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尾張と遠賀川流域の謎を解く その42


前回で八剣宮の創建に至る経緯を検討しました。元明天皇と政権中枢部の関与は確認できたものの、どんな経緯でそれらの情報が北九州に伝えられたのかは依然として霧の中です。例えば、古物神社における草薙神剣の伝承は、既に書いたように布留神社と剣神社(3)が担ったものと考えられ、その場合当然のことながら石上神宮の影響が強いはずです。

だとしたら、元明天皇や政権中枢部に物部氏の存在をも加えて検討する必要があるでしょう。と言うことで、今回は草薙神剣伝承を北九州に齎した歴史イベントについて検討しますが、難しいのは物部氏のどんな人物が北九州への情報伝達を担えるのかと言う点です。

情報伝達を担えそうな物部氏の人物像を頭の体操的に考えてみます。北九州に神剣関連の情報を流した人物は、石上神宮と特に関係の深い物部氏の誰かで、668年とされる神剣盗難事件、686年の神剣返還、708年の八剣宮創建の全過程を知ることができ、新羅や北九州に行ったことがあるか、或いはその地の情勢に詳しい立場にあり、加えて、八剣宮創建に関与した政権中枢メンバーと対等に話ができるような大物になるはずです。

当時としては60歳を越えそうな長寿で、しかも上記の条件に見合う好都合な人物がいるとは到底思えません。一般論で言えば、全部の条件を満たすような人物など存在し得ず、仮に存在していたとすれば、その人物こそが草薙神剣盗難事件の情報を伝えた人物と考えて間違いないでしょう。さてはて、668年から708年頃の物部氏でそのような人物がいると思えますか?

もちろん、います。いなければ話が前に進みませんから…。和銅元年(708年)に八剣宮が創建された頃の物部氏を見ていくと、石上(物部)朝臣麻呂がどんぴしゃりで該当してきます。この人物は大物であり、あれこれ書くと長くなり過ぎるので、よく整理されたWikipediaより引用します。(注:上記した条件に合致する部分や神剣と関係しそうな部分は赤字としました)

天武天皇5年(676年)10月10日、大乙上物部連麻呂は大使となって新羅に赴いた(小使は山背百足)。この頃新羅と日本は使者の往来を頻繁に行っており、11月3日には入れ違いで金清平らが新羅から来日、23日には高麗(高句麗復興をめざす亡命政権)の使者を送って新羅の金楊原が来日した。麻呂は翌年2月1日に新羅から帰国した。
天武天皇13年(684年)11月1日、物部連は他の多数の臣姓の氏とともに朝臣の姓を与えられた。この頃に氏の名を石上と改めたらしい。朱鳥元年(686年)9月28日、天武天皇の葬儀において、直広参の石上朝臣麻呂が法官のことを誄(おくりごと)した。これにより以前に法官で勤務したことがわかる。
持統天皇3年(689年)9月10日、石上麻呂と石川虫名は筑紫に派遣され、位記を送り届けた。石上朝臣麻呂の位はこのときも直広参であった。持統天皇4年(690年)1月1日、持統天皇即位の儀式で、物部麻呂朝臣が大盾を立てた。文武天皇4年(700年)10月15日に、直大壱石上朝臣麻呂は筑紫総領になった。
大宝元年(701年)3月21日に、大宝令にもとづく官位が授けられたとき、中納言直大壱石上朝臣麻呂は正三位・大納言に進んだ。慶雲元年(704年)1月7日に、大納言従二位石上朝臣麻呂は右大臣に任命され、2170戸を与えられた。石上麻呂は知太政官事刑部親王の下で二番目の地位になり、皇族以外では最高位となった。慶雲2年(705年)に知太政官事は穂積親王に代わった。
和銅元年(708年)1月11日、従二位石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに正二位に叙せられた。3月13日に、右大臣正二位石上朝臣麻呂は長く空席であった左大臣に、不比等が後を継いで右大臣に任ぜられた。しかしながらこの頃に実際に政治を主導したのは、不比等だったと考えられている。
和銅3年(710年)3月10日、都が平城京に遷ったとき、石上麻呂は、旧都の留守になった。

新羅僧・道行による草薙神剣盗難事件は天智天皇7年(668年)に発生しますが、石上麻呂の生誕年は舒明天皇12年(640年)であり、事件当時すでに29歳の立派な成人となっています。彼が死去したのは717年ですから、78歳と言う当時としては驚くほどの長寿を全うしました。天武天皇5年(676年)10月には37歳で新羅に赴き、翌年2月に帰国しています。朱鳥元年(686年)6月、天武天皇の病の原因とされた神剣は熱田神宮に戻され、同年の天皇の崩御において47歳の石上麻呂は重要な役割を果たしています。

持統天皇3年(689年)9月10日、50歳になった石上麻呂と石川虫名は筑紫に派遣されています。石上麻呂は700年に筑紫総領となっています。八剣宮創建の708年には石上麻呂は正二位に昇進し、その時点での年齢は何と69歳です。正二位は左大臣、右大臣に相当する高位となります。

上記した歴史的経緯を見ると、筑紫に派遣された石上麻呂本人(或いは彼に同行した物部氏や石上神宮の神官)が事件の全容を筑紫側に伝えるのは十分に可能だと思われます。彼の立場なら、八剣宮の創建に関与した面々とも普通に対話できるし、あらゆる情報を入手できるでしょう。

石上麻呂は壬申の乱で大友皇子側につきましたが赦され、後に遣新羅大使となって天武天皇5年(676年)新羅に赴き、4か月近く同地で過ごしました。新羅の事情に詳しい石上麻呂と神剣を盗んだ(とされる)新羅僧・道行。全くの想像ですが、どこかで繋がる線があるのかもしれません。さらに言えば、草薙神剣盗難事件の捏造にも彼が加わり、尾張氏との交渉に当たった可能性すら指摘されます。尾張における物部氏と尾張氏の長い関係を考慮すると、当然の話と思えますし、むしろ事件の捏造を主導した人物と見做すべきなのでしょう。

盗難事件の後日譚となる八剣宮の創建は708年で、当時の石上麻呂は政権のほぼ最上位に就いています。さらに、天武天皇の13年(684年)における八色の姓の制定に際して、物部連麻呂は朝臣を賜り、その後に石上神宮の所在地にちなんで石上朝臣麻呂と改姓したようです。この改姓には、石上麻呂が石上神宮の祭祀により深く関与するようになった事情が反映されていると推測されます。

以上から、草薙神剣盗難事件の発生から収束するまでの全期間を生きた物部氏の大物・石上麻呂は、その立場から事件の全容を知り、九州側に伝えうる立場であったことになります。彼の存在と行動こそが、草薙神剣盗難事件の伝承が九州に伝わる歴史イベントだったのです。

上記は状況証拠に過ぎませんが、可能性はかなり高そうです。石上麻呂が石上神宮摂社・出雲建雄神社の縁起を、彼にとっての原郷とも言える遠賀川流域の地に伝え、それが古物神社に合祀された布留神社や剣神社(3)の創建と由緒に繋がったと考えても大きな違和感はありません。

          尾張と遠賀川流域の謎を解く その43に続く
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