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尾張と遠賀川流域の謎を解く その21


前回で剣岳を訪問しました。山頂に鎮座していた剣大明神とは日本武尊のはずなのに、「福岡県神社誌」によれば、明治になって豊日別神社の境内社上宮に祀られていた日本武尊を中山八剣神社に合祀したとのことです。一方、「筑前國續風土記」によれば剣大明神は剣岳山麓の各社で祀られ、それらの本宮的な地位を得ていました。かくも重要な剣大明神が明治の時点で廃絶の憂き目を見た豊日別神社の境内社だったなど、どうにも話の筋が通りません。また、剣大明神を宮簀媛命のみとするのも妙な話になってしまいます。解説石板の由緒を再掲して考え直してみましょう。

安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて当社を剣岳山上に奉仕す
祭神日本武尊 須佐鳴尊 宮簀姫命
創立剣岳山上 中山の称起こる 安閑天皇時代
本社に草薙剣を奉護す 天智天皇七年二月
梅野土佐山上に城を築き本社を山の艮に移す 応仁年中
本社を山上に再建す 元亀二年
本社を新北に分霊す 元亀二年
本社炎上 天正元年七月
本社を小牧八剣神社に分霊す 寛文五年
本社を山の中腹に移す 宝永二年十二月
本社を現在地に移す 明和三年九月

由緒や史料、上記した剣岳の関連記事によれば、安閑天皇の御代に剣岳において剣大明神(=日本武尊)が祀られ、ずっと山頂に鎮座していたが、応仁年間(1467年から1468年までの期間)に山の東北に遷され、元亀2年(1571年)に山頂に再建され、天正元年(1573年)に炎上、宝永2年(1705年)に山の中腹に遷し、明和3年(1766年)に現在地に鎮座となっています。この経緯の中から、日本武尊のみがいつの時点か不明だが豊日別神社に遷され、明治時代になって中山八剣神社に合祀されたとする動きを読み取ることはできません。素直に解釈すれば、安閑天皇以降明治に至るまで中山八剣神社において日本武尊は祀られていなかったことになります。

中山八剣神社は元亀2年(1571年)に本社を新北に、寛文5年(1665年)に本社を小牧に分霊しています。既に書いたように、剣大明神は剣岳周辺各社の本宮的な地位を占めていました。そうした立場の剣大明神が、石祠に過ぎない豊日別神社の小さな境内社だったとか、明治になって合祀されたなど、あろうはずがないと思われます。では、どう考えればいいのでしょう?

今までの検討で、本城八剣神社や立屋敷八剣神社に関し、1185年に北九州の武人が尾張や大和の日本武尊に上書きされた点を論証しています。だとすれば、中山八剣神社もとほぼ同様だったとは考えられないでしょうか?ほぼ同様と書いたのは、本城や立屋敷とは異なる展開があったと思われるからです。中山八剣宮が創建された安閑天皇の時代は530年代ですから、1185年よりずっと以前の話となり、時代的にも大きく異なります。けれども、異なる展開のポイントはそこではありません。

安閑天皇以前から地元で崇敬されていた北九州の武人が、安閑天皇の時代になり尾張や大和の日本武尊によって上書きされそうになった。ところが北九州の武人は上書きを免れることができた。と考えたらどうでしょう?(注:中山八剣神社創建は安閑天皇の時代なので、そもそも武人を祀る祠はなかったかもしれません)

言い換えれば、安閑天皇の時代、剣岳山頂に尾張から日本武尊が勧請されて祀られ、それとは別に北九州の武人も祀られていたのです。よって、剣岳山頂に鎮座していた剣大明神は1社ではなく、2社だったことになります。そんな馬鹿なことはないとの反論も出そうですが、以下のようなシナリオなら十分に可能です。

安閑天皇以前から剣岳において北九州の武人が信仰の対象となっていた。磐井の乱が終わった安閑天皇の御代、大和王権が地元の意向など全く無視して尾張の日本武尊と宮簀媛命を鎮座させた。その目的は大和王権による北九州の統制強化である。自分たちの信奉する北九州の武人が消し去られるのを恐れた地元民は、この武人をそっと豊日別神社境内にて祀ることにした。明治43年になって豊日別神社の境内に祀られていた北九州の武人(日本武尊)は中山八剣神社に合祀された。

このシナリオなら、酔石亭主の想定する流れにも沿っているので好都合です。大和王権によって安閑天皇期に祀られた尾張や大和の日本武尊。それに押し出されるような形で豊日別神社にて祀られた北九州の武人としての日本武尊。同じ名前を持ちながら別の二人の人物だった神様が、近代に至ってようやく一柱の神となったと考えたらどうでしょう?話の辻褄は完全に合うことになりませんか?

今までに探索してきた本城八剣神社、立屋敷八剣神社における矛盾や謎は、北九州の武人と尾張や大和の日本武尊を別人(別の神)と位置付けることで解消できました。その点は中山八剣神社も全く同様だったのです。岩波書店の「日本書紀」の注には、日本武尊の名前は熊襲の川上梟帥(かわかみのたける)が奉った尊号でヤマトの勇者の意、と書かれており、特定の人物を指す固有名詞ではなく普通名詞となります。尾張と遠賀川流域の日本武尊を比較検討しただけで、岩波書店の注が正しいと確認されました。

いかがでしょう?あれこれ書いた内容は酔石亭主の推測に過ぎませんが、少なくとも筋の通る話になるとは思えませんか?もちろん、一つの視点から導き出した推測だけでは説得力に欠けることになります。この主張に説得力を持たせるには、少なくとも以下の疑問点をクリアする必要があります。

尾張以外に足跡などない(と現時点では推定される)宮簀媛命がなぜ遠く離れた剣岳で祀られたのか。またなぜ安閑天皇の時代なのか。大和王権が地元の意向など全く無視して尾張の日本武尊と宮簀媛命を鎮座させた、と書いたがその背景はどのようなものなのか。

こうして書くと厄介な疑問ばかりですが、安閑天皇当時の歴史イベントや時代背景などを探りつつ、上記した推測の裏付けを取っていく作業が不可欠となります。
        
         尾張と遠賀川流域の謎を解く その22に続く
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