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尾張と遠賀川流域の謎を解く その20


今回は中山八剣神社における祭神の問題をさらに追及していきます。同社祭神は由緒によると日本武尊、須佐鳴尊(須戔嗚尊)、宮簀姫命(宮簀媛命)となります。前回で書いたように中山は剣神社だとすれば、祭神は3神となり、それ自体は何もややこしそうに見えません。ところがより深く詰めようとすると、一転してややこしくなり、とても一筋縄ではいかないのです。問題点の検討を進めるため、解説石板の一部を再度以下に書き出します。

安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて当社を剣岳山上に奉仕す
祭神日本武尊 須佐鳴尊 宮簀姫命

由緒には安閑天皇の御時人麿が当社を剣岳山上に奉仕すると書かれています。では、この時点で祀られた祭神は誰なのでしょう?明確に書かれてはいませんね。これが第一の疑問ですが、常識的に考えると日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神になるはずです。ところがです。「福岡県神社誌」には気になる記載がありました。内容の詳細はコマ番号190、191を参照ください。以下に主要部分の概要を纏め書きします。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/190

当社の創立は、第27代安閑天皇の時代に、田部人麿と言う者が神託により、当剣岳山頂に斎祀った。祭神の素戔嗚尊は須賀神社にて祭祀されていたのを明治43年に合併した。祭神の日本武尊と天児屋根命は豊日別神社境内神社上宮と祭祀されていたのを明治43年に合併した。日本武尊は熊襲征伐の時、当国を巡り歩かれた。酋長の今朝麿が行幸を聞き及び厚く迎えた。賊を平らげ都に帰る際、再びこの地に留まったので、今朝麿は行宮を建て守護した。日本武尊は剣岳に登り四方を見渡し、静かな世の中山かな、と言ったので、ここに中山の地名が始まった。雷雨の後、しばし休息のため今の日吉神社から三町ばかりの場所に弟彦公に松を植えさせたので、その地を植木の邑と号すと伝えられる。

上記によれば素戔嗚尊は明治43年に須賀神社を合併し、日本武尊は同年に豊日別神社境内神社上宮にて祭祀されていたのを合併しています。素戔嗚尊は熱田神宮でも相殿神として祀られていますが、遠賀川流域には数多くの素戔嗚尊を祀る須賀神社が鎮座しているので、この神は別枠的に考えればよさそうです。

問題は日本武尊で、豊日別神社境内神社上宮にて祭祀されていたものを明治43年に合併しています。驚くべき内容だとは思えませんか?これをそのまま理解すると、安閑天皇の御代に剣岳山上で奉斎されたのは尾張限定のはずの宮簀媛命のみで、彼女が剣大明神となってしまうのです。仮にそうだとすれば、実に不可解ですね。

ここで剣岳に関する「筑前國續風土記」の記事を再度参照ください。現代文のみ以下に再掲します。

剣岳は鞍手郡の中央にあるので中山とも言う。中山村にあり、村より七町ある坂を登る。山上に剣大明神の社があるので、剣岳と号している。社は巽に向いている。剣岳山ろく周辺に剣大明神を祀る神社が八社ある。中山村、新入、龍徳、新北、新延、下木月、遠賀の本城村である。

安閑天皇の御代に剣岳で初めて奉斎されたのが宮簀媛命だとすれば、剣岳山麓周辺において3神を祀る剣神社各社の祭神も宮簀媛命だけになってしまいます。彼女は草薙神剣を熱田台地に遷座させ熱田神宮にて祀った巫女ですから、剣に関係する人物であるのは間違いありません。けれども、剣岳山頂に鎮座していた剣大明神とは、3神ひっくるめて剣大明神の可能性もありますが、基本的には日本武尊以外に考えられないはずです。

剣岳山麓には日本武尊を祀る神社が数多く鎮座していることからも、剣岳の剣大明神には本宮的な重要さがあり、その意味でも祭神は日本武尊となるはずです。なのに、明治になって豊日別神社の境内社上宮に祀られていた日本武尊を中山八剣神社に合祀したとは、どう言うことでしょう?この記述からは日本武尊の重要度がまるで感じられません。どこかに大きな間違いがあるのではないでしょうか?前回で、剣神社であれば3神で一応問題ない、とやや曖昧な表現で書きましたが、上記のような難問が控えていたので曖昧にするしかなかったのです。

日本神話によれば、豊日別とは伊邪那岐神・伊邪那美神が生んだ国土の一つを神格化したものとなります。筑紫嶋(九州)は、白日別が筑紫国、豊日別が豊国、建日向日豊久士比泥別が肥国、建日別が熊曾国の四面に分けられ、その一つとなる九州東部の豊国の別名が豊日別となるのです。ただ、一般的には豊日別は猿田彦のことになりそうです。

一般論はともかくとして、なぜ最も重要なはずの日本武尊が豊日別神社の境内社において祭祀されていたのでしょう?また、豊日別神社はどこに鎮座していたのでしょう?その文面に目を凝らして見たところ、豊日別神社の境内社上宮とあることから、剣岳山頂に鎮座していた可能性が高そうです。剣岳はプレ物部氏の聖山であり加えて日本武尊の伝承が残ることから、是非とも訪問すべき場所となります。剣岳山頂へは八剣神社の手前から車ですぐの距離なので、早速行ってみましょう。なお、駐車場から山頂までは少し歩きます。

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山頂に鎮座する八剣上宮。

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石祠。最近建てられたもののようです。

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石碑。主要部分を以下に書き出します。

日本武尊御駐輦(ちゅうれん。 天子が行幸の途中で車を止めること) 景行天皇二十八年
八剱神社創祀 安閑天皇時代
草薙剱を奉護す 天智天皇七年

この三項目はいずれも剣岳山頂での話で、しかも中山八剣神社にとって最も重要な部分だと理解されます。

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いわくありげな石。

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八剣上宮近くの囲われた場所。ここが豊日別神社でしょうか?

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豊日別と刻まれた石柱。やはりここが豊日別神社でした。

豊日別神社は多分明治43年に境内社で祀られていた日本武尊が中山八剣神社に合祀された時点で廃社になったのでしょう。神域も極めて小さく、単なる石祠に過ぎなかった豊日別神社の境内社が日本武尊を祀る祠だったとすると、由緒内容に見合うような重要度はまるでなかったことになります。

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山頂からの眺望。北九州の武人としての日本武尊もここから下界を眺め渡したのでしょうか?

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もう一枚。

DSCN0968_convert_20170820072204.jpg
剱岳城跡の解説板。画像サイズを大きくしています。

中山八剣神社における祭神の問題は次回で詳しく検討します。

     尾張と遠賀川流域の謎を解く その21に続く
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