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尾張と遠賀川流域の謎を解く その36

尾張と遠賀川流域の謎を解く
09 /09 2017

草薙神剣は皇室における三種の神器の一つとされていますが、基本的には尾張氏が祀る熱田神宮の宝剣であり、本来北九州とは何の関係もない宝物です。では、どんな事情・経緯により草薙神剣の話が北九州にまで伝わったのでしょう?謎の解明には可能な限り多くの史料に当たる必要があります。「日本書紀」には次の記載がありました。

天智七年是歳条、是歳、沙門道行、盗草薙劔、逃向新羅。而中路風雨、荒迷而歸。

天智天皇7年(668年)、この年に(新羅)僧・道行が草薙剣を盗み新羅に向かって逃げ帰ろうとしたが、途中で風雨に遭って帰った。

これだけではよくわかりませんね。「日本書紀」には事の顛末が以下のように記されています。

朱鳥元年六月戊寅条 戊寅、卜天皇病、祟草薙劔。即日、送置于尾張国熱田社。

朱鳥元年(686年)6月10日条、天武天皇が病に倒れ占ってみると、草薙剣の祟りによるものだと判明、即日尾張国の熱田社に返還された

(注:原文では送り置いたとなっており、何か知らないけど剣があったからお前の所に送っておいたよ、といったそっけなさが感じられます)

次の史料に移りましょう。鎌倉時代初期頃に成立した熱田神宮の縁起に「尾張国熱田太神宮縁記」があります。「尾張国熱田太神宮縁記」はデジタル化されているので、以下のコマ番号6を参照ください。一応関係する部分を書き出します。
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/5790/1/Nishimiyah001.pdf

天命開別天皇七年、新羅僧沙門道行盗此剣神、為移本国、窃祈神社、取剣裏袈裟、逃去伊勢国、一宿之間、脱自袈裟、還著本社、道行更亦還到、練禅祷請、又裏袈裟、逃到摂津国、自難波津解纜帰国、海中失度、更亦漂着難波津、乃或人詫宣云、吾是熱田剣神也、而被欺野僧、殆着新羅、初裏七条袈裟、脱出還社、後裏九条袈裟、其難解脱、于時吏民驚恠、東西認求、道行中心、作念、若棄此剣、将投免捉搦之責、即抛棄神剣、神剣不離身、道行術尽力窮、拝手自肯、遂当斬刑 天渟中原瀛真人天皇朱鳥元年夏六月己己朔戌寅、卜天皇御病、草薙剣為祟、即勅有司、奉還于尾張國熱田社、

とても訳せる内容ではありませんが、一応以下のように概要を書きました。間違いがあった場合はご容赦の程。

天智天皇7年、新羅僧沙門道行はこの神剣を盗んで本国に移すため、神社に入って神剣を取り、袈裟に包んで伊勢の国へ逃げた。一夜のうちに、神剣は袈裟から脱して、本社に還ってきた。道行も還りまた盗んで逃げ、摂津の国に至った。難波津からともづなを解いて新羅の国へ帰ろうとした。海の中で嵐に遭い方向を失い、難波津に標着した。そのときある人に託宣があった。私は熱田の神剣である。しかし悪い僧により新羅に着きそうになった。最初は七条の袈裟に包まれていたが、抜け出て社へ還った。後に九条の袈裟に包まれたので、どうしても抜け出ることができなかった。それを聞いた役人や人々は驚いて東に西に捜索した。道行は剣を捨てたら捕らえられないと思った。剣を捨てようとしたが、剣は身から離れなかった。道行はあれこれ尽力したがなす術もなく自首するしかなかった。遂に斬刑に処せられた。天武天皇朱鳥元年夏六月、天皇の病の原因を占ったところ、草薙剣の祟りによるものだと判明し、直ちに尾張国熱田社にお返し申し上げた。

(注:原文だと尾張国熱田社に還し奉ったとなっており、「日本書紀」のそっけなさが消えています。それぞれの立場の違いが読み取れます)

この記事では、道行は伊勢、摂津の難波津にまで逃げ、船に乗ったが嵐で出発地の難波津に漂着し捕まって処刑されたことになります。後の回で書きますが、実際には処刑されてはいないと判断されます。いずれにしても、尾張で発生した事件が難波にまで波及したことが確認されました。上記記事に関連する何らかの痕跡が難波に残っていないかチェックしてみましょう。色々調べたら、ありましたよ。

大阪府大阪市鶴見区放出東3-31-18には阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)が鎮座しています。祭神は味鉏高彦根神、草薙御神剣御神霊(八剣大神)とのことです。この神社では八剣大神が草薙神剣の神霊を意味していました。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

住所の「放出」は随分変わった地名ですが、読み方は(ほうしゅつ)ではなく(はなてん)になります。この地名は草薙神剣盗難事件に関連しており、その意味では古物神社が鎮座している古門と全く同じです。放出の地名由来は同社の由緒に出てきますので、早速行ってみましょう。

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境内の手前から撮影。

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楠の巨木。

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楠の解説板。

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鳥居と社殿。

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拝殿。

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本殿。

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祭神。

同社の草薙神剣に関連する由緒は以下の通りです。
 
天智天皇(三十八代)七年十一月 新羅の僧、道行 尾張國熱田宮に鎮り座す御神劔 天叢雲劔即ち草薙御劔を盗み出し 船にて本國へ帰途、難波の津で大嵐に遭ひ流し出され、古代の大和川河口であった当地で嵐は更に激しく、これ御神罰なりと御神威に恐れをなし、御劔を河中に放り出し逃げ去りたり(之が地名となり 放手 放出 今「はなてん」と云ふ)。 後この地の里人、この御劔をお拾ひ申上げ、大國主命の御子 阿遅鉏高日子根神御鎮座の此の御社に合祀奉斎すること数ヶ年後草薙御神劔の御分霊は永遠に当御社に留まりし座し、 奉斎す 御神劔は天武天皇(四十代)の皇居飛鳥、浄見原宮に御うつし申上げ 更に朱鳥元年六月 皇居より尾州熱田の御社に奉還し給ひ 永へに熱田神宮に鎮り座します。右御由緒あらたかな当御社に御鎮座の八劔大神に、中御門天皇(百十四代)享保八年、御神階正一位を贈られ、八劔大明神と尊稱す。

現代文にて以下に書き直します。

第38代天智天皇の7年(668年)11月、新羅の僧・道行が尾張の熱田神宮に鎮座する草薙神剣を盗み出し、船で本国に帰ろうとした。その帰途、難波の津で大嵐に遭遇し流し出され、古代の大和川河口であった当地で嵐はさらに激しくなり、これは神罰かと恐れをなした道行は、剣を河中に放り出して逃げ去った。(これが放出の地名となり、今は「はなてん」と言う)。後にこの地の里人が、剣を拾い上げ大国主命の御子である阿遅鉏高日子根神が鎮座するこの神社に合祀し奉斎すること数年後、草薙神剣の御分霊は永遠に当神社に留まられたので、これを奉斎した。神剣は第40代天武天皇の皇居である飛鳥の浄見原宮に遷し申し上げ、さらに朱鳥元年(686年)6月、皇居より熱田神宮に奉還され、永遠に熱田神宮に鎮座している。こうした由緒あらたかな当社に鎮座される八剣大神に、第114代中御門天皇が享保八年、御神階正一位を贈られ、八剣大明神と尊称した。

上記の内容は「尾張国熱田太神宮縁記」をベースに脚色・装飾を施したようにも見えます。同社の由緒には盗難事件の発生月が記載あり11月となっています。「日本書紀」には、11月1日に新羅王に絹や綿などを賜ったとか、11月5日に小山下の道守臣麻呂や吉士小鮪を新羅に派遣したとの記事があり、その後に、この年、沙門の道行が草薙剣を盗んだ云々の記事が出てきます。由緒は多分、「日本書紀」の記述の流れから判断して11月としたのでしょう。けれどもちょっと気になる点があるので、「日本書紀」の11月条を原文で見ていきます。具体的には以下の通り。

十一月辛巳朔、賜新羅王絹五十匹・綿五百斤・韋一百枚、付金東嚴等。賜東嚴等物、各有差。乙酉、遣小山下道守臣麻呂・吉士小鮪於新羅、是日金東嚴等罷歸。是歲、沙門道行、盜草薙劒逃向新羅、而中路風雨荒迷而歸。

天智天皇7年の11月1日。新羅王に絹五十匹・綿五百斤・韋(なめし皮)百枚を賜り、金東厳(きんとうごん)たちに品物を与えた。
11月5日。小山下の道守臣麻呂(ちもりのおみまろ)・吉士小鮪(きしのおしび)を新羅に遣わした。この日に金東厳たちは新羅に帰った。
この年沙門の道行は草薙剣を盗み新羅に向かって逃げた。しかし途中で暴雨風に遭い、迷って戻った。

上記から、11月の記事は新羅関連のみと理解されます。またこの年の記事は11月までで12月分はなく、盗難事件関連が即位7年の最終記事となっています。天智天皇は2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、翌年には唐・新羅軍の侵攻から国を守るため水城や烽火などを設置、さらに665年から667年にかけて長門国や筑紫国などに城を築き、天智天皇7年1月3日(668年2月20日)になって漸く即位しました。

天皇が敵対した新羅に贈り物をするのは、やや理解に苦しみますが、新羅は9月に使者の金東厳を派遣し、これに対して新羅王に船を贈っています。また金東厳の帰国に際しては、道守臣麻呂や吉士小鮪を同行させました。これは新羅と唐の関係が変わり、唐が半島にちょっかいを出すのを恐れた新羅が倭国にすり寄ってきたからだと思われます。倭国としても新羅が唐のバッファーになれば好ましいので、両国関係の改善は有り得る話ですが、道行の記事に不審な点があります。

赤字で示したように、11月における道行以前の記事は何日かまで明示されています。ところが道行の関連記事は、11月の中に入っているはずなのに、文面はなぜか是歲(この年)とあるのみで、11月の出来事かどうかさえ曖昧にされています。新羅とのやり取りの後に続く記事であれば、何日まで書けるはずなのに、そうなっていないのはなぜでしょう?しかも、この年の記事は11月が最終になり、と言うことは道行による盗難の記事が最後となっています。

11月の記事のはずなのに、実際の月日は不明。しかも天智天皇7年(即位年)の最後の記事になっている。ここから何が見えてくるでしょう?まず、天智天皇7年が即位年である点に注目します。天智天皇は自分の即位に合わせ、皇室の正当性の証となる三種の神器を整えようとしたのではないでしょうか?神器の一つとなる剣は様々な由緒を持つ草薙神剣が最もふさわしい。けれども、その剣は尾張氏の宝剣でした。だからこの剣を尾張氏から強制的に接収したと考えられます。

続いて月日と是歲(この年)について考えてみます。酔石亭主は道行の草薙神剣盗難事件を捏造事件と考えています。仮に捏造事件でないとすれば、これだけの大事件は当然何月何日と書けるはず。けれども、「日本書紀」の編者は月日を書かなかった。いや、道行の草薙神剣盗難事件は捏造だったから、この年の最後で新羅だけの記事がある11月にそっと挿入させ、何月何日の話か具体的に書けなかったのです。「日本書紀」の記事を読み込むだけで、事件の真実が浮かび上がってくるように思えませんか?

(注:「日本書紀」を読むと、一般的には月日が不詳な話、不確かな話、怪異譚や不可思議な予兆譚などが年度の終わりに是歳条として纏められています。例えば、668年の少し前の斉明天皇5年(659年)には、犬が死人の腕を食いちぎって言屋社の前に置いたのを、天皇崩御の予兆としています。神剣盗難事件の場合、これほどの大事件が実際に起きたら月日は確定できるはずで、それができないのは不確かな話だった、つまり捏造話だったからとなるのです)

それはさて置き、上記した阿遅速雄神社の由緒によると、道行が神剣を大和川河口に放り出し、里人が見つけ出して拾い、阿遅速雄神社に668年に合祀し、数年後に剣自体は天武天皇の飛鳥の浄見原宮に遷し、神剣の御分霊は同社に永遠に留まって祀られたことになります。神剣の現物がなくなったのでその御霊を祀る形式は、出雲建雄神社の伝承と全く同じですね。

阿遅速雄神社で注目すべき点は、同社の由緒に従った場合、北九州における神剣伝承は全て誤りとなることです。と言うか、同じような伝承が出雲建雄神社、阿遅速雄神社、古物神社などに存在すること自体が、盗難事件が捏造されたものであることを物語っています。まあ、結論を急ぐ必要はないのでじっくり検討を続けましょう。

由緒には、阿遅鉏高日子根神御鎮座の此の御社に合祀奉斎すること数ヶ年…中略…御神劔は天武天皇(四十代)の皇居飛鳥、浄見原宮に御うつし申上げ云々とあります。天武天皇の即位が673年であることから、数年後とは5年後の673年と想定されます。またこの由緒だと、剣は宮中にあったことになります。そして686年には熱田神宮に送り還され、708年の八剣宮創建により事件は全て終息しました。今まで不明だった経緯がかなり具体性を帯びてきたようです。

以上、草薙神剣盗難事件が大和や難波にまで波及している点は確認されましたが、北九州はまだ遥か遠くです。何とか他の史料で九州との関連性を探ってみましょう。

             尾張と遠賀川流域の謎を解く その37に続く
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酔石亭主

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