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尾張と遠賀川流域の謎を解く その41


八剣宮には、その元宮とも言えそうな神社が存在しています。社名は鳥栖八剱社(とりすはっけんしゃ)で鎮座地は名古屋市南区鳥栖2丁目。尾張氏の最初の本拠地たる笠寺台地(松炬島)に鎮座しているとは実に興味深いですね。この神社の詳細は「松炬島散歩 その3」で書いていますので参照ください。

内容は現時点で見てもほぼ使えそうに思えますので、若干の変更も加えて解説板に書かれた由緒とその検討結果を以下に再掲します。

創建和銅元年(708)多治比真人
○多治比は7世紀の天武・持統・文武に仕えた貴族・当境内に神剣を造るため仮神殿にて、安部朝臣と三十七日間のみそぎを行い神宮に納めた勅使。
○和銅元年に新羅の僧、道行が熱田神宮の草薙剱を盗み去ったときこのことが、元明女帝に知られるのを恐れ、神剣を新しく作ることを命じ鍛冶屋がこの地で製作し熱田神宮の別宮の八剣宮に、同年9月9日に奉納したという伝説がこの社に起源説話です。ただしこの盗難事件は日本の正史である日本書紀には天智7年(668)のこととしています。

由緒に多治比真人とあるのは天武天皇― 持統天皇― 文武天皇に仕えたとの内容から、多治比真人嶋のように見えてしまいますが、彼の没年は701年で708年には存在していません。元明天皇の時代は多治比真人池守となるので、大きな間違いがあります。また安部朝臣は安倍(阿倍)朝臣宿奈麻呂を意味し、それらは前回でアップした「尾張志」に、多治比眞人池守安部ノ朝臣宿奈麻呂等勅使として、と記載ある通りです。

既に何度も書いていますが、草薙神剣盗難事件の全体像を改めて簡略に纏めてみます。事件は天智天皇7年(668年)11月に発生し、新羅僧・道行が熱田神宮から草薙神剣を盗み出し、新羅に逃げようとしたところ暴風に遭って剣は取り戻されます。取り戻された後は、なぜか宮中(或いは朝廷の管理の下で石上神宮)に留め置かれますが、天武天皇の朱鳥元年(686年)、天皇の病気の原因が神剣の祟りとの占いが出て、朝廷から熱田神宮に返還されました。しかし天皇は同年の9月9日に崩御します。その後日譚として、元明天皇の勅命により7振りの宝剣が造られ和銅元年(708年)9月9日に八剣宮が創建され、この時点で全てが収束しています。

そうした全体像の中で、鳥栖八剱社の所伝からもう少し考えてみましょう。全体を読んでみると、鳥栖八剱社の所伝は非常に理解しがたいものになっています。まず、和銅元年(708年)に盗難事件が発生したと書かれている点です。一応、668年の盗難事件が708年になって元明天皇に知られるのを恐れ…、と読み替えておきましょう。それでもかなり首を傾げたくなる内容ですが…。

由緒には、道行による草薙神剣の盗難を「元明女帝に知られるのを恐れ、神剣を新しく作ることを命じ云々」とあります。これは、誰が元明天皇に知られるのを恐れて、神剣の製作を命じたのでしょう?熱田神宮でしょうか、尾張氏でしょうか、或いは多治比真人と安倍朝臣なのでしょうか?記載内容はあまりにも不明瞭なため、じっくり解読していきます。

最も恐れる可能性のあるのは神剣の直接の管理者・熱田神宮(=尾張氏)になるはずです。けれども、事件発生から16年後に神剣は戻っており、708年時点では盗難から40年以上も前の話となります。もはや歴史と化した事件など、それを知られようが知られまいが何一つ恐れる理由はありません。

多治比真人と安倍朝臣はどうでしょう?赤字で書いた解説板中の文面を読む限りでは、二人が神剣を新しく作るよう命じたことになりそうです。天皇に知られるのを恐れた二人が、神剣を新たに作るように命じたと考えれば、それなりに筋は通りそうです。

でも、本当にこの二人が恐れたのでしょうか?彼らは重要閣僚であり、すぐ後に平城京遷都の責任者となるメンバーです。そんな彼らが元明天皇に知られるのを恐れたとは考えられません。そもそも彼らは勅使として尾張に入っているのです。勅使とは勅命を受けた使者であり命令を下したのは天皇以外にありませんし、「尾張志」を読めば、はっきり勅命により、と書かれています。

元明天皇が勅命を下した以上、天皇は盗難事件を熟知しており、二人は命じられた通りの仕事をしただけで、大きなミスもなく、どう考えても恐れるものはなさそうです。これで本件における当事者は誰も、天皇に知られるのを恐れる必要はなかったと理解されます。

いや、まだ恐れる可能性のある人物が存在していました。他ならぬ元明天皇自身です。解説板の所伝とは異なってしまいますが、そもそも天皇が恐れたなどと書くのは、とんでもない不敬に当たります。1300年前の田舎の神社の神官がそんな趣旨の文章を書き後代に伝えるはずがありません。では、仮に元明天皇が恐れたとして、それを立証するような何かがあるでしょうか?

極めて怪しく思われるのは、天武天皇の崩御月日が9月9日で、7振りの宝剣を新たに作り八剣宮を創建したのも9月9日であると言う点です。元明天皇は明らかに草薙神剣の祟りで天武天皇が崩御した月日を意識しています。天武天皇が祟り死にした悪い月日を八剣宮創建日に設定できるのは、元明天皇しかいないと思われます。

さらに不審な点があります。元明天皇は和銅元年(708年)に平城京遷都の詔を発し、9月30日に多治比真人と安倍朝臣宿奈麻呂が造平城京司長官に任ぜられています。そんな多忙を極める時期の少し前に、37日間もみそぎをする余裕があったのでしょうか?みそぎの余裕などないはずなのに敢えて命じたとすれば、八剣宮の造営は元明天皇にとって最重要事項だったとしか考えられません。その意味は何か?

草薙神剣は天智天皇の御代に宮中或いは石上神宮の管理下となり、次の天武天皇の時代に祟りが起きています。持統天皇や文武天皇は祟られることなく過ごせました。けれども、自分や子孫たちはどうなるかわからないと元明天皇は恐れたのではないでしょうか?

平城京遷都の目的は衛生状態の悪さや藤原不比等が権力を独占するためだとの説もありますが、人心の一新を図るものでもあります。遷都に当たり過去のしがらみや起こりうる危険は事前に排除しておく必要がある。そう考えた天皇は、草薙神剣の祟りが自分の身に降りかからないよう、また子や孫の代まで祟られないよう手を打ったのです。天皇はそのために7振りの宝剣を新たに揃え、同じ熱田神宮の境内に祀り草薙神剣の祟りを封じ込めようとした。それ以外に筋の通る説明は不可能です。

そもそも草薙神剣は皇室の三種の神器の一つとされ、それが事実なら天皇に祟るなどないはずです。朝廷は天智天皇の時代に尾張氏から草薙神剣を取り上げ、自分たちの神器にしようとした。だから剣が天武天皇に祟る事態となったと考えるのが論理的な見方です。よって、以前にも書いた通り、道行の盗難事件は実際にはなかったと判断されるのです。

今回の検討においても、神剣盗難事件は捏造ストーリーだったと確認されました。また八剣宮の創建は再び草薙神剣が盗まれないようにするためではなく、尾張氏の宝剣を無理矢理取り上げた天皇家が、二度と剣に祟られないようにするためだったのです。ここまでの検討を纏めます。

草薙神剣盗難事件は朝廷と尾張氏の合作による捏造だった。708年創建の八剣宮に関しては、その元宮とも言えそうな鳥栖八剱社も含め、元明天皇と政権の中枢部が関与していた。八剣宮創建の目的は剣の祟りが再び起きないようにするためである。古物神社における草薙神剣の伝承は、既に書いたように布留神社と剣神社(3)が担ったものと考えられ、当然石上神宮の影響が強い。石上神宮においては、宝物や武器類の管理は物部氏、祭祀は布留宿禰が担当していた。

あくまで一般論ですが、八剣宮の創建に元明天皇と政権の中枢部が関与していた以上、草薙神剣関連の情報が八剣宮の創建に絡んで北九州に伝達される可能性は高まったと言えるでしょう。岡垣町の高倉神社の場合、熱田に倣ひて俗説には當社をも八剣宮と申し奉るなり。との所伝も残るほどですから…。もちろんこれだけではまだ断定するに至っておらず、さらなる検討が必要です。

            尾張と遠賀川流域の謎を解く その42に続く
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