尾張と遠賀川流域の謎を解く その7


今回はニギハヤヒ東遷に随行したプレ物部氏集団の中の誰が尾張に向かったのかと言う課題を検討します。取り敢えずは「先代旧事本記」天神本紀に記載ある各随行メンバーを、以下に書き出してみましょう。(注:各メンバーの推定出身地、移住先に関しては、主に「白鳥伝説」の記述内容から引用しています。数が多いのでざっと見ていただくだけで結構です)

メンバー  推定出身地                 推定移住先
二田物部  筑前鞍手郡二田郷/筑後竹野郡二田郷    和泉郡上泉郷二田
当麻物部  肥後益城郡当麻郷            大和葛下郡当麻
芹田物部  筑前鞍手郡芹田             大和城上・城下・平群各郡芹田
馬見物部  筑前嘉麻郡馬見郷            大和葛下郡馬見
横田物部  筑前嘉麻郡横田村             大和添上郡横田村
嶋戸物部  筑前遠賀郡島門              不明
浮田物部  不明                   大和葛下郡浮田村
菴宜物部  不明                   伊勢奄宣郡奄芸郷
疋田物部  筑前鞍手郡疋田/讃岐大内郡疋田   大和城上郡疋田/大和添下郡疋田郷                                                
大和葛下郡疋田/その他各地
酒人物部  不明               摂津東生郡酒人郷/河内古市郡尺度郷、大和平群郡坂門郷
田尻物部  筑前上座郡田尻村/筑後三池郡田尻 美濃多芸郡田後郷/大和葛下郡田尻                         
摂津能勢郡田尻村
赤間物部  筑前宗像郡赤間          長門豊浦郡赤間
久米物部  伊予久米郡/喜田郡久米郷   摂津住吉郡榎津郡来米/大和高市郡来米郷
狭竹物部 筑前鞍手郡粥田郷小竹       常陸久慈郡佐竹郷
大豆物部  筑前穂波郡大豆村         大和広瀬郡大豆村
肩野物部  肥後片野            河内交野郡
羽束物部  不明              摂津有馬郡羽束郷/山城乙訓郡羽束郷
尋津物部  豊前上毛郡広津         大和城上郡尋津/河内丹比郡広来津村
布津留物部 不明               淡路国三原郡
住道物部  不明                摂津住吉郡住道郷
讃岐三野物部  筑前筑紫郡美濃       河内若江郡三野/讃岐三野郡
相槻物部  不明              大和十市郡両槻村
筑紫聞物部  豊前企救郡          不明
播麻物部  不明              播磨明石
筑紫贄田物部  筑前鞍手郡新分郷      不明

上記の各物部は「先代旧事本紀」の「天神本紀」に「天物部ら二十五部人、おなじく兵仗を帯びて、天降り供奉らしむ」と書かれた後に出てくる文面で、全メンバーがニギハヤヒに従って移動したことを示しています。移動先の多くは大和及びその周辺地域となっています。

記述内容から彼らは武人であると理解されますが、それにしても物部氏の同族がこれほど多くの地域にいるとは考えられません。多分上記の「物部」は軍団を意味しており、それも各邑の小隊レベルの人員ではないかと推定され、例えば二田物部は二田小隊と考えた方がいいように思えます。(注:それぞれの推定出身地、移住先は諸説あるようです)

さて、25地域にも及ぶ物部の出身地と移住先を見て、尾張に移住した物部の候補がすぐに浮かんできました。赤字で書いた嶋戸物部(しまとのもののべ、推定所在地は遠賀郡遠賀町島門)、筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ、推定所在地は鞍手郡鞍手町新北)、筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ、推定所在地は北九州市小倉北区、小倉南区、門司区一帯)です。理由は明快。22部の物部の行先は一応確定しているので、行方不明の3物部のいずれかが尾張に移住したと考えて間違いないのです。一気に候補を絞り込めましたので、早速3物部の検討に入りましょう。

最初に取り上げるのは嶋戸物部で、移住前の所在地から調べを進めます。彼らの推定所在地とされる島門は、多分遠賀川河口付近に位置するはずで、実際の場所を地図画像でチェックします。


遠賀郡遠賀町島門(しまど)の位置を示すグーグル地図画像。拡大してご覧ください。やはり河口に近いですね。

地図画像で見ると、島門はかつて海だった場所のように思えます。現在の島門の位置はここだったとしても、嶋戸物部の本拠地は違うのかもしれません。「日本の神々 その1」(白水社)の高倉神社の項をチェックしたところ、嶋戸物部の本拠と見られる島津には、遠賀川流域で最古かとされる丸山古墳(前方後円墳、全長四五メートル、四世紀代? 未調査)があり、その西の対岸鳥見山にも後期の古墳群や横穴群が密集している。と書かれていました。さらに、島津は大宰府官道の駅家「島門」に比定される、ともあります。従って、現在の島津が嶋戸物部の本拠地となりそうです。


遠賀郡遠賀町島津の位置を示すグーグル地図画像。

地図画像にある島津を見る限りでは、嶋戸物部の居住地が狭すぎるように思えませんか?これではまずいので、別の史料で異なる視点から調べてみましょう。「日本書紀」仲哀天皇八年条には崗県主熊鰐が仲哀天皇を出迎え海路で崗浦(おかうら)に入ったとき、大倉主命(おおくらぬしのみこと)と菟夫羅媛(つぶらひめ)(注:この2神は岡垣町鎮座の高倉神社祭神)の心により船が水門で進まなくなった話があります。天皇は倭国の菟田(現在の宇陀)の伊賀彦を祝(はふり)として2神を祀らせ、ようやく船は動き始めました。

上記の崗浦とはどこになるのでしょう?「日本書紀」に書かれた仲哀天皇の移動ルートから検討していきます。仲哀天皇の8年には、天皇の移動経路に関し、山鹿岬より廻りて岡浦に入ります。水門に到るに、御船、進むこと得ず。と書かれていました。山鹿岬、岡浦(崗浦)、水門の三つの場所が順番に出てくるので、それぞれがどこに当たるのか詳しく検討してみます。


山鹿岬と遠賀川河口付近の位置を示すグーグル地図画像。

まず山鹿岬です。岩屋漁港と書かれた上の岬が山鹿岬で、現在の遠見ケ鼻に当たります。ここを廻って天皇は岡浦に入ります。岡浦は、そのの音から判断すると岡=遠賀で、岡浦=遠賀浦=現在の遠賀川になりそうです。「日本書紀」を読む限りでは、水門(=崗の水門)は岡浦(遠賀浦)の河口からすぐの距離にあるように思えます。崗の水門(おかのみなと)の位置を特定するため、神功皇后の移動経路も見ていきましょう。彼女は天皇とは違うルートを取りました。

「日本書紀」によると、神功皇后は別船で洞海(くきのうみ)より入ったが干潮により船が進まなくなったとのことです。神功皇后が通った海路は現在の洞海湾(どうかいわん)から江川を経て遠賀川河口付近に至るルートとなります。

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デジタル標高地形図 九州を再掲。画像サイズを大きくしています。

画像の右上から深く入り込んだ湾が現在の洞海湾で、洞海湾から北西に河川(江川)が伸び、遠賀川河口近くに至っています。

神功皇后の船は干潮で動かなくなりますが、その後満潮になり船は洞海を進み岡津に停泊します。岡津の(津)は船の停泊する港を意味するので、彼女は遠賀浦の港に入港したことになりそうです。一方、崗の水門(おかのみなと)の水門(=湊)とは港湾施設の陸上部分を意味します。従って、岡津と崗の水門は同じ場所になるでしょう。

「日本書紀」の記述を簡単に纏めると、仲哀天皇は大型船で外洋を航海して遠賀川河口のやや上流部に位置する崗の水門に到り、神功皇后は小舟に乗り江川を経由して同じ場所に向かったことになります。両者の動きから、崗の水門は遠賀川河口から少し上流の遠賀川と江川の合流点辺りに位置すると推定されます。(注:史料によっては遠賀川河口に崗の水門があるとの記事も見られます)


遠賀川と江川の合流点の位置を示すグーグル画像。

向田橋辺りが合流点となっています。この背後の丘陵が崗の水門だったのでしょうか?仲哀天皇は外洋から遠賀川に入って崗の水門に到り、神功皇后は江川から崗の水門に向かった以上、両河川の合流点を崗の水門とするのが合理的に思えますが、地形を見ると何とも言い難いものがあります。背後の崖の手前にある宅地は川から崖に向けて登り坂となっているので、その辺りが水門(陸上の港湾施設)だったのかもしれません。合流点が古代と現代で同じとは言い難い面もありますが、崗の水門の対岸が嶋戸物部の支配する島津となるのですから、位置関係的には正しそうに思えてきます。

「日本の神々 1」の高倉神社の項には、谷川健一氏が「島門物部の奉斎する神が岡の水門の神大倉主命であった」と言う説を示している。と書かれていました。天皇の船が崗の水門で進まなくなった話は、水門を支配する嶋戸物部に足止めを食らったと考えてよさそうです。島津は、大倉主命を奉斎する嶋戸物部が海上交通の要衝である水門に睨みを利かせる最適地だったのです。これらの諸要素を勘案すると、崗の水門はやはり遠賀川と江川の合流点と考えられ、水門も嶋戸物部の支配地になります。

続いて神功皇后が別船で航行した洞海(くきのうみ)について考えてみます。神功皇后は現在の洞海湾に入り、湾から北西に伸びる江川を進んで崗の水門にまで到りました。「日本書紀」の記事によると、彼女の船は干潮で一旦動かなくなるものの、後に潮が満ちて洞海(くきのうみ)を進み、岡津(遠賀川の港)に停泊します。

この記事にある洞海(くきのうみ)と現在の洞海湾(どうかいわん)は表記が同じことから同じであるようにも見えますが、広い洞海湾で干潮により船が動かなくなるとも思えません。古代の洞海と現在の洞海湾は別物の可能性があるのです。なので、少し横道に入りますが、古代の洞海についてあれこれ考察してみたいと思います。

まず洞海の文字に関して疑問があります。「洞」の表記と(くき)の音が整合していないように見えるからです。常識的には「洞」は(くき)と読めないので、まず(くき)の音から考えてみましょう。(くき)の音に相当する表記は茎(くき)となります。茎は植物の茎ですが、その機能を考えると水の通る細く長い所を意味しています。

となると、現在の洞海湾は狭くないので、古代の洞海(くきのうみ)には相当しないことになります。多分、洞海湾から分岐して北西に伸び崗の水門に至る狭い河川(江川)が洞海(くきのうみ)だったのでしょう。この場所なら干潮で船が動かなくなることもありそうです。以上から、(くき)の音は江川(洞海)を示していたと考えられます。

「日本書紀」には、迎えに来た熊鰐が神功皇后の船が動かなくなったのを見て、魚池・鳥池を作り、魚鳥を集めると皇后の怒りが解け、潮が満つると船が進み、岡津に停泊したとあります。皇后の船が動かなくなった場所の特定も可能です。江川の北側には魚鳥池神社が鎮座しているからです。グーグル地図画像で見ると、その場所は洞海湾ではなく、洞海湾から遠賀川へ至る江川のやや洞海湾寄りに位置していました。


位置を示すグーグル地図画像。画像の下の端が江川(洞海)で、北九州市立洞北中の「北」の字の辺りが魚鳥池神社です。画像を拡大して確認ください。

デジタル化された「筑前国続風土記」で洞海(くきのうみ)の項(コマ番号29)を見ると、狭い所は六、七間、なお狭い所は四、五間あり。大船は通らず。これを洞海と言う。なお、「くき」とは狭い所に水の通じることを言う。水茎の岡の湊と言うのもこの意味である。と書かれていました。やはり古代の洞海(くきのうみ)は現在の洞海湾ではなく、江川の狭い水路部分を示していると見て間違いありません。また、「水茎の岡の湊」の表現から崗の水門が江川と遠賀川の合流点の江川側に位置すると理解されます。「筑前国続風土記」は以下を参照ください。
http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/pdf/d15.pdf

洞海の範囲に関して他の例を見ていきます。「筑前国風土記逸文」にある塢舸(おか)の水門(みなと)の項には岫門(くきど)とあり、岫は山の洞穴を意味しています。この項の全文は以下となります。

塢舸の県。県の東の側近く、大江のロあり。名を塢舸の水門と曰ふ。大船を容るるに堪へたり。彼より島、鳥旗の澳に通ふ。名を岫門と曰ふ。小船を容るるに堪へたり

崗の県。県の東側近くに大きな川の河口がある。名を崗の水門と言う。大きな船が航行できる。崗の水門から島(島郷、現在の若松市。周りが海なので島郷と名付けた)、鳥旗(とばた、現在の戸畑)の奥に通じるところを岫門と言い、小船が通ることができる。

この記事では崗の水門は遠賀川の河口になり、河口から島郷、戸畑の奥に通じるところが岫門(=洞海)で小舟が通ることができると書かれています。ただ地形的に見ると、江川が遠賀川の河口で合流するようには思えません。その点はさて置いて、上記からも洞海(くきのうみ)は江川(現在の洞海湾から分岐し遠賀川河口近くへと至る細く長い水路)に相当すると理解されます。これで「洞」の音の検討は完了しました。続いて「洞」の表記を見ていきましょう。

問題は、細く長い水路を意味する(くき)の音に、なぜ意味の異なる「洞」の表記が当てられたのかと言う点にあります。洞(ほら)は一般的には暗(くら)い穴を意味しています。遠い昔、人々は洞で生活し温度が安定している洞窟の奥に食料などを保管していたものと思われます。古代になり、平野部で農業などが盛んになると、そうした場所に洞窟はなく倉を建てて食料などを保管しました。

その意味では、暗(くら)い洞(ほら)と暗い倉(くら)は同じであり、同根語と言えるでしょう。岩波書店の「日本書紀」補注を読むと、洞海の洞は(くら)と訓じたはずの文字であり、…中略… 大倉主とは、大洞主で、洞海の主のことではあるまいか。などと書かれていました。

洞(ほら)は倉(くら)と同根であり、(くら)とも訓じたはずで、岩波の補注によれば大倉主命は洞海の主であり、従って洞海は大倉主命を奉斎する嶋戸物部の支配地域となります。つまり、「洞」の漢字表記は大倉主命にちなんで付けられたものだったのです。洞の漢字一文字と音で、その場所の特性(細く長い水路)と支配者(大倉主命)まで表現した「洞海(くきのうみ)」。古代の人々の鋭い感性には本当に驚かされてしまいます。

これで、現在の江川に相当する洞海から崗の水門にかけては嶋戸物部の支配地だったと確認されました。さらに遠賀郡岡垣町に鎮座する高倉神社の祭神は大倉主命であり、遠賀川河口近くに鎮座する岡湊神社も祭神は大倉主命です。大倉主命を奉斎するのはもちろん嶋戸物部となります。

以上で嶋戸物部の支配領域はほぼ確定できました。大倉主命を奉斎する嶋戸物部は、遠賀川河口からその上流部となる島津、崗の水門、遠賀川に合流する洞海、そして、古内浦湾(この奥に高倉神社が鎮座)一帯を支配していたのです。北九州における主要な海路を掌握していた嶋戸物部は、遠賀川流域のプレ物部氏にとって非常に重要な存在である点も併せ理解されますね。

既に書いたように、嶋戸物部(=島門物部)の奉斎する神が大倉主命でした。また「その2」において、大倉主命と尾張の高座結御子神社祭神の高倉下は同一神になると書いています。この2点から、嶋戸物部の移住先は尾張になりそうな気配が漂い始めたと感じられませんか?

話は変わります。仲哀天皇の船が進まなくなったとき、天皇が倭国の菟田(現在の宇陀)の伊賀彦を祝(はふり)として2神を祀らせると、船は前に進むことができました。「日本書紀」のこの記事を読むと頭の中に疑問が浮かんできます。

ストーリーとは全く関係なさそうな宇陀の伊賀彦なる人物がなぜ唐突に登場したのでしょう?また、なぜその人物によって船は前に進めるようになったのでしょう?伊賀彦の登場の背後には、目には見えない何らかの必然性があったはずです。ではどんな必然性があったのか?

菟田は現在の宇陀で、あれこれ調べたところ宇陀郡榛原町福地1には高倉下を祀る椋下神社(くらげじんじゃ)が鎮座していました。由緒によれば、神武天皇の軍勢が熊野に迂回する際、悪い神の毒気に当って、気を失い倒れてしまいます。そのとき高倉下が布都御魂を献上し、剣の霊威によって軍勢は正気を取り戻しました。

この功績を称えて文武天皇の慶雲2年(702年)に八咫烏神社と同時期に創建されたのが当社とされています。何と高倉下の登場する最も重要な場面に関係するのが宇陀に鎮座する椋下神社だったのです。大倉主命と高倉下が同一神であったからこそ、その高倉下を祀る地の人物が大倉主命を祀れば神の心も鎮まると言うものではないでしょうか?大倉主命=高倉下の証明がひょんなことから一つ発見できた気分です。椋下神社に関しては以下を参照ください。
http://kamnavi.jp/mn/nara/mukusita.htm

また、「先代旧事本紀」には伊賀彦王の名前があり、日本武尊の子となっています。伊賀彦と伊賀彦王が同じ人物かは不明ですが、同じだとすれば日本武尊の子になります。地元で崇敬されている日本武尊(実態は北九州の武人ですが…)の子が大倉主命を祀るのであれば、大倉主命(を奉斎する嶋戸物部)としては心を鎮めるしかありません。(注:伝説的な話なので時系列は無視しています)それらの関係を踏まえて、仲哀天皇8年条に伊賀彦の話が出てきたと推察しますが、いかがなものでしょう?

やや中途半端ですが、今回は嶋戸物部の支配地域と洞海の意味を探っただけで終了とします。

         尾張と遠賀川流域の謎を解く その8に続く
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