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尾張と遠賀川流域の謎を解く その30


今回は熱田神社の由緒内容を検討していきます。詳細は「福岡県神社誌」のコマ番号194に記載ありますので以下を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/194

まず祭神を見ていきます。同社祭神は数多く、天照皇大神(天照大神)、忍穂耳命(おしほみみのみこと、天忍穂耳尊)、邇々杵命(ににぎのみこと)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)、不合命(うがやふきあえずのみこと、鸕鷀草葺不合尊)、素盞鳴尊(素戔嗚尊)、日本武命(日本武尊)、宮簀姫尊(みやずひめのみこと、宮簀媛命)となっていました。数多い祭神は二つの系統に大別されると理解されます。(注:以降の各祭神の表記はいつも書いているものを適用します)

素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命の3神は中山八剣神社の祭神と同じで、熱田神宮・本宮の相殿神でもあります。その他は天照大神から神武天皇へと続く系譜の中に出てくる神々で、以下の由緒にある五代の大神を意味しているのは間違いなさそうです。「福岡県神社誌」の由緒内容はやや長いので抜粋して書き出します。

伝に、日本武尊が熊襲討伐の時、新分(新北と同じ)の亀甲の地名を目出度く思われ、、この所にて口嗽ぎ(今池の口と言う、社の西北五町の所にあり)、天神地祇に祝祭され、五代の大神を合祭し戦勝を祈られた。熊襲を成敗して帰途の際この社に立ち寄られ御祭りを行わせた霊跡なので、村人が崇敬し仮殿を営んだ。後鳥羽天皇の文治元年(1185年)、ここに新たに神殿を構え尾張国熱田大明神を相殿に勧請した。その後、後醍醐天皇の元弘元年(1331年)に故あって社殿を現在地の司本嶽(しもとだけ、剣岳の西山麓)に遷した。元亀2年(1571年)社殿が炎上した。慶長7年(1602年)に社殿を造立できた。

由緒を読むと、1185年以前の熱田神社は五代の大神を祭る仮殿があっただけで、北九州の武人としての日本武尊が祀られていた訳ではないようです。地元民がこの武人を崇敬していたのは確かでしょうが…。そして1185年に熱田大明神すなわち尾張の熱田神宮にて祀られていた日本武尊を勧請したことになります。1571年には社殿が炎上し、由緒には書かれていないものの、中山八剣神社から分霊されているので、この時点で宮簀媛命が祭神に加わった可能性もあります。

1185年は本城の八剣神社が熱田神宮から勧請された年であり、本城からの分祀も考えられますが、そもそも尾張における熱田の名前の元が正にこの地なので、そうした過去を踏まえ熱田神宮から直接勧請したのかもしれません。その場合宮簀媛命も1185年に勧請された可能性が出てきます。宮簀媛命がいつ祭神になったのかは、どちらにも一定の根拠があり、「福岡県神社誌」を見ても明確に書かれておらず、現時点では不明とするしかなさそうです。

続いて由緒に書かれた最初の鎮座地を探してみます。かつての鎮座地の名は亀甲。1331年に現在の場所に遷座しました。由緒によれば現鎮座地の西北五町が最初の鎮座地となります。そこに亀甲の地名があるかどうか地図でチェックすると、西北約600mの所に亀ノ甲がありました。ここが最初の鎮座地と考えて間違いなさそうです。


亀ノ甲の位置を示すグーグル地図画像。

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新北本司(にぎたほんじ)の信号。

上記由緒にある司本嶽の司本が逆になって本司となったのかもしれません。信号の先の道路左側にちょっとした森があり、ここが最初の鎮座地です。地図画像では右下の端辺りで、主要道路の左手側となります。


森の位置を示すグーグル画像。

森の手前に車を停め、森の外縁の農道を少し歩くと、森の中に入る小橋がありました。

DSCN1002_convert_20170901074435.jpg
石柱。由来が書いてあるようですが、読めません。

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石柱の横側。

古宮跡地とあります。森の中に入ると、狭い平場に小さな祠がありました。この場所こそが北九州の武人としての日本武尊が五代の大神を祀った故地となるのです。

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祠。森の向こう側では何かの工事が進んでいるようです。少し気になりますね。

ここまで「福岡県神社誌」をベースに検討してきました。一方、熱田神社の宮司さん宅で撮影した手書き史料、頂戴したパソコン史料も手元にあります。内容を比較してみると、両者の間には若干の食い違いが見られます。細かい部分をあれこれ見ていくのもどうかとは思いますが、幾つかの問題点があるので一応チェックしてみます。

手書き史料によると、日本武尊が天神地祇を祀られ、当時の里人が日本武尊のこの御祭りを継承して上記五代+素戔嗚尊の六代を祀ったとしています。時代も下った1185年には、尾張の熱田大明神を勧請し日本武尊及び宮簀媛命を合祀したとのこと。やはり1185年以前は、日本武尊は祭神になっていなかったようです。また、いつの鎮座か不明とした宮簀媛命も1185年が正しそうです。

手書き史料や祭神、社名を考慮すれば、熱田神社は本城からの分祀ではなく、熱田神宮から直接勧請した可能性が高いことになります。ただ、本城からの分祀ではないにしても、源範頼が熱田大神を本城に勧請した事実が大きな影響を与え、同じ1185年に熱田神宮から直接勧請したと見ることも可能です。どちらの場合にしても、熱田神宮は熱田神社の元宮的な存在だったと言えるでしょう。

2006年作成の同社パソコン由緒を見ると、「表2神社名と祭神から見た熱田神社の社史」の項には以下のように書かれていました。


社史      神社名   祭神(時代区分)
古宮時代   八剣神社  地神5代の神々
(景行天皇の時代AD97~文治元年(1185年))

新宮時代   熱田神社  素戔嗚尊
                 日本武尊、宮簀媛命を合祀
(文治元年(1185年)~現在)

これとは別にほぼ同じ内容のパソコン史料があって、新宮時代の祭神を素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命の3神を一行で書き、「を合祀」が抜かれていました。一方「福岡県神社誌」には、日本武尊が五代の大神を合祭し、と書かれていますが、里人が六代を祀ったとは書かれていません。

これら四つの史料を比較参照すると、素戔嗚尊がいつ祀られたかが曖昧になっています。詳しく検討したいところですが、素戔嗚尊は中山八剣神社同様現在の検討課題とは別枠的に考えられるので、合祀時期が不明でも特に問題はないと思われます。一番の問題となるのは、以前に提起している同社の社名です。当地域には尾張から勧請され分祀された八剣神社が数多いのに、なぜ熱田神社のみ社名が異なるのでしょう?しかも、上記のパソコン史料によれば古宮時代が八剣神社となっており、これは正しいのかと言った問題まで新たに加わっています。

社名に関して手書き史料には、文治元年(1185年)尾張の熱田大明神を勧請申し上げて、日本武尊、宮簀媛命二柱を合祀申し上げて祭神八柱とす。而して、或は八剣宮八所宮と称したるも熱田神社と称し来れり。と書かれていました。

内容を噛み砕けば、1185年以前は五代の大神+素戔嗚尊の6神が祀られ、1185年に尾張の熱田大明神を勧請して日本武尊と宮簀媛命の2神を合祀し、祭神が八柱となり、そうして或いは八剣宮(八剣神社)、八所宮と称したが、熱田神社と称してきた、と言った曖昧な表現になっています。祭神八柱だから八剣宮(八剣神社)・八所宮と称したとも受け取られますが、八所宮の場合はよしとしても、祭神八柱だから八剣宮とはならないはずです。

他にも問題があります。二つのパソコン史料の場合、古宮時代が八剣神社となっていましたが、景行天皇の時代に八剣神社など存在するはずがありません。では、いつから八剣神社なのか?答えはもう出ていますね。手書き史料に、1185年に至って祭神が八柱となったので八剣宮、八所宮と称した云々、と書かれていることから、それは1185年になります。

但し熱田神社は、1185年に尾張から熱田大明神を勧請し、この時点で本来は八剣神社と称すべきでしたが、そうはせずに熱田神社と称し続けてきたのです。(注:1185年以前は仮殿があっただけなので、特に社名はなかった可能性があります)

社名問題に関してさらに時代を下ります。中山八剣神社に解説石板には、「本社を新北に分霊す 元亀二年」とありました。元亀2年は1571年となり、新北は現在の熱田神社を意味します。そして熱田神社に関する「福岡県神社誌」記事、パソコン由緒のいずれにも、元亀2年(1571年)に社殿が炎上した、と書かれています。

この二つを重ね合わせると、熱田神社は1571年に社殿が炎上し何もなくなったので、中山八剣神社から日本武尊と宮簀媛命を分霊してもらったことになります。熱田神社が中山八剣神社から分霊してもらったなら、分霊時点で社名を八剣神社に改称すべきではないでしょうか?

しかしながら、1185年のみならず1571年の時点においても、本来八剣神社と改称すべきところを、どんな事情によるのか、同社は熱田神社のままにしたのです。八剣神社に改称すべきをしなかったことと、手書き史料が、文治元年尾張の熱田大明神を勧請申し上げて、日本武尊、宮簀媛命二柱を合祀申し上げて祭神八柱とす。而して、或は八剣宮八所宮と称したるも熱田神社と称し来れり。と曖昧な表現に終始しているのは明らかに照応しています。

1185年に本城の八剣神社から分祀された各社は皆八剣神社を社名としています。熱田神社に関して、熱田神宮から直接勧請したにせよ、本城から分祀されたにせよ、なぜ同社の場合のみ1185年時点で八剣神社の社名としなかったのでしょう?時代は下って1571年、社殿炎上により中山八剣神社から分霊してもらったにもかかわらず、なぜ八剣神社に社名変更しなかったのでしょう?この背後には必ず何らかの事情があったはずで、探ってみる価値があると思われます。あれこれ考えているうちに答えに辿り着きました。

熱田神社は鞍手郡鞍手町新北に鎮座しています。同社は現在地に遷座する前も新北(にぎた)の領域内にありました。そして新北(にぎた)は贄田物部(にえたもののべ)の居住地です。贄田(にえた)は(にぎた)であり、熱田(あつた)も実は(にぎた)でした。そう、尾張における熱田の地名、熱田神宮の社名は遠賀川流域の贄田、新北が元になっていたのです。熱田神社で頂戴した2006年のパソコン由緒には、「新北熱田神社の由緒」とのタイトルが書かれています。これを読み変えると「熱田熱田神社の由緒」になるでしょう。

熱田神宮の社名の「熱田」は贄田、新北に由来していた。その遠い記憶が1185年に至っても残っており、新北のみが遠い過去を偲ぶ熱田神社の社名になったのではないでしょうか?このことは裏を返せば、ニギハヤヒに率いられた贄田物部が大和ではなく尾張に移住したとする酔石亭主の視点の証明にもなるはずです。いかに遠賀川流域と尾張の縁が深かったか、この一点からも窺えると思います。

熱田神宮の社名の元は遠賀川流域の贄田、新北で、一方尾張の熱田神宮は新北の熱田神社の元宮的存在だったとは、遠賀川から投げたブーメランが尾張にまで届き、長い時代の果てに違う形で新北に戻ってきたような気がしてなりません。歴史の持つ不思議さを感じさせる一例です。次回は熱田神社宮司家の系図を検討します。

            尾張と遠賀川流域の謎を解く その31に続く
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