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尾張と遠賀川流域の謎を解く その16


今回は立屋敷八剣神社の由緒を検討します。

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解説板。必要部分を以下に書き出します。

八劔神社由緒
主祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと) 砧姫命(きぬたひめのみこと)
合祀神社:保食宮・天津神社・国津神社・天満神社・多賀神社・宮地嶽神社・貴船神社
境内社:月読神社・馬野神社・天照大神社・猿田彦神社

由緒
第十二代景行天皇の御代(71年~130年)、日本武尊は筑紫の熊襲征伐の途次、この地にて砧姫を娶られた。尊が東国征伐の帰途、崩御されたのを聞き、尊の仮宮跡に社祠を築き「御館大明神」として祭るを当神社の起源とする。後に「八剱大明神」と改称。文治元年(1185年)山鹿城主、山鹿秀遠が、社殿を造営、その後も尚武の神として、大内、小早川、黒田、と城主、国主により五度、社殿は造営された。当神社は元は、水巻の庄数か村の産土神であったが、遠賀川の改修工事(1628年)により分村、分霊して、今では立屋敷区だけの神社となっている。境内の大銀杏樹は、日本武尊のお手植えと伝承、樹齢千九百年、県指定の天然記念物で、昔から祈願してこの樹皮を煎じて飲めば母乳が出ると伝えられ「乳の神様」と近郷はもとより遠方からも多くの参拝があり、今も祈願者がある。社宝として、壇の浦の源平合戦の戦勝祈願に、山鹿秀遠が奉納した県内最古の「木造の狛犬と随神像」があり、共に町の文化財に指定され「水巻町歴史資料館」に展示されている。

上記由緒の「御館大明神」までは北九州の武人の話であり、後に「八剱大明神」と改称された以降(注:厳密には山鹿秀遠が、社殿を造営云々以降)は尾張の日本武尊になりそうです。注目すべきは、文治元年(1185年)山鹿城主の山鹿秀遠が社殿を造営し、その後も尚武の神として云々、と書かれた部分です。

1185年と言えば、源範頼が本城に剣大神(日本武尊)を勧請したのと全く同じ年。一方、立屋敷の八剣神社は日本武尊(=北九州の武人)の仮宮跡に祠を築き、御館大明神として祀ったのが始まりでした。そして時代も下った1185年、源平合戦の最終ステージとなる壇ノ浦の戦い(同年4月25日)より少し以前に、山鹿秀遠が社殿を造営した(実質的に創建した)ことになりそうです。山鹿秀遠に関しては以下Wikipediaより引用します。

山鹿 秀遠(やまが ひでとお、生没年未詳)は、平安時代末期の武将。筑前国遠賀郡山鹿の豪族。通称は兵藤次。『平家物語』「大宰府落」で、都を追われた平氏一門が九州へ逃れて来ると、平家から源氏方に転じた緒方惟栄に追い払らわれ、平家の家人であった秀遠と原田種直が軍勢を率いて迎えに参じたが、両者の不和のため、種直は引き返している。秀遠に伴われた平氏一門は一時秀遠の山鹿城に立て籠もったが、敵が攻めてくるとの知らせで再び海上へ逃れた。『平家物語』では秀遠は九州第一の精兵とされ、壇ノ浦の戦いで平家方の大将軍として軍船を率いて奮戦した。戦後、所領は没官となった(『吾妻鏡』文治元年12月6日条)。

彼の城は遠賀川河口の山上にあります。Wikiを見ただけでも、平家方の大物と理解されますね。問題は、平家方の山鹿秀遠が戦勝を祈願するため立屋敷の八剣神社を実質的に創建し、尚武の神・御館大明神(=日本武尊)を祀った点です。(注:検討の都合上、御館大明神を尾張の日本武尊と同じと一旦仮定しておきます)

対する源氏方の源範頼も、戦勝を祈願するため熱田神宮から剣大神(=日本武尊)を勧請して本城の八剣神社を実質的に創建しました。立屋敷と本城の八剣神社を別々に検討していれば多分何も見えてこないでしょうが、こうして並べると何となく違和感を覚えませんか?そう、本城八剣神社と立屋敷八剣神社の由緒にそのまま従えば、敵対する双方が同じ祭神の日本武尊に戦勝を祈願すると言う実に珍妙な状態となってしまうのです。神様もどちらに味方したらいいのか、さぞ困り果てたのではないでしょうか?

そもそも遠賀川流域の八剣神社は本城が本社であり、立屋敷八剣神社もここから分祀されたはずなのに、立屋敷側の由緒によれば実質的創建は源範頼に敵対する人物・山鹿秀遠だったとは…。どうこの矛盾した内容を整理・再構成すればいいのでしょう?実に悩ましいところですが、少し視点を変えれば謎の解明は比較的容易なように思えます。

山鹿秀遠が社殿を造営して祀ったのは北九州の武人としての御館大明神。そこに壇ノ浦の戦いで勝利した源氏方の源範頼が、尾張・熱田神宮の日本武尊(剣大神)を本城の八剣神社から分祀し上書きしてしまった、と考えればいいのです。源範頼が鎌倉に帰還したのは1185年の10月ですから、4月25日の平家滅亡後にそうした手配をする時間は十分にあったものと思われます。由緒に書かれた、後に「八剱大明神」と改称。との文言はその上書きの証拠とも言えそうです。一方、北九州の武人の妃となる砧姫は、影響が少ないと判断されたのかそのまま残した形になり、祭神の一柱となりました。

上記したストーリーなら、立屋敷八剣神社に関連する謎は解けることになりますし、熱田神宮からの勧請が宗教面における北九州統制強化の一つとする酔石亭主の視点も合理的なものとなってきます。また本城八剣神社から立屋敷八剣神社までは直線距離でおよそ5㎞。交通的にも行きやすい場所となっています。これだけ状況証拠が揃えば、立屋敷八剣神社が本城から勧請された可能性はかなり高そうです。

残る問題は、立屋敷八剣神社の由緒に熱田神宮の祭神を勧請した記述がない点です。そこで「太宰管内志」(江戸時代の編纂)をチェックしたところ、祭神は尾張國熱田宮を勧請せり、と記載ありました。やはり立屋敷八剣神社は本城から分祀されたと見て間違いありません。「太宰管内志」のコマ番号は277となるので以下を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766660

以上、立屋敷八剣神社の検討においても、北九州版日本武尊と尾張、大和版日本武尊は別人(別の神)であったと確認されました。また本城八剣神社の由緒に、八剱神社は、本城を本社として付近周辺合わせて十数社をかぞへる。と書かれ、遠賀川流域に鎮座する各八剣神社は本城から分祀されている点も、「太宰管内志」の記事により一定程度証明されました。もちろんこれだけではなお不十分なので、引き続き調査していく必要はあります。

注:立屋敷八剣神社には草薙神剣盗難事件関連の伝承も残されていますが、これは後の回で検討します。

        尾張と遠賀川流域の謎を解く その17に続く
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