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尾張と遠賀川流域の謎を解く その24


今回は磐井の乱前後の北九州勢力と継体天皇の関係から検討を進めてみます。継体天皇の陵墓は今城塚古墳とされますが、その古墳には馬門ピンク石製石棺が使用されています。これは熊本県宇土市網津町字馬門付近に産する凝灰岩のことです。


馬門一帯の位置を示すグーグル地図画像。

以下の宇土市デジタルミュージアムには馬門ピンク石の詳細が出ていますので参照ください。驚いたことに、馬門からどのようにして石が運ばれたのか航海実験まで行われており、その内容が事細かに書かれています。詳細を読んで、古代史に対する地元の想いや熱意に圧倒されました。これにはもう脱帽するしかありません。
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/makadoisitowa.html

さて、この石は5世紀の終わりから6世紀の初めにかけての、継体天皇とほぼ同時期の古墳に採用されています。それをもって磐井と継体天皇の関係は良好だったと断定はできませんが、少なくとも磐井の乱以前において磐井を含む北九州勢力と大和王権の関係は悪かったとは言い切れないようです。

磐井の乱の1世紀程度前から九州中北部の勢力は西日本の各勢力と交流があり、それが磐井の段階まで続いていました。この時期の大和王権を見ると、雄略天皇の時代に一旦ピークを迎え、それ以降の継体天皇に至る間(清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇の時代)は強力な天皇が出ていないように思えます。

と言うか、実在したかどうかの議論もあるほどに衰退していたようです。大和王権の支配・統制力が弱まる中、北九州勢力は磐井の段階になってその力が頂点に達したのではないでしょうか?それは「百済本記」が磐井一族(と推定される三人)の死を日本天皇、太子、皇子と書いていることからも窺えます。

磐井の乱に関してはグローバルな視点から新羅+磐井VS百済+大和王権(継体天皇)の争いと見る説もあります。けれども、磐井を含む北九州勢力は百済との交渉においては大和王権と協調したものと思われ、一方で新羅、高句麗、大伽耶とは独自のルートで外交を展開した可能性があります。一種の二股外交となりますが、これが継体天皇の逆鱗に触れ、今までの磐井と天皇との信頼関係が一挙に崩れ、戦争へと発展していったのかもしれません。

「日本書紀」継体天皇の21年6月条に奇妙な記述が見られます。継体天皇が派遣した近江の毛野臣に対し、磐井が「昔は同じ仲間として、肩を並べ肘を触れ合せて、一つ器で共に食べたものだ」と言い、毛野臣軍と交戦した部分です。この文面を見ると、かつては磐井も宮中に出仕した可能性があり、継体天皇の信頼も得ていた雰囲気が伝わってきます。

何が原因で大和王権と磐井の戦いが始まったのかここでは明確にできませんが、いずれにしても磐井との戦争は勃発し、彼は殺害される結果となったのです。(注:磐井の乱は一つのシリーズとして書くべき大事件ですが、この乱自体が記事の目的ではないので、うんと簡略に書いている点ご了承願います)

では、磐井が死んだ後の北九州で何が起きたのか?安閑天皇の2年には数多くの屯倉が設置されました。筑紫國は二か所で「穂波屯倉(福岡県飯塚市)、鎌屯倉(かまのみやけ=福岡県嘉麻市)」。豊國が五か所の「み碕屯倉、桑原屯倉、肝等屯倉 、大抜屯倉(=北九州市小倉)、我鹿屯倉(福岡県田川郡赤村)」。火國の春日部屯倉(熊本市)などとなります。屯倉は大和王権の直轄地を意味することから、磐井の乱後、九州中北部は継体天皇によって勢力を増した大和王権の統制下に置かれていったと理解されます。

磐井の乱の直後、大和王権による北九州支配が強化された
との前提において中山の八剣神社由緒を見直してみましょう。解説石板の由緒内容を再度以下に記載します。

日本武尊熊襲征伐の折當国を経歴し給う酋長田部今朝麿村人と共に之を迎う尊喜び一方ならず 帰路再びこの地に留り給う酋長行宮を集英して守護し奉る 
安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて当社を剣岳山上に奉仕す
祭神日本武尊 須佐鳴尊 宮簀姫命
創立剣岳山上 中山の称起こる 安閑天皇時代

由緒の最初に登場する日本武尊は明らかに北九州の武人と考えられ、古代の九州にそうした人物が存在していたのは間違いないと思われます。(注:一般的に日本武尊は複数の人物を纏めたものとされる)遠賀川流域各地に見られる日本武尊伝説は、尾張や大和とは関係ない北九州の武人のものだった。しかし、そのような人物の存在は大和王権の視点からは好ましくないと映ったと思われませんか?

大和王権は多分、九州における武人の存在を消し去ろうと試みたのでしょう。けれども、厳然と存在し、地元各地で伝承されていた人物の痕跡を消し去るのは不可能です。困った大和王権は別の策を考え出しました。北九州の武人を大和や尾張の日本武尊ストーリーの一部に組み込むと言う荒業です。北九州の武人ストーリーは、この時点で事実上大和や尾張の日本武尊ストーリーに上書きされ置き換えられてしまったことになります。

宮簀媛命は既に書いたように日本武尊の妻であり、日本武尊が残した草薙神剣を大高にて祀り、後に熱田台地に遷して熱田神宮に祀った尾張氏系の女性(尾張連らの遠祖)となります。(注:実際は氷上姉子神社辺りにいた尾張氏系の巫女)尾張の狭い範囲から出たことがなく、北九州とは何の縁もゆかりも持っていない(と現時点では推定される)人物を剣岳山頂に祀るよう神託が下ったのはなぜでしょう?

その答えは大和王権による北九州支配の一環と考えるしかなさそうです。北九州の武人を大和や尾張の日本武尊に接合させるため、尾張限定でしかも日本武尊の妃である宮簀媛命をあえて祭神に加えたのです。この操作により北九州の武人ストーリーは意味合いが全く別の、大和王権にとって都合の良いものに改変されたことになります。

あくまで現段階においてですが、そうした視点以外に、中山の八剣神社において尾張国限定の宮簀媛命が祀られている理由を説明することはできません。熊襲征伐の折、当国を経歴し剣岳山上にて奉斎されたのは北九州の武人としての日本武尊であり、それが安閑天皇の御代になって大和王権の指示(神託)により大和や尾張における日本武尊と尾張限定の宮簀媛命に上書きされ、置き換えられてしまったのです。中山八剣神社の由緒に書かれた内容は、その隠された事実を示していたと言っていいでしょう。

遠賀川式土器の尾張への伝播、ニギハヤヒ東遷時点における嶋戸物部と贄田物部の尾張への移住までは、人、物、情報の流れは遠賀川流域→尾張でした。けれども、安閑天皇の時代に至ってこの流れは逆転し、その後も尾張や大和のストーリーが付加され続けた結果、現在のような形になったと考えられます。例えば、遠賀川流域に草薙神剣盗難事件に関連する伝承が存在するのも、ベースには上記のような事情があったと推測されます。

従って、中山八剣神社の由緒の最初に出てくる日本武尊と、祭神の項に書かれた日本武尊は別人(別の神)になってしまうのです。ここまで本城、立屋敷、中山の八剣神社を検討してきましたが、いずれも北九州の日本武尊と尾張や大和の日本武尊は別人(別の神)であると確認されました。3社の検討結果が同じである以上、この見方は正しいと考えられます。

また「その21」で、剣岳山頂に剣大明神が2社あったとするしかなさそうだと書きました。書いた時点においては単なる推測に過ぎませんが、様々な状況証拠を積み上げた結果、一定の裏付けを取ることができたようです。全体を纏めれば以下のようになります。

剣岳においては地元民によって北九州の武人が信仰されていた。けれども安閑天皇の御代、大和王権は北九州の統制強化を目的として日本武尊と宮簀媛命を山頂に鎮座させてしまった。自分たちの信奉する武人の存在が消し去られるのを恐れた地元民は、この武人をそっと豊日別神社境内にて祀ることにした。こうした経緯で、大和王権の指示により安閑天皇期に祀られた剣大明神=日本武尊、それに押し出されるような形で豊日別神社にて祀られた九州の武人としての日本武尊の2社が剣岳に鎮座することになった。

剣岳山頂に剣大明神が2社鎮座していたとする酔石亭主の推論も、何とか間違いなさそうなレベルにまで到達したようです。また、安閑天皇の御代に剣岳山頂で日本武尊と宮簀媛命が祀られた背景には、磐井の乱と言う有名な歴史イベントがあった点も明らかになりました。次回は一旦中山八剣神社を離れ、他にも似たような例がないか探ってみます。

      尾張と遠賀川流域の謎を解く その25に続く


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