神社は、1185年に本城に鎮座した八剣神社の影響で、一時的にせよ八剣の社名になったと思えてきます。さてそうなると、剣神社か八剣神社かの問題は単なる混乱や混同ではないのかもしれません。「太宰管内志」が木月、新延の剣神社を八剣神社と表題に書き、一方で中山八剣神社を剣神社と書くのは、一定の意図があった。すなわち、木月と新延は本城の影響があったことを示し、由緒で八剣のままであった中山は逆に本来剣神社であったことを示したかった。とさえ思えてきます。

中山に鎮座するのは八剣神社なのか剣神社なのかと言う問題の検討だけで随分時間を費やしてしまいました。断定まではできないものの、中山は剣神社の可能性が高そうだとしておきましょう。これに付随してもう一つの問題点、すなわち、一般的に八剣神社の場合、祭神は日本武尊のみのはずなのに、中山八剣神社の場合なぜ日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神なのかと言う疑問も、剣神社であれば3神で一応問題ないことになります。(注:剣神社であれば3神で一応問題ないと書きましたが、これはあくまで現時点における判断であり、中山八剣神社の場合、祭神に関しても相当厄介な問題がありますので、次回で詳しく見ていきます)

今回はかなり長い記事となってしまいました。頭の体操的議論も多かったせいか、全体的にわかりにくい内容となってしまったようです。酔石亭主が書きたかったのは、記事の最初に赤字で整理した以下の2点の解明となります。

同社は剣岳の山麓に鎮座しているのに、なぜ社名は剣神社ではなく八剣神社となるのか?
一般的に八剣神社の場合、祭神は日本武尊のみのはずなのに、なぜ日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神なのか?

では、今回様々な視点から検討した結果を以下に纏めておきます。もちろんこれは現時点における途中経過的な内容に過ぎず、今後の微調整もあり得ます。

中山八剣神社は、剣岳山頂から遷座した点、祭神が日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神である点、「太宰管内志」が同社を剣神社と書いている点、古物神社に合祀された剣神社は剣岳から勧請され、祭神も3神である点などから、元は剣神社だったと思われる。剣神社のはずの同社が八剣神社と称されているのは、1185年に源範頼が熱田神宮を本城に勧請したこと、或いは708年に八剣宮が創建されたことの二つの異なる影響が想定され、現時点ではどちらの影響によるものか確定できない。中山が剣神社だとした場合、その成り立ちは本城など八剣神社の系統とは大きく異なってくる。

      尾張と遠賀川流域の謎を解く その20に続く
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