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尾張と遠賀川流域の謎を解く その31


今回の検討課題は熱田神社の手書き史料やパソコン史料にある同社宮司家の系図です。先々代が書かれた史料には系図や鞍橋君の活躍が事細かに記されていました。手書き史料の撮影を許可いただきましたので主要部分は手元にありますが、これをそのままアップするのは憚れるので、抜粋して書いていきます。

熱田神社の金川宮司家は初代が鞍橋君(くらじのきみ、鞍闇君、闇路公、黒治公など多数の別表記あり)で、現在で何と79代目。驚くほど長い家系ですね。鞍橋君は筑紫国造とされ、「日本書紀」の欽明天皇15年条などにも登場し、磐井の乱を起こした磐井の子供とされています。ただ、磐井の子である葛子の子供との説もあるので、この部分を系図がどう扱っているのか興味深いところです。また、「その27」で鞍橋君も強制移住させられたと書いており、この経緯も明らかにしなければなりません。と言うことで、早速系図を見ていきましょう。

金川宮司家の手書き系図には、磐井(いわい)の子が葛子(くずこ)で、その下に「葛子の子鞍闇君」とありました。ところがです。「葛子の子」の部分は棒線で消してあります。一方系図の下に「鞍闇君は葛子の弟なりは不明なり」と書かれ、「は不明なり」の部分が消したように薄くなっていました。パソコン史料では磐井の子として系図が書かれています。総合すれば、金川宮司家は鞍橋君を磐井の子で葛子の弟と認識されていることになりますが、ここで一つの疑問が浮かんできます。

磐井の本拠地は御井郡(現在の福岡県三井郡と久留米市一帯)のはずなのに、鞍橋君はなぜプレ物部氏の聖地である剣岳山麓にいるのでしょう?この問題は以前に少し触れており、今回でより詳しく見ていきます。手書き史料の系図には、新分郷(新北)と新延に関して、鞍闇君戦功ニ依リテ賜ハル、と記載あったので、新羅と争っていた百済を助け、その戦功により賜ったものと考えられます。これを証するかのように、「日本書紀」の欽明天皇15年(554年)には鞍橋君に関連して以下の記述がありました。

餘昌、遂見圍繞、欲出不得、士卒遑駭、不知所圖。有能射人・筑紫國造、進而彎弓、占擬射落新羅騎卒最勇壯者、發箭之利、通所乘鞍前後橋及其被甲領會也。復續發箭如雨、彌厲不懈、射却圍軍。由是、餘昌及諸將等得從間道逃歸。餘昌、讚國造射却圍軍、尊而名曰鞍橋君。鞍橋、此云矩羅膩。

大意を以下に記載します。

百済の王子餘昌が新羅軍に包囲され脱出が困難になったとき、援軍に参加していた筑紫国造は矢で新羅軍の最も勇壮な騎馬兵を射落とした。彼の放つ矢は騎馬兵の乗った鞍の前橋後橋を貫き甲冑を穿った。彼が次々と放つ矢は、新羅軍の上に雨あられと降りそそぎ、彼らは包囲を解くしかなかった。餘昌と諸将は間道を通って逃げ帰ることができた。餘昌は敵を退却させた国造の武勇を称賛し、鞍橋君と言う尊称を与えた。鞍橋、これを矩羅膩(くらじ)と言う。

手書き史料と「日本書紀」を比較検討すると二つの問題点が浮上してきます。まず、「日本書紀」は鞍橋君と書かれているのに、手書き史料では違う表記の名前となっている点です。(注:手書き史料で鞍橋君の活躍場面は別の方が書いたものを引用しており、名前は「鞍橋君」の表記になっています)二つ目は、既に筑紫国造であるはずの鞍橋君が、なぜ戦功により新分郷(新北)と新延を賜る必要があるのかと言う点です。この不整合の背後には必ず何らかの事情が伏在しているはずなので、詳しく検討していきましょう。

最初に名前の違いを見ていきます。「日本書紀」の記事には鞍橋君の名前の由来が書かれていました。すなわち、彼の放った矢が新羅の騎馬兵の乗った鞍の前橋後橋を貫いたことから、鞍橋君の尊称が与えられたのです。ところがです。彼の系図などにおける名は鞍闇君、闇路公、黒治公。金川宮司家のパソコン系図にも、鞍橋君ではなく鞍闇君、闇路公の名前で書かれていました。(注:パソコン系図には鞍闇君の横に小さな文字で「後の鞍橋君」とあります)

名前が闇とか黒とか、いかにも暗そうな方向に傾斜しているのですが、金川宮司家としてはこちらを優先しているのです。宮司家が優先する名は鞍橋君の名前の本義から遠くかけ離れている。この問題をどう説明したらいいのでしょう?などと首を傾げていたら、ふと思いついたことがあります。

「その7」で以下のように書いています。

洞(ほら)は倉(くら)であり、洞海は大倉主命を奉斎する嶋戸物部の支配地域でした。つまり、洞海(くきのうみ)の漢字表記は大倉主命にちなんで付けられたものだったのです。漢字一文字と音で、その場所の特性(細く長い水路)と支配者(大倉主命)まで表現した「洞海(くきのうみ)」。古代の人々の文字と言葉に対する感性には本当に驚かされてしまいます。…中略… 遠賀川流域では、鞍橋君(くらじのきみ)と言った名前を持つ人物も登場します。正しく高倉下(たかくらじ)の「くらじ」ですが、「くらじ」には倉師、黒治、鞍闇、暗路、闇路などの表記もあり、倉の暗さを表現するものと推定されます。

倉師に関して、下新入剣神社は往古は倉師大明神(くらじだいみょうじん)と号したと「福岡県神社誌」にあり、倉師は鞍橋君と全く同じ音となっています。音が同じなら倉師大明神は鞍橋君を意味していると考えたくなります。全く同様に、倉師大明神は同じ音の高倉下(大倉主命)を意味しているのかもしれません。でも、これはちょっとおかしいですね。

倉師大明神=鞍橋君だが、倉師大明神=高倉下でもあるとすれば、幾つかの矛盾が出てきます。例えば鞍手郡の地名由来です。下新入剣神社の由緒では鞍手郡の郡名は倉師大明神に由来し、熱田神社の手書き史料やパソコン由緒では鞍橋君に由来するので、倉師大明神が高倉下の場合、鞍手郡の地名由来は二通りになってしまいます。

矛盾はそれだけにとどまりません。もっと厄介なものもあります。倉師大明神=鞍橋君=磐井の子の前提で、倉師大明神=高倉下なら、物部麁鹿火に殺された磐井は物部氏系となってしまうのです。幾ら何でもこれはあり得ないでしょう。また高倉下は190年頃の人物と推定され、これに対し鞍橋君は欽明天皇15年(554年)に百済への援軍として朝鮮半島に渡っているので、時代も全く異なります。

倉師大明神の存在から厄介な謎が出てきましたが、問題の根源には百済からその武功により与えられた鞍橋君の尊称と、倉の暗さを表現したかのような鞍闇君、闇路公、黒治公の名前があります。意味の相反するこれらの名前は何を暗示しているのでしょう?これこそが、磐井の子である鞍橋君が鞍手町に強制移住させられた人物だった点の証明になるのではないでしょうか?

鞍橋君が鞍手町に移された後、継体天皇が531年(実際には多分534年)に、物部麁鹿火が536年に死去します。大和王権の力が再び低下したのを機に、鞍橋君は復権して筑紫国造となり、その後新分郷(新北)と新延を手中に収めたのかもしれません。

いや、この見方も間違っていそうです。手書き史料だけでなく「日本書紀」も、筑紫国造に鞍橋君の尊称が与えられたことになっています。鞍橋君は朝鮮半島に渡った欽明天皇の15年(554年)時点で既に筑紫国造だった。既に筑紫国造である人物がなぜ、自分の支配地域となっているはずの新分郷(新北)と新延を新たに与えられる必要があるのでしょう?そんなことはあり得ず、素直に考えれば以下のようになりそうです。

磐井の子とされる人物が、磐井の乱後プレ物部氏の領域だった現在の鞍手町新北に強制移住させられた。(注:この時点では幼子)移住から20年以上が経過し、立派な青年となって新羅との戦いに参加した磐井の子が百済の危機を救った。百済を救うと言う目覚ましい働きぶりにより、彼は鞍橋君の尊称を与えられた。その功により、自分が強制移住させられた場所、すなわち手書き史料にある新分郷(新北)と新延を新たに領地として賜った。

強制移住させられた地が自分の領域になったことから、その地域を拠点としていた物部氏に敬意を表する必要があった。鞍橋君の「鞍」はプレ物部氏系である高倉下(たかくらじ)の「倉」と音が同じであることから、鞍橋君の音を高倉下(たかくらじ)と同じ(くらじ)に変え、別名も倉の暗さを意味するものに変えることで敬意を表した。その結果、鞍橋君の子孫は系図において彼を鞍橋君ではなく鞍闇君、闇路公などと表記した。鞍手郡の地名が鞍橋君に由来しているのも、彼の領地が新分郷(新北)と新延に限定されていたことを示している。

以上のようなストーリーが鞍橋君の音と異なる名前の背後にあったと仮定すればすっきりしますし、倉師大明神は高倉下(大倉主命)を意味していることになりそうです。上記からは、物部氏によって討伐された磐井の子が物部氏の領域に強制移住させられ、長じては敵方だったはずの物部氏側に傾斜していく過程が見て取れます。

手書き史料の系図は鞍橋君を鞍闇君や闇路公と書き、また鞍橋君を祀る鞍橋神社を黒治神社と表記していました。新羅騎馬兵の鞍を射抜いたことから与えられた鞍橋君の名前が、徐々に倉の暗さを意味するものに変化し、遂にはプレ物部氏系の倉師大明神(高倉下)に同化していったのです。

鞍橋君の音がプレ物部氏系の倉師大明神(くらじだいみょうじん、高倉下)と同じ(くらじのきみ)になっているのは、上記のように磐井の子供がプレ物部氏の領域に強制移住させられ、その地に同化していったからで、同化が完了した時点では、鞍手郡の地名が鞍橋君、倉師大明神のどちらに由来しても問題なさそうです。

倉師大明神の存在、百済から与えられた鞍橋君の尊称、倉の暗さを表現したかのような鞍闇君、闇路公、黒治公の名前などから意外な事実を読み解くことができました。一方こうした読み解きは、百済を助けた時点で鞍橋君は筑紫国造ではないとの結論を導き出してしまいます。鞍橋君の名=鞍手郡なのですから、それも当然ですね。なのに、「日本書紀」にまで筑紫国造が鞍橋君の尊称を百済からもらったと書かれており、この点は理解に苦しみます。大和王権によって討伐された磐井の子となる鞍橋君がなぜ「日本書紀」に筑紫国造と書かれているのでしょう?

鞍橋君の父親である磐井を、「日本書紀」は筑紫国造磐井、「古事記」は竺紫君石井、「筑後国風土記」逸文は筑紫君磐井と表記しています。「日本書紀」における筑紫国造磐井の流れを受けた形で、鞍橋君を筑紫国造として記述したのでしょうか?単なる推測に過ぎませんが、戦功により新分郷(新北)と新延を賜った後も鞍橋君の名声は高まり、大和王権から筑紫国造を賜ったとするのが常識的な見方だと思えます。

一方磐井の子の本来の名前が鞍闇君、闇路公で、物部氏の領域となる鞍手町に強制移住させられた結果、名前の音が高倉下と同じ「くらじ」になり、後に百済を助けたことから鞍橋君の尊称をもらい、音はそのまま「くらじ」を使用、その後も名声が高まり筑紫国造になったのかもしれません。

いずれの場合でも強制移住は間違いなさそうで、鞍橋君の異なる名前が彼の隠された部分を炙り出したとも言えそうです。ただ、現段階では倉師大明神の時代に関する史料がないため高倉下と同時代かを確定できず、倉師大明神=高倉下だと言い切れるか多少の不安もあります。この問題は倉師大明神に関係する神社や鞍橋君が祭神となっている神社を検討する際にもう一度見ていきたいと思います。

小さな課題を残したまま、次回は草薙神剣盗難事件の伝承が色濃く残る古物神社を探索します。と言うことで、今回は終了にしようと思ったのですが、熱田神社をネット検索していたら妙な記事に出くわしたので、以下に記載します。検討課題の本筋とは離れた内容になりますが、ご了承のほど…。

熱田神社に関してネットで検索していたところ、「熱田神社 草薙の剣を祭った元宮か」と言うトンデモ説のような記事タイトルを発見しました。驚いたのは個人のブログではなく、本年4月1日付の西日本新聞朝刊筑豊版に掲載されたものだそうです。詳細内容は以下を参照ください。
https://horubai.jp/content/nnp_news/90

熱田神社が草薙の剣を祭った元宮となる可能性は0.1%もありませんし、ひょっとしたらエイプリルフールのひっかけなのかもしれないと思いましたが、一応内容をチェックします。すると意外によく調べられた部分もありました。

例えば、「熱田神社は、贄田(にえた)物部、熟田津(にぎたつ)、新北など熱田の語源につながる言葉がみられる。」、「鞍手から尾張熱田台地への遠賀川式土器の伝播(でんぱ)と物部氏の移動ルート、そのことに深く関わるであろう高倉下(たかくらじ)の出自と祭祀(さいし)の形式など、遠賀から尾張への移動の痕跡が強く見られるのも興味深い。」などです。これらは酔石亭主も本シリーズの最初に詳しく論証した部分で、遠賀から尾張への移動が尾張と遠賀川流域の関係の基層になったことは事実です。けれども、熱田神社が元宮云々とは時代も異なり直接的な関係はありません。

新聞記事には古物神社における草薙神剣盗難事件や、1185年に尾張国熱田大明神を勧請した点、酔石亭主も取り上げた万葉歌の熟田津に 船乗りせむと云々が剣岳で詠まれたとする話などが載っています。そして最後に、「鞍手町の熱田神社は、草薙の剣をご神体とする名古屋の熱田神宮の元宮だったかもしれない。剣岳山頂から遠賀川を望むと、そんな考えが浮かんでくる。」となっていました。

個人のブログにおける単なる感想ならそれは個人が趣味で書いたものなので、内容がどうあれ別に問題はないものの、社会の公器たる新聞にこんな記事が掲載されていたとは驚きです。もちろん断定はされていないのですが、記事タイトルと最後の結論的部分を見れば、熱田神社を熱田神宮の元宮だと言う方向に誘導しているのは明らかです。しかし、その根拠は皆無。書いた内容と結論的部分が全くつながりません。筆者は一体何を考えているのでしょう?

「太宰管内誌」、「福岡県神社誌」、熱田神社の手書き由緒及びパソコン由緒のいずれにも、熱田神宮の元宮が熱田神社だったなどと書かれてはいません。パソコン由緒によれば、1185年以前は五代(或いは素戔嗚尊も含む六代)の大神が祀られていただけで、日本武尊さえ祀られてはいなかったのです。

1185年になりようやく尾張から熱田大明神を勧請して、日本武尊と宮簀媛命を祀った訳ですから、同社の実質的創建は1185年でその元宮は尾張の熱田神宮と言っても言い過ぎではありません。実情は、記事タイトルや結論的部分と全く逆なのです。尾張から熱田大明神を勧請した点は筆者も書いているのに疑問に思わなかったのがとても不思議ですし、熱田神社宮司家に問い合わせすらしなかったのも全く理解不能です。

遠賀川流域の草薙神剣盗難事件関連伝承は、仮にそれが事実だったとしても、668年の話ですから、熱田神宮創建以後の話となり、熱田神社が元宮になる可能性はゼロとなります。日本武尊が草薙神剣を持って熊襲討伐に向かったという伝承でもあれば、事実関係は別として、元宮と主張できる小さな根拠にはなるかもしれませんが、北九州の武人としての日本武尊に草薙神剣の伝承など全くないのです。

熱田神社宮司家に確認もせず、単なる思い込みや思い入れで記事を書き、それが新聞に掲載されるのは問題がありすぎです。もちろん一個人が熱田神宮の元宮を熱田神社だと考えるのは自由ですから、それ自体を否定するものではありません。けれども新聞に掲載された以上、間違った認識が広まるのは新聞社にも責任があり、内容も修正のうえ「草薙神剣を祀る熱田神宮は熱田神社の元宮か」、或いは「遠賀川流域と尾張の深い関係」と言ったタイトルに訂正していただくしかないでしょう。そもそもこれだけ大きなテーマを一枚で書くなど土台無理な話であり、今後古代史を掲載する場合はその点にも十分留意していただきたいと思います。

             尾張と遠賀川流域の謎を解く その32に続く
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