尾張と遠賀川流域の謎を解く その6


前回までの内容を纏めます。今からおよそ2300年前、北九州の遠賀川流域から遠賀川式土器を携えて弥生人集団が尾張に移動し、知多半島を北上。熱田台地に至った彼らは名古屋市熱田区高蔵町の高蔵遺跡(高座結御子神社鎮座地一帯)に集落を営み始め、庄内川を遡って西志賀遺跡、朝日遺跡などにも定着します。高蔵遺跡は海上交通の要所に位置しており、弥生時代を通して海外も含む広範囲な地域との交流がありました。

弥生時代後期となる180年代の終わりに九州で倭国大乱が勃発。これを避けるため、190年頃にニギハヤヒがプレ物部氏を率いて海路北九州から大和へと向かいました。その移動を担ったのが九州の海人系であるプレ安曇族です。尾張においては既に弥生人集団により基盤整備がなされていたことから、ニギハヤヒ率いるプレ物部氏の別動隊となる高倉下一行が尾張に向かい、高蔵遺跡のある熱田台地にまで至ったと想定されます。この部分も後で詳しく論証します。

以上、推定部分が多いものの、弥生時代末期に当たるニギハヤヒ東遷前後(190年頃)までの全体状況が把握できました。尾張側の情勢分析はほぼ終えたので、続いて北九州側の情勢を見ていきます。

ニギハヤヒは遠賀川流域などに本拠を置く数多くのプレ物部氏集団を率いて大和に向かいましまた。一方、主力から別れた別動隊は尾張に入ります。この点を事実として認定するには、プレ物部氏集団の中でどのメンバーが尾張に向かったのかを明確にする必要があるでしょう。

九州は酔石亭主にとってほぼ未知の場所と言っても過言ではなく、うまく探索を進められるか心許ないものがあります。なので、取り敢えずは各史料や書籍などを参照しながら進めていくしかありません。最も参考になったのは谷川健一氏著の「白鳥伝説」(集英社)と「日本の神々 その1」(白水社)、デジタル化された「福岡県神社誌」、「太宰管内志」などです。ただ、それらの見解をなぞるのではなく資料として活用し、できるだけ独自の視点で書いていきたいとは思っています。

(注:以降谷川氏と書く場合、全て「白鳥伝説」における記述を参照しているとご理解ください。なお、谷川氏は「日本の神々 その1」の遠賀川地域を執筆された奥野正男氏の案内で同地域を訪問しています。従って、お二人の見解には近いものがあります)

まず以下のグーグル地図画像を参照ください。


遠賀川流域を示すグーグル地図画像。遠賀川は画像ではわかりにくいのですが、直方駅の東を流れています。

地図の上部ほぼ中央に六ヶ岳(むつがたけ、標高339m)があります。この山は物部氏にとってかなり重要で、しかも瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御陵地と伝承され、宗像大神(宗像三女神)の降臨地ともされています。その北側の九州自動車道の先には地図画像からはみ出しますが剣岳(標高125m)があって、プレ物部氏にとっての聖山となります。それを証するかのように、遠賀川流域から剣岳山麓にかけてはニギハヤヒ東遷に従ったプレ物部氏の存在が確認されます。

地図の下端左寄りに笠置山(かさぎやま、標高425m、笠木山、笠城山)があり、この山頂は貝原益軒著の「鞍手郡磯光神社縁起」によればニギハヤヒが垂仁天皇16年に降臨した場所とのことです。(注:ニギハヤヒの時代がここまで下ることはあり得ません)従って、遠賀川流域の、剣岳から六ヶ岳を経て笠置山に至る一帯は物部氏にとって極めて重要な場所と言えるでしょう。

本論考では主に遠賀川河口付近から笠置山一帯に至る間が検討対象地域となるので、地図画像を拡大して確認ください。この地域には物部氏のみならず、日本武尊や宗像海人族、神功皇后、仲哀天皇などの伝承も残り、天孫となる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)まで登場するので卑弥呼の女王国も比較的近くにありそうな雰囲気です。どれを取っても面白そうですが、とても全部は検討できませんので、本筋以外は多少触れるだけに留めます。

なお遠賀川流域の平野部は弥生時代から古墳時代初期にかけては入海状態だったようです。縄文時代には温暖化に伴う縄文海進があり、ピーク時の海面は現在より4m~5m程度高かったとされています。けれども、その後の寒冷化により海面は徐々に下がり、海岸線も後退し始めます。紀元前後には海退によって海面は現在より約2m程度低下していたとのこと。となると、遠賀川流域も現在より平地が多いことになってしまいます。

一方で、日本武尊や神功皇后の同地における伝承では、遠賀川流域は入海状態であったことを示す記述があります。例えば遠賀郡遠賀町に鎮座する浅木神社には、日本武尊が熊襲征伐の凱旋途中に舟で立ち寄ったとの伝承が残り、由緒には昔は浅木神社の周辺は岡湊よりの内海であった。などと書かれていました。中間市に鎮座する埴生神社には、昔仲哀天皇が、神功皇后と熊襲征伐のため御船でこの地を訪れ、航海の安全を祈願し、船魂の神を祀ったとの伝承が残されています。

また、名古屋市博物館の資料も弥生時代における海岸線は名古屋市の西部がほぼ海の底状態であった形となっています。弥生時代から古墳時代初期の海岸線の状態は、多分海面上昇、下降だけでなく地盤の沈下や上昇、川の上流からの堆積物の流入など様々な要因を含めて考える必要があるのでしょう。難しい問題はわかりませんが、地元に残る伝承などを重視して、弥生時代末期から古代初期の遠賀川流域は入海状態だった前提で書いていきたいと思います。過去の様子をイメージするのに役立ちそうな「デジタル標高地形図 九州」を以下にアップしておきます。

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国土地理院の「デジタル標高地形図 九州」。

地形図の標高が低い部分は海や浅瀬だったと思われます。ただ、遠賀川流域が入海状態だったとの前提だと厄介な疑問にぶち当たります。弥生時代は一般的に水稲耕作による稲作の技術をもつ渡来集団が北九州に移住することによって始まったとされています。けれども、当時の遠賀川流域に平野部はほとんど存在せず、一帯に居住した人々も農耕民とは考えにくい面を持っています。稲作の伝播と遠賀川式土器の伝播は微妙にそのありようが異なるようにも思えるのですが、いかがなものでしょう?

遠賀川式土器で有名な福岡県水巻町立屋敷の立屋敷遺跡など、遠賀川の川岸や川底にあるイメージで、遠賀川流域が入海状態だったとしたら島か中州状態となってしまいます。ちなみに、遠賀川式土器は1931年に遠賀川の川底から出土しています。弥生時代の稲作関連は以下に詳しいので参照ください。


苦手な分野の余談はここまでとします。次回はニギハヤヒ東遷に随行したプレ物部氏集団の中の誰が尾張に向かったのかと言う課題の検討に入ります。

        尾張と遠賀川流域の謎を解く その7に続く

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