尾張と遠賀川流域の謎を解く その9


今回は嶋戸物部の移住先から検討します。既に書いたように、彼らが奉斎する神は大倉主命でその実体は高倉下でした。(注:大倉主命=高倉下に関しては今後もさらに検証していきます)そして嶋戸物部もニギハヤヒに供奉したメンバーに入っている以上、船に乗って瀬戸内海を渡り難波にまで同行したはずです。けれども、彼らは大和に入らなかった。

そう、嶋戸物部は弥生時代前期において弥生人集団が移動したルートを辿り尾張に向かったのです。多分彼らはニギハヤヒの指示で東国の蝦夷の侵攻に備えるため尾張に入ったのでしょう。高倉下は天孫本紀によればニギハヤヒの子に当たるので、わが子に敢えてつらい務めを命じたと見てよさそうです。

こうした措置により嶋戸物部の移動先が盲点となり、不明とされてしまった可能性もあります。(注:高倉下の名前はニギハヤヒに従ったメンバーの中に記載ありません。天神本紀によれば、32人の防衛の人の最初に天香語山命として記載されています。そして天香語山命の天降った後の名前が高倉下となります)

高倉下の率いる嶋戸物部一行は難波から南下して紀伊半島を回ります。それを証明するような伝説的記述が記紀に見られます。神武天皇が軍勢を率いて東征したときのことです。熊野(注:現在の度会郡大紀町、熊野市二木島町など諸説あり)に入った神武軍は悪神の毒気により人事不省となってしまいました。その時、熊野に住む高倉下が一振りの剣を携え現れると、あら不思議、彼らは覚醒したのです。

この剣は佐士布都神といい、甕布都神とも布都御魂ともいい、今は(注:記紀編纂当時の今)石上神宮に祀られています。以上の説話から高倉下が紀伊半島にまで至っていることが確認されます。紀伊半島を回った嶋戸物部一行は伊勢湾に入り北上していきます。では以下の画像を参照ください。以前に書いた内容の繰り返しになる点はご容赦の程…。

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画像サイズを大きくしています。

これは名古屋市博物館の館内モニターで流されていたものです。画像のほぼ中央に名古屋城がありその下に高蔵遺跡と表示があります。既に書いたように、この高蔵遺跡は高倉下を祀る高座結御子神社の鎮座地でもあり、住所は名古屋市熱田区高蔵町9-9となっています。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

高蔵遺跡は当時半島状となっていた熱田台地の海に近い場所にあり海上交通の要所となっていた関係で、弥生時代を通して集落が営まれていたとのことです。詳しくは以下を参照ください。

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尾張の弥生時代外観。

高蔵遺跡からは遠賀川式土器が出土しており、それらはプレ物部氏移住の先駆けとなる弥生人集団が今から2300年ほど前に持ち込んだものでした。高蔵遺跡では弥生時代を通して集落が営まれていたとされ、弥生末期の190年頃、この海上交通の要衝に高倉下に率いられた嶋戸物部がやって来たと考えても違和感はありません。今まで何度か論証してきたように、古代における尾張氏の北隣は物部氏の領域でした。高蔵遺跡は正にその境界付近に立地しています。以上から、嶋戸物部の移住先は尾張の熱田台地(高蔵遺跡一帯)になると見て間違いなさそうです。ここでその根拠を纏めてみましょう。

弥生時代前期の約2300年前、遠賀川流域の弥生人集団は尾張にやって来て遠賀川式土器を伝えた。その主な移住先の一つが高蔵遺跡で、ここは高倉下を祀る高座結御子神社の鎮座地でもある。
尾張においては高蔵遺跡だけが弥生時代を通じて集落が営まれた。その理由は、この遺跡が海上交通の上で重要な役割を果たしたことによる。
高蔵遺跡において弥生時代を通じて集落が営まれたことは、弥生時代前期に遠賀川土器を尾張に持ち運んだ弥生人の流れが、ニギハヤヒの時代(弥生時代末期の190年頃)に至るまで継続していたことを示している。
高蔵遺跡は海上交通の拠点であり、そのため後期には中国製の鏡がもたらされるなど、遠隔地との交流もあった。
遠賀川流域で祀られている大倉主命は天降った後の尾張においては高倉下で、高倉下を祀る高座結御子神社鎮座地が高蔵遺跡に当たる。
高倉下一行の移動経路に当たる熊野には高倉下の伝承が残されている。
ニギハヤヒに随行した25部の物部のうち、嶋戸物部は移住先が不明な3物部の一つである。
古代の尾張においては尾張氏の北隣が物部氏の支配領域で、高座結御子神社の鎮座地は正にそうした場所に当たる。

これだけ状況証拠を積み上げれば十分ではないでしょうか?そう、不明とされていた嶋戸物部の移住先は名古屋市熱田区の高蔵町だったのです。これでニギハヤヒ率いるプレ物部氏集団移住の謎の一つが解けました。

高倉下と嶋戸物部のプレ物部氏集団はさらに北上して庄内川を遡り、弥生人集団が川の両側に朝日遺跡や西志賀遺跡、平手町遺跡を営んだ地に至ります。高倉下はなおも庄内川を遡り、最終的に春日井市高蔵寺町にまで至ったものと想定されます。そこには高座山(たかくらやま、高倉山)があって山名は高倉下に関係し、山麓には高座結御子神社の奥宮ともされる五大明神社が鎮座しているからです。五大明神社と高座山などに関しては「熱田神宮の謎を解く その25」、「尾張氏の謎を解く その117」、「尾張氏の謎を解く その118」を参照ください。

この場所は以前尾張氏の謎解きで書いたように彦坐王一行が鏡(=天香山命)を奉じながら到来した場所でもあり、彼らは庄内川を渡河して東谷山山麓に至り、ここが彦坐王の終焉の地となります。春日井市高蔵寺町の高座山に至った彦坐王はここに高倉下が来ていたことを知ります。(注:天香山命が鏡(或いは鏡に象徴される存在)であるのは「尾張氏の謎を解く その6」で書いていますので参照ください)

ちなみに、天香山命の父神は天火明命ですが、彼を祀る鏡作坐天照御魂神社の由緒には、「本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とあり、天火明命=鏡となっています。詳細は「尾張氏の謎を解く その27」を参照ください。葛木坐火雷神社や真清田神社の由緒によれば、天香山命の別名は石凝姥命(いしこりとめのみ )であることから、「尾張氏の謎を解く その6」で書いたように、親:天火明命=天糠戸命(鏡作部の遠祖)、子:天香山命=石凝姥命(鏡作部の祖神)の関係が成り立ちます。

彦坐王が奉じる鏡(天香山命)と高倉下はこの地において融合し高倉下=天香山命になったとも推定されます。「先代旧事本紀」における、天香語山命の天降って後の名が高倉下、との記事はそうした状況を反映しているのかもしれません。熱田台地において共存していた物部氏と尾張氏ですが、大化3年頃に尾張氏が大挙して笠寺台地や大高から熱田台地に移り、物部氏は千種区方面への移住を余儀なくされたものと思われます。このため、高倉下を祀る高座結御子神社は尾張氏に取り込まれ熱田神宮の摂社となってしまいました。

以上、話があちこちに飛びましたが、嶋戸物部の移住先は尾張国で、現在の名古屋市熱田区高蔵町一帯であったと確認できました。       

         尾張と遠賀川流域の謎を解く その10に続く
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