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尾張と遠賀川流域の謎を解く その23


今回は安閑天皇の御代に、どのような必然性や時代背景があって、剣岳山上に宮簀媛命(と日本武尊)が祀られたのかを見ていきます。

安閑天皇の崩御と同じ時期に亡くなった物部氏の有名人に物部麁鹿火(もののべの あらかひ)がいます。彼は武烈天皇の崩御後、継体天皇の擁立を働きかけ、天皇が即位した後、大伴金村と共に再び大連に任ぜられた大物です。継体天皇の21年(527年)6月には、九州北部で反乱を起こした筑紫国造磐井の征討将軍に就任、天皇から筑紫以西の統治を委任されました。翌年11月に筑紫三井郡にて磐井を破って処刑し、磐井の乱を平定。その後の安閑天皇・宣化天皇の代にも大連を務め、宣化天皇元年(536年)7月に没しています。

上記から導き出せるものがあります。継体天皇の勅命を受け物部麁鹿火が征討将軍として北九州に向かった際、彼は尾張の物部氏も率いていたとは考えられないでしょうか?継体天皇の妃は尾張氏と物部氏の両面性を象徴するような尾張目子媛です。天皇の生誕地は尾張だったとの伝説もあり、「名鉄島氏永(しまうじなが)駅周辺を巡る その3」にて、「川曲神社の所在地は子生和(こうわ)ですが、この場所こそが男大迹王の生誕地とされ、だから地名も子が生まれた場所で子生和となりました」と書いています。この話は伝説に過ぎないものの、継体天皇と尾張の密接な関係を示すものと言えるでしょう。

継体天皇と物部氏、尾張氏の関係を考慮すれば、尾張在住の贄田物部や嶋戸物部の後裔が物部麁鹿火に率いられ北九州に向かったとしても、事実関係は別として、不自然ではありません。研究者の中には贄田物部など25部の物部は物部麁鹿火以降とされる説もあるようですが、これは間違いだと思われます。

物部麁鹿火時代の物部氏は、この頃が事実上の勃興期となる尾張氏とも交流があり、いや尾張においてはほとんど融合しており、多くの情報を持って北九州に向かったはずです。「鞍手町誌」は新北物部が倭男人の輩下として参戦したと書き、新北物部は贅田物部となります。この場合の新北物部とは、尾張物部氏と新北残留物部氏の混成部隊なのかもしれません。

物部麁鹿火が率いる尾張氏と融合した贄田物部の後裔が新北に戻り、地元に残留していた新北物部の後裔に美濃や尾張、東国における日本武尊のストーリーと彼の妻となった宮簀媛命の伝説を伝えた。それが原因となって、安閑天皇の御代、剣岳の山頂に祠が建てられ、日本武尊と宮簀媛命を祀れとの神託が下り(=大和王権の指示が下り)、中山八剣神社の創建に繋がったとの筋書きが立てられます。

もちろん推測が中心となった筋書きだけでは、安閑天皇の時代においてプレ物部氏の聖地とされる剣岳山頂に宮簀媛命と日本武尊が祀られた理由の十分な説明にはなり得ないでしょう。ただ、中山八剣神社創建の背景となる歴史イベントとして磐井の乱があったのは間違いなさそうです。と言うことで、そうした側面を踏まえながら同社の由緒を見ていきます。実は磐井の乱前後の年代は非常に微妙な問題があってややこしく感じられるので、この部分から整理したいと思います。

まず継体天皇に関してです。「日本書紀」によると継体天皇の崩御は25年(531年)で、或本云で28年(534年)となっています。継体天皇の崩御(531年)と同時に安閑天皇が即位していますが、妙なことに安閑元年は534年でした。整合性を考えると継体天皇は534年に崩御して、同年に安閑天皇が即位して安閑元年になるはずです。

「日本書紀」にはまた、ある本では28年(534年)と言うが、25年(531年)にしたのは、「百済本記」の辛亥の歳(531年)に「又、聞く、日本天皇と太子(ひつぎのみこ)・皇子(みこ)が共に崩御した」とあるので、これによれば崩御は25年(531年)である。後には明らかになるであろう。と書かれていました。つまり、「日本書紀」の編者は百済側の史書の記載から継体天皇の崩御年を531年としているのです。

どうも納得できないので、次に、継体天皇の御代に勃発した磐井の乱を見ていきます。磐井の乱は継体天皇の21年(527年)から22年(528年)の間に起きたとされますが、本当にそれで正しいのでしょうか?

「百済本記」には531年に日本天皇と太子と皇子が共に崩御したとあります。これは実に驚天動地の記述です。この年に天皇家の皇統が完全に途絶えたことになるのですから…。でも、そんな話は「百済本記」の引用部分を除き「日本書紀」のどこにも書かれてはいません。仮に上記の三人が同時に崩御したのなら、それは例えば毒殺とか戦争で殺害された以外に考えられず、「日本書紀」編纂時以前の史料に詳細が残されているはずです。

「日本書紀」編纂時以前の史料に皇統が途絶えるような大事件は書かれていなかったから、編纂者は「百済本記」を参照し継体天皇の没年を531年としながらも、三人が崩御した事情は後になって明らかになるだろうと曖昧さを残した内容にしたのです。ではなぜ「百済本記」は、531年日本天皇と太子と皇子が共に崩御したと記述したのでしょう?当然その記述に見合う何らかの歴史イベントがあったと見なければなりません。

531年前後において、「百済本記」の記述に見合うような大事件は磐井の乱しかなさそうです。磐井の乱は527年から528年の間に起きたとされますが、実際には違っていた可能性がここで浮上してきます。磐井の乱は530年から531年の間に起きたと仮定して推理してみましょう。

その場合、磐井の乱における磐井の一族の殺害が「百済本記」において三人の崩御記事として書かれたことになり、一定の筋が通ってきます。(注:「日本書紀」によると、磐井の子の葛子は死罪を免れるため糟屋屯倉を朝廷に献じたとありますが、免れたかどうかは記載なく不明)このように理解すれば、継体天皇が531年に崩御して安閑天皇元年が534年になると言う不整合も、継体天皇は534年に崩御して同年に安閑天皇が即位、安閑元年となる訳ですからうまく整合し、磐井の乱も530年から531年の間に起きたと理解されることになってきます。(注:継体天皇の崩御問題には諸説あります。例えば、継体・欽明朝の内乱説)

従って、中山の八剣神社由緒にある、安閑天皇の御時に神託が降り云々の内容は継体天皇の御代の可能性があります。また安閑天皇の御代だったとしても、この神託が出たのは磐井の乱直後になると見て間違いありません。では、なぜ磐井の乱直後にこのような神託が下ったのか?それを解き明かすには、磐井の乱とはどのようなものだったのかを確認する必要があります。この問題も一筋縄ではいかず様々な議論があるので、周辺からじっくり検討していきます。

       尾張と遠賀川流域の謎を解く その24に続く

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