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尾張と遠賀川流域の謎を解く その37


今回は草薙神剣盗難事件が北九州にまで波及した経路を探っていきます。あれこれ調べた結果、「朱鳥官符」と「熱田太神宮正縁記」に参考となる記事が出てきました。これらの史料もデジタル化されており「朱鳥官符」はコマ番号8、「熱田太神宮正縁記」はコマ番号25を参照ください。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0357-013206&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%AE%AE%E6%9C%B1%E9%B3%A5%E5%AE%98%E7%AC%A6%EF%BC%8F%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E6%AD%A3%E7%B8%81%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=25

「朱鳥官符」の内容を以下に書き出します。

然間白鳳廿年庚申之歳、七月十三日、大唐新羅国沙門道行、自紫雲見起、遥度数百万里波濤、神社頭出来、住無生行、法味飡受、増益威光、即被行取於三衣、而将去事両三度也、最前者、従伊勢国桑名郡神三崎、帰於本処 第二度者、自播摩印南野出、押致於住社、第三度之今度、従筑紫国墓方津、窃参入于王城之処也

装飾された部分を除いた内容としては、神剣が盗まれて三度本社に還ってきたが、最初は伊勢国桑名郡神三崎より、二番目が播摩印南野より、三番目が筑紫国博多津より還ってきたと言ったところでしょうか?印南野は兵庫県南部、明石川と加古川およびその支流美嚢(みの)川に囲まれた三角状の台地を意味します。難波で終わりかと思ったら兵庫県、福岡県まで道行は逃走したことになります。難波で彼が放り出した神剣はダミーだったのかもしれませんね。

なお現在の検討課題とは無関係ですが、コマ番号7には驚くべき内容も書かれていました。(熱田大神は)本意を遂げんがために天下りして来る間、新羅国に暫く崇め留められ9年の間着座す、との内容です。コマ番号6には太神は大化2年丁未(注:大化2年は646年ですが、干支の丁未を採れば大化3年の647年)に天下りした神とあるので、これが以前にも書いたように熱田神宮の実質的な創建となり、何とその前段階では新羅にて祀られていたことになります。

仮に上記が正しいとすれば、草薙神剣は元々朝鮮半島の新羅で祀られていたものが日本に渡り、新羅の僧・道行が盗み出したが取り戻されたことになります。これは朝鮮半島にて作られた仏像が儒教の圧迫から逃れるため対馬に渡り、現代になって韓国人窃盗団に盗み出され、後に返還された話と実に似通っています。(注:観音寺の銅造観世音菩薩坐像は未返還)古代の出来事と現代を繋げてしまうような話には驚くしかありません。まあ、熱田大神は唐の玄宗皇帝が日本侵略を計画したとき、楊貴妃に変身して皇帝を幻惑し、計画を挫いたとの伝説もあるほどグローバルな神様なので、新羅にいたことがあっても不思議ではありませんが…。

与太話はさて置き、「熱田太神宮正縁記」の内容も似たり寄ったりで、神剣が最初は伊勢国桑名郡神三崎より本社に戻り、二回目は播磨印南野より戻り、今度は筑紫国の羽方津(博多津)で船のともづなを解いて順風に任せ帰国しようとしたが、元の渚に漂着したとあります。その後は「尾張国熱田太神宮縁記」に近い内容もあり、かなり大げさな記述が続いて熱田神宮に還っています。

読解力が不足しているためきちんと理解できてはいませんが、道行がどこまで逃げたかの疑問に対する答えは出たので一応よしとしておきます。今までに見てきた各史料を総合すると、道行が盗んだ草薙神剣は、難波で取り戻して宮中に納め(或いは朝廷の管理の下で石上神宮にて保管し)後に熱田神宮に還った、博多で取り戻して宮中に納め(或いは朝廷の管理の下で石上神宮にて保管し)後に熱田神宮に還った、との説があると理解されます。また神剣は途中の伊勢国桑名郡神三崎と播磨印南野から自力で一旦戻っています。幾つかの場所が出てきて混乱させられますが、それぞれの場所には必ず何らかの意味があるはずで、それを探っていきたいと思います。

まず伊勢国桑名郡神三崎について考えてみます。この場所は多分三重県桑名市本町46に鎮座する桑名宗社(旧称三崎大明神)と関係しているのではないでしょうか?同社は景行天皇40年には既に宮町あたりに鎮座していたとの由緒があります。どちらも海に近く、天智天皇の時代には岬だった可能性があり、三崎=岬とも考えられます。


宮町の位置を示すグーグル地図画像。

桑名宗社に関しては、「桑名散歩 その4」にて書いていますので参照ください。同社を訪問時に神社の方にお聞きしたところ、境内社の母山神社にて日本武尊と宮簀媛命が祀られているようです。(注:聞き取りだけなので確証はありません)


桑名宗社の位置を示すグーグル地図画像。

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母山神社。

DSCN1698_convert_20170909081755.jpg
小さな社殿。

桑名郡で日本武尊と関係する神社としては、桑名郡多度町大字戸津に鎮座する尾津神社やその論社とされる多度町小山の尾津神社、多度町御衣野鎮座の草薙神社などがあり、日本武尊が大和から東国征伐に向かう途上、尾津岬に立ち寄って、一振りの太刀を置いて旅立ったとの伝承が残されています。つまり、伊勢国桑名郡神三崎と周辺一帯は日本武尊伝承が濃厚に存在する場所だったのです。

続いて難波を見ていきます。「 日本書紀」の景行天皇29年条には日本武尊が熊襲を征伐した後、吉備と難波の悪い神を殺したと天皇に奏上する場面が出てきます。ここも日本武尊の関係地でした。既に書いたように大阪市鶴見区放出東3-31-18には阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)が鎮座しており、草薙神剣盗難事件に関連した由緒が存在しています。

播磨印南野はどうでしょう?日本武尊は吉備の悪い神を殺しており、播磨印南野もかつては吉備の領域でした。他にもあります。日本武尊の母は景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)で、稲日は地名を表し印南野を万葉集では稲日野と書きます。また「日本書紀」(岩波書店)の注には、「上田正昭は、播磨地方に吉備氏が存在し、その伝承が、日本武尊説話の形成に関係しているとする。」と書かれていました。播磨印南野も日本武尊と深く関係する場所だったのです。

博多はかつて「那の津」、「那大津」とも呼ばれ、遣隋使や遣唐使はここから派遣されています。当時の道行が新羅に逃げ帰る場所としては博多に設定せざるを得なかったのでしょうが、北九州における日本武尊伝説は遠賀川流域に色濃く残っています。博多から遠賀川流域までの直線距離約35㎞を何とか繋げるため、古物神社の所伝では神剣が飛んできた話になったものと思われます。

他にも道行が逃げたとされる場所があります。「源平盛衰記」四十四巻の「神鏡神璽都入並三種宝剣事」には、「九帖袈裟に裹て近江国まで帰処に、又黒雲空より下、剣を取て東を指て行。道行取返とて追て行。近江国蒲生郡に大磯森と云所あり、追初森也。道行剣を取返さんとて、此より追初ければ也。」と言った記述がありました。

意味は、「(道行が)草薙神剣を九帖の袈裟に包んで近江国まで帰ったところ、また黒雲が空から降り、剣を取り戻して東を指して行った。道行は取り返そうと追って行った。近江国蒲生郡に大磯森(おいそのもり)と言うところがあって、これは追初森(おいそのもり)である。道行が剣を取返そうとして、ここより追い初めた(おいそめた)からである。」と言ったところです。「源平盛衰記」の詳細は以下のP1091、P1092を参照ください。
http://www.j-texts.com/seisui/gsznb.html

この場所は老蘇(おいそ)の森で奥石神社が鎮座しており、「近江探訪 その26」にて書いていますので参照ください。老蘇の森の由来は長寿にちなむものとの説になっていますが、酔石亭主は異なる考えを書いています。いずれにしても、追い初めた(おいそめた)から追初(おいそ)とするのはやや無理のある解釈のように感じられました。では、老蘇の森にも日本武尊に関係する伝説が残っているのでしょうか?もちろん残っており、内容は以下の通りです。

日本武尊が東国征伐に赴く折、走水で嵐に遭い船が沈みそうになった。海神の怒りを鎮め、沈没の危機から救うため、妃の弟橘姫命が尊の身代わりになろうと心を決めた。懐妊されていた弟橘姫命は、「自分は胎内に子を宿しているが、尊に代わって難を救います。けれども霊魂は江州老蘇の森に飛んで留まり、永く女性の安産を守りましょう」と言い残し、荒海に身を躍らせて入水された。すると嵐はおさまり、船は無事に進むことができた。

この伝説にちなんで奧石神社は安産守護の神社として広く崇敬を受けることになったのです。いかがでしょう?奥石神社の老蘇の森もやはり日本武尊の関係地でした。なお岡垣町の高倉神社もこの伝承を取り込んでいます。内容は以下の通りです。

天智天皇の御時新羅國の沙門道堯といへる者尾張熱田宮に祝ひまします草薙の剣を盗み取りて逃げんとす、初めの度は熱田社の扉を出る時村雲おほひ之れをとどむ、其後又盗み取りて逃行きしが近江國に至りて村雲覆ひ之れを奪へり、此時道堯彼剣を取返さんと西より東へ追行しかども取返す事能はず、其追ひそめし所を名付おひそと云ふ老曾の森ある所是なり。又盗み取つて筑紫博多まで下りしが又取返されぬ。此時都より官使来りて此寶剣を受取りにまゐる間清浄の地に置かるべしと議せられけるに、當社古来の霊場にて特に堅固の地なればとて神殿の内に籠め置き奉りける、程なく勅使来りて之を守護し、又本の宮に納め奉る。天皇之れを聞召又彼道堯が如き盗人ありて取汚す事もやあらむと御心憂く思召、或鍛工に命じ彼剣と同じ様なる剣七振作らせ玉ひ別殿を建てて八ノ剣を納め玉ふ八剣宮是なり。(神道はふかく八の数を尊むいはれあり、故に七振の剣を作らせ玉ひ合せて八剣宮と云へる也。)此時より熱田宮には日本武尊を本社に祭り玉ふ。右の如く暫く當社に彼剣を籠置玉ひしより熱田に倣ひて俗説には當社をも八剣宮と申し奉るなり。

内容はやや読みにくいので、老蘇の森に至るまでの部分をざっと現代文に直して書いてみます。

天智天皇の御代に新羅国の沙門道堯(みちたか、名前が道行から変わっています)と言う者が、尾張の熱田神宮にて祀られている草薙神剣を盗み取り逃げようとした。最初は熱田神宮の扉を出るときに村雲が覆って、盗み出せなかった。その後また剣を盗み取り近江国まで逃げたところ、また村雲が覆って剣を奪い返した。このとき道堯は剣を取り返そうと西より東へと追いかけたが取り返すことはできなかった。その追い初めた(おいそめた)ところを名付けて(おひそ)と言う。老蘇の森のあるところがこれである。

その後の部分も以下に書きます。

道堯が又盗み取り筑紫博多まで逃げたが剣は取り戻された。このとき都から官使が来て、宝剣を受け取りに来るまでの間清浄な地に置くべきと決まったので、古来の霊場で特に堅固な地である高倉神社の神殿内に留め置いた。程なくして勅使が来てこれを本の宮(熱田神宮)に納めた。天皇(元明天皇)がこれを聞き、また道堯のような盗人が盗まないよう、神剣と同じような剣を7振り作らせ、別殿(八剣宮)を建てて八つの剣を納めた。(神道では八の数を尊ぶいわれがあるので、7振りの剣を作らせ合わせて八剣宮と言う)この時から熱田神宮は本社に日本武尊を祀るようになった。このように暫く当社に神剣を留め置いたので、熱田に倣って俗説では当社を八剣宮と申し奉るものである。

上記に関して、現在高倉神社では草薙神剣の伝承を公式には認めていませんし、紙に書かれた史料も残ってはいないとしています。神社側としては荒唐無稽で信ずるに足りない話を認める訳にはいかないのでしょう。それは所伝の最後に俗説では云々とあることからも理解されます。俗説では云々は後の文章にかかりますが、その場合、実際的には前の文章全体にもかかってくるため、神剣の伝承全体が俗説(確かな根拠もなく、世間に言い伝えられている話)に過ぎず、本当かどうかわからない、と言う意味合いになってきます。

一方、「太宰管内誌」のコマ番号274には、「洪鐘ノ銘」に…中略…高倉八剱大明神、と言った文面もありました。高倉八剱大明神が尾張の八剣宮に関係するのは明らかです。それは熱田に倣って俗説では当社を八剣宮と言う、との文面からも確認されます。鐘の銘にまで刻まれている以上、俗説としていいのか疑問も出てきますが、いずれにせよ、倉神社における草薙神剣の伝承も尾張側の影響により成立したと確認されます。また、7振りの剣を造ったのは再び盗まれないようにするためだったとあり、7振りの剣で八剣宮と称する理由も書かれています。

今回の検討により、高倉神社に見られる草薙神剣の伝承が俗説であるかどうかは別として、盗難事件に関連して出てきたすべての場所は日本武尊の関係地であると確認されました。これが偶然とはとても言い難いものがあり、日本武尊の伝承地に結び付けられて事件の関係地が設定されたとするしかありません。また、道行がわざわざ日本武尊の関係地に立ち寄りつつ逃走したなど、あり得ない話です。事件に関連した場所が一定の意図に沿って設定されたものだとすれば、草薙神剣盗難事件は実際の出来事ではなく、やはり捏造されたものだと言うしかないでしょう。そう考えれば、高倉神社側が草薙神剣の伝承を認めていないのも、無理からぬ話となります。

           尾張と遠賀川流域の謎を解く その38に続く
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