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尾張と遠賀川流域の謎を解く その34


今回は雑多な検討課題を書いていきます。古物神社は幾つかの神社の複合体のようなものなので、祭神も複数の神様グループが存在しており、分解・整理した上で検討する必要がありそうです。では、由緒を参照しつつ古物神社を構成する各神社を祭神も含めグループ分けしてみましょう。

既に書いたように同社祭神は「福岡県神社誌」によると天照大神、日本武尊、仲哀天皇、素戔嗚尊、神功皇后、宮簀姫神、応神天皇、布留御魂神の八神で、地元史ではこれに剱大明神、草薙剱命霊、稲種尊の三神が加わっています。各神社の祭神は便宜的に配分したものなので、間違いがあった際は了承願います。

西山八幡宮と剣神社(2)(仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、素戔嗚尊)
遠賀川流域には三韓征伐に赴いた神功皇后の伝承地や神社が数多くあり、西山八幡宮もその中の一つと考えられます。「福岡県神社誌」コマ番号193には、古物村と西山八幡宮は仲哀天皇と神功皇后が熊襲や三韓を征伐の時の行在所だと書かれていました。

西山八幡宮に関連して面白いのは、古門村は神代の昔、スサノオの命が高天原より出雲国に行く時の旧跡であり、十握剣、素戔嗚尊を往古から祀る神社で、剣神社と号す。と記載された部分です。この内容は素戔嗚尊を祭神とする剣神社(2)の伝承であり、多分その剣神社を合祀した西山八幡宮が古物神社に合祀された訳ですから、ずいぶん奥の深い構造になっていると理解されます。現代なら、小さな銀行を吸収合併した中堅銀行が大手に吸収合併されると言ったところでしょうか?

剣神社(1)(天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀姫神、剱大明神、稲種尊)。
この剣神社は剣岳山上に鎮座していた剣神社(1)で、本来的には素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛神の3神となりますが、その他の神様も便宜的にここに含めます。上記祭神はいずれも熱田神宮の相殿神であり(注:天照大神は現時点における主祭神でもある)、尾張の影響が色濃く感じられます。剱大明神の実態は日本武尊なので熱田神宮祭神と言い得ます。

同社に日本武尊と剣大明神が祀られているのは、中山八剣神社で書いたように、剣岳に北九州の武人と大和や尾張の日本武尊が祀られていたという酔石亭主の見解を裏付けるものとも言えそうです。なお草薙剱命霊は布留神社祭神に含めます。稲種尊とは日本武尊の東征に従軍した建稲種命のことで、熱田神宮の境内社・今彦神社にても祀られています。彼の妹が宮簀媛命、父は尾張国の初代国造・乎止与命となります。建稲種命と宮簀媛命は尾張限定の神様であり、本来北九州で祀られる必然性はありません。(注:建稲種命は日本武尊の東征に従軍しており、その関係で三河の幡頭神社でも祀られている)

ここで北九州の武人としての日本武尊を簡単に見ていきます。遠賀川流域には数多くの日本武尊(北九州の武人)伝承が存在します。彼は洞海湾の黒崎に上陸し、本城の八剣神社鎮座地に立ち寄り、多分江川を船で渡り遠賀川河口(崗の水門)に出て川を遡り、立屋敷八剣神社に立ち寄って、その後遠賀川流域の各地を転々としながら熊襲の討伐に向かいました。

では、北九州の武人はいつの時代の人物なのでしょう?酔石亭主の全く個人的な見解ですが、彼の九州における伝承から5世紀頃と推定しています。理由は新延の剣神社由緒にあります。同社由緒には、日本武尊が太刀や甲冑を置いていったので社殿の傍らに埋め、これを鎧塚と言っていると書かれていました。詳細は「福岡県神社誌」のコマ番号193、194を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/193

その鎧塚古墳は5世紀半ば頃の築造とされています。日本武尊の伝承と古墳の存在は連結しているため、北九州版日本武尊は5世紀頃の人物となるのです。大和や尾張の日本武尊の場合はどうでしょう?北九州とほぼ同様に、日本武尊のものとされる古墳も4世紀末や5世紀頃の築造とされています。(注:宮内庁認定の日本武尊の墓だけで三重県亀山市の能褒野墓、奈良県御所市の白鳥陵、大阪府羽曳野市の白鳥陵と三ヶ所もあります。分骨したとは考えられないので、それぞれ別人の墓となるはずです)

以上により、後に日本武尊の事績に組み込まれた北九州における武人ストーリーは5世紀頃のものとほぼ確認されました。次に、明治4年に合祀した布留神社を検討します。

布留神社と剣神社(3)(石上布留御魂神、草薙剱命霊)。
布留神社は草薙神剣盗難事件に関係する重要な神社です。草薙剱命霊は道行によって盗まれた草薙神剣が筑前の古門に落ち、その御霊が祀られたことになるでしょう。霊になっているのは、神剣の実物が朝廷経由で熱田神宮に返還されたためと考えられます。現物がない形となった以上、神剣の霊を祭神とするしかないのです。ただ、後の回で詳しく検討しますが、草薙盗難事件は捏造であると理解され、古物神社における伝承は石上神宮と尾張の神剣関連情報が伝わったことで成立したものと見られます。

草薙剱命霊に関しては、前回で見てきた布留神社の中宮・剣神社(3)に関連するもので、この剣神社(3)は石上神宮における若宮の出雲建雄神社に相当し、出雲建雄神社の祭神は出雲建雄神となっています。出雲建雄神は草薙剣の荒魂とされ、解説板の由緒にも、出雲建雄神は草薙神剣の御霊に坐し、とあり、地元史が古物神社祭神とする草薙剱命霊と全く同じになっています。石上神宮の詳細は「邪馬台国と大和王権の謎を解く その33」以降の記事を参照ください。

ところで、そもそも草薙神剣とはどのようなものだったのでしょうか?「古事記」によれば、高天原を追放された素戔嗚尊は出雲の肥の河(斐伊川)上流の鳥髪(現在の島根県仁多郡奥出雲町竹崎にある船通山で、斐伊川の源流部)に降臨します。ここで素戔嗚尊は悲嘆にくれる老夫婦に出会い、理由を聞いてみると八岐大蛇に娘の奇稲田姫を生贄として差し出さなければならないので泣いていると答えました。

そこで素戔嗚尊は八岐大蛇に酒を飲ませるよう仕掛けを作り、酔っぱらった八岐大蛇を切り散ると肥の河が血となって流れます。続いて八岐大蛇の尾を切ると、中から剣が出てきました。それが現在の検討課題となっている草薙神剣です。この神話を現実の話に再構成し直してみましょう。

斐伊川は暴れ川で大量の土砂を上流から下流へと運び、ひとたび氾濫すれば水田に甚大な被害を与えます。それらの土砂は周辺の砂鉄を含んだ山から供給されるため、川は赤く見えます。また土砂が堆積することで、川は幾筋にも分かれ、その様子は大蛇を連想させます。


赤茶けた斐伊川が幾筋にも分かれて流れる様子を示すグーグル画像。

以上から、斐伊川が八岐大蛇で、毎年甚大な被害を受ける水田が奇稲田姫、素戔嗚尊は水害を鎮めた武人になるでしょう。八岐大蛇を十握剣で切ったとき肥の河が血となって流れるとは、砂鉄によって赤く見える川を意味します。そして、八岐大蛇の尾から出た草薙神剣とは、斐伊川上流部の砂鉄で造った剣を意味することになります。神代の神話をここまで再構成できるのは、あまり例がないように思えますが、一方で八岐大蛇を蹈鞴製鉄に従事する特殊技能民とする見方もありそうです。

次回は布留神社及び剣神社(3)の由緒に影響を与えたと推定される石上神宮摂社の出雲建雄神社から検討を進めます。

            尾張と遠賀川流域の謎を解く その35に続く
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