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尾張と遠賀川流域の謎を解く その43

尾張と遠賀川流域の謎を解く
09 /16 2017

前回で石上麻呂の存在が急浮上してきました。けれども、彼のような大物が単独で草薙神剣の情報を北九州に伝えたのかと言った疑問、また既に書いたように、詳細な情報が伝わった年代は700年代の終わりから1180年前後と幅の広い期間になってしまう問題なども残っています。これらの疑問や問題が解消されるシナリオを、以下にざっと纏めてみましょう。

例えば、捏造事件の基本情報(骨格部分)が石上麻呂か同行した石上神宮の神官によって伝えられ、それがベースとなって後年「朱鳥官符」、「熱田太神宮正縁記」などの情報が付加されていったと仮定します。その結果、博多で道行が捕まり剣も取り戻されると言った草薙神剣伝承が、博多周辺ではなく、日本武尊(北九州の武人)の痕跡が色濃く残る遠賀川流域の古物神社に定着したと考えれば、疑問や問題は解消され、筋は通ってきます。

もちろんこれだけでは大雑把すぎるので、上記ストーリーに肉付けしてみます。石上麻呂に関連してポイントとなるのは石上神宮で、この一帯における当初の信仰は布留川の水神信仰であり、それに関わったのは市川臣でした。彼らは和爾氏系の春日臣から出た一族で、事実関係は別として、垂仁天皇の御代に石上神宮に神主として奉仕したとされます。「新撰姓氏録」には以下の記載があります。

布留宿禰 柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男、木事命、男、市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、布都努斯神社を石上御布瑠村高庭の地に賀ひたまう。市川臣を以て神主と為す。四世孫、額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首、ならびに神主首と号う。これによりて臣姓を失ひ、物部首と為る。男、正五位上日向、天武天皇の御世、社地の名に依りて、布瑠宿禰姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。

布留宿禰。柿本朝臣と同祖である。天足彦国押人命の七世の孫、米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)の後裔である。息子は木事命(こごとのみこと)、その息子市川臣(いちかはのおみ)は大鷦鷯天皇の御世に倭(やまと)に至って、布都努斯神社(ふつぬしのかみのやしろ)を石上御布留村の高庭の地に斎祀った。市川臣を神主とした。四世の孫、額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世に、宗我蝦夷大臣は武蔵臣を物部首また神主首と名づけた。これによって臣姓を失い物部首となった。息子の正五位上日向は天武天皇の御世に、社地の名に依って布留宿禰の姓に改めた。日向の三世の孫は、邑智(おほち)等である。

上記の最後に出てくる邑智は草薙神剣に関連してくるので、後で取り上げます。市川臣は後に物部首となりますが、物部氏の一族と言う訳ではありません。つまり、石上神宮の物部氏は草薙神剣に間接的な関与があるものの、直接的な意味では市川臣系となってしまう可能性があるのです。実にややこしいですね。剣の祭祀者が市川臣となる証拠は「日本書紀」垂仁天皇39年10月条にあります。

一千振の大刀は忍坂邑に収め、そして後に石上神宮に収めた。この時に石上の神が望まれて、春日臣の族、市河に治めさせよと仰せられた。そこで市河に命じて治めさせた。これが今の物部首の始祖であるという。

石上神宮に関しては物部氏と市川臣→物部首→布瑠宿禰へと続く二つの系統があってややこしいのですが、うんと大雑把に見れば、物部氏は各種神宝や剣の管理を担当し市川臣はその祭祀を司るとでも言えましょうか。ここでもう一度、石上神宮摂社の出雲建雄神社を見ていきます。(注:今までに書いた内容と重複する面もありますがご容赦の程)同社に関する石上神宮のホームページによれば、由緒は以下の通りです。

延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。
江戸時代中期に成立した縁起には、天武天皇(てんむてんのう)の御代に御鎮座になった由がみえます。それによると、布留邑智(ふるのおち)という神主が、ある夜、布留川の上に八重雲が立ちわき、その雲の中で神剣が光り輝いている、という夢を見ました。明朝その地に行ってみると、8つの霊石があって、神が「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」と託宣されたので、神宮の前の岡の上に社殿を建ててお祀りしたということです。

布留邑智の名前がここで出てきました。彼は草薙神剣に関係する人物だと明確に理解されますね。別の史料に「石上振神宮略抄」(江戸時代中期に当たる享保5年の1720年に成立)があり、内容の前半は阿遅速雄神社(あちはやおじんじゃ)の由緒に沿った部分が見られ、後半は石上神宮の由緒とほぼ同じです。具体的には以下の通り。

石上振若宮は出雲建雄神也、此神は日本武尊帯る八握剣の神気御名也、旧名天叢雲剣申、熱田祝部尾張連等掌ます神是也、天智天皇御世、新羅の僧道行、件ノ宝剣を盗逃げしが、境を出る事不能、難波浦にすて帰りしが、国人宝剣を取り大津宮に献上する、天武天皇都を浄見原に遷さる時、大殿内に留座すか、朱鳥元年(686年)六月宝剣の祟に天皇病給い、熱田神宮え送り遣さる、其の夜、石上神宮神主布留邑智が夢に東の高山の末に八雲がのぼり其の中に神剣光を放ち国を照す、其剣の本に八ッの竜座す、明旦彼地に到て見れば霊石八箇出現す、小童に託して曰く我は尾張連女が祭れる神なり、今是地に天降りて帝都を保ち諸の氏人を守らしむ、宜敬ひ祭れよ、仍て神託の随に神殿を造りて神を斎い奉る。出雲建雄神と申奉る

やや読みにくいので現代文に書き直してみます。

石上振若宮は出雲建雄神である。この神は日本武尊が帯る八握剣の神気の名である。旧名は天叢雲剣と言う。熱田祝部尾張連等が奉斎する神がこれである。天智天皇の御世に、新羅の僧道行がこの宝剣を盗んで逃げたが、境を出ることはできなかった。難波浦に捨てて帰ったが、国人が宝剣を拾い上げて大津宮(天智天皇の近江宮)に献上した。天武天皇が都を浄見原に遷される時、大殿内に留められたのだろうか。朱鳥元年(686年)六月宝剣の祟により天皇は病を得られ、熱田神宮へ送り返された。其の夜、石上神宮神主布留邑智は夢を見た。東の高山の末に八雲がのぼり、その中に神剣が光を放ち、国を照らした。その剣の元に八ッの竜が座している。翌日の朝その場所に至って見れば霊石が八箇出現していた。小さな子供に乗り移って言うには、私は尾張連の女(宮簀媛命)が祀る神である。今この地に天降って帝都の安寧と諸の氏人を守ろう。よろしく敬い祀りなさい。よって神託に従い神殿を造って神を斎祀り奉った。その神の名は出雲建雄神と申し奉る。

石上神宮のホームページには盗難事件と熱田神宮への返還が何も書かれておらず、一方「石上振神宮略抄」には道行の盗難と難波まで逃げたことや返還の経緯まで書かれています。ホームページの場合、既に書いたように尾張氏への配慮と言った側面もありそうですが、そもそも盗難などなかったので原史料の段階から書かれなかったとも言い得ます。「石上振神宮略抄」の場合、時代が下ってからの情報も取り込んだため、盗難事件から返還までを書いたのかもしれません。

では、装飾が施されている部分をできる限り取り除いて「石上振神宮略抄」の内容を検討します。まず、出雲建雄神とは日本武尊の帯びる草薙神剣の神気(御霊、荒御魂)で、尾張連の奉斎する神と確認されます。縁起によると神剣は天智天皇の近江宮に献上され、続く天武天皇の時代には浄見原宮(浄御原宮)大殿内に留められたのだろうか、との推測を書いています。

前半はほぼ経緯を語っていますが、後半になるといわゆる縁起的な色彩が濃くなり、出雲建雄神社の創建は石上神宮神主・布留宿邑智の夢が元になっていると理解されます。八つの竜とは八岐大蛇を意味しているはずで、八岐大蛇、素戔嗚尊、草薙神剣が一体的に出雲建雄神として表現されているかのような印象さえあります。

出雲建雄神社の所伝には、一振りの剣が布留川を流れて布に留まった。(依りてこの地を布留という)この剣を草薙剣の荒魂と仰ぎ奉斎したのが摂社出雲建雄神社だとの内容もあるようです。一振りの剣は草薙神剣ではなく、その代替品です。それを出雲建雄神社にて草薙剣の荒魂と仰ぎ奉斎したことになりますが、このような話が出てきた意味や背景を考えてみます。

天皇家が668年に尾張氏から接収した草薙神剣の実物は、朝廷の武器庫とされる石上神宮社にて祀られ、管理されていたと考えられます。けれども686年には熱田神宮に返還され、実物はなくなってしまいます。実物がなくなって困惑した石上神宮側は草薙神剣の代替品を作り、それを実物の御霊として出雲建雄神社で祀ることにしたのです。その実態に神道的な装飾を施して語れば同社に伝わる幾つかの由緒や各史料の内容となるのでしょう。そうした操作は由緒内容から判断して布留邑智の手になるものと思われます。

ここまでの検討から、出雲建雄神社における草薙神剣伝承は、物部氏ではなく布留邑智が関与していたと判明しました。しかも686年に神剣が熱田神宮に返還されるのとほぼ同時に伝承が形成されていることになります。「石上振神宮略抄」によれば、神剣は難波で取り戻され宮中に留め置かれた訳で、事件発生の686年時点において草薙神剣伝承は北九州にまで波及していなかったと確認できます。

ではいつ頃盗難事件の骨格部分が古物神社に伝わったのでしょう?朱鳥元年(686年)9月28日、天武天皇の葬儀において石上麻呂が誄(おくりごと)をしました。そして、持統天皇3年(689年)9月10日、石上麻呂と石川虫名が筑紫に派遣されています。こうした経緯を見ると689年時点の可能性が極めて高いことになりそうです。

上記の派遣には、布留邑智或いは彼の部下が同行し、石上麻呂から聞かされた盗難事件の情報を遠賀川流域に伝えていたのではないでしょうか?それが布留神社と出雲建雄神社に相当する布留神社の中宮・剣神社(3)の創建に繋がり、古物神社の草薙神剣伝承として定着したものと思われます。よって、古物神社に合祀された布留神社の創建は689年の可能性があります。(注:伝承自体は出雲建雄神社に相当する布留神社の中宮・剣神社(3)に定着したことになります。また布留邑智の名前を取って布留神社の社名となった可能性も見えてきます)

以上、草薙神剣盗難事件関連の情報は、事件が発生した(とされる)686年より少し後の689年頃に石川麻呂が筑紫に派遣され、その際布留邑智或いは彼の部下が同行し遠賀川流域に伝えられたもので、これが基本情報(盗難事件伝承の骨格部分)になったと纏めておきます。これで最初に書いた疑問、石上麻呂のような大物が単独で草薙神剣の情報を伝えたのかと言った問題は解消されました。

注意すべきは、708年頃までの情報は神剣盗難事件とそれが取り戻された後の後日譚としての八剣宮創建が伝わっていただけで、道行が博多に逃げたという話は「朱鳥官符」の登場まで待つ必要があった点です。既に書いたように、記事中に大威徳五大尊と言った表現があることから、「朱鳥官符」の成立は朱鳥年間ではなく、早くても700年代の終わり頃となります。

岡垣の高倉神社の場合、所伝には、熱田に倣って俗説には當社をも八剣宮と申し奉る、とあり熱田神宮別宮の八剣宮創建(708年)時点以降の情報が伝わった可能性があるものの、近江国老蘇の森の部分は「源平盛衰記」(注:成立時期は不明だが1250年頃とされる)の記述を部分的に取り入れていることから、草薙神剣伝承の全体が形成されたのは相当遅い時代となりそうです。

あれこれ書いてきましたが、遠賀川流域への草薙神剣盗難事件の情報伝達は基本的に2段階あったことになります。すなわち689年における石上麻呂の筑紫派遣を契機に、捏造された盗難事件の骨格部分が伝わり、700年代の終わり以降に道行が博多まで逃げたとの史料が遠賀川流域にまで届き、古物神社における由緒が最終的に形成されたのです。

一旦情報の経路ができれば、その後も色々な情報が流され続けたはずで、高倉神社の場合は1250年頃成立の「源平盛衰記」まで取り込んでいたと考えられます。さらに細かく見れば、2段階の間に708年の八剣宮創建も伝えられていたのでしょう。以上で、最初に書いた情報伝達の年代問題も一応整理されました。

いかがでしょう?最も難物であった遠賀川流域における草薙神剣盗難事件伝承も、何とか一定程度解明できたとは思えませんか?整理の意味で尾張と遠賀川流域における共通性や相似が発生した原因となる各段階(歴史イベント)を簡潔に書いてみます。

1.弥生時代前期における遠賀川の弥生人集団の尾張移住。
2.190年代頃のニギハヤヒ東遷に伴う贄田物部、嶋戸物部の尾張移住。
3.528年(実際には531年と推定)の磐井の乱における物部麁鹿火の北九州遠征。
4.689年に石上麻呂が筑紫に派遣され、700年には筑紫総領となったこと。
5.1185年に三河守範頼が熱田神宮を本城に勧請し八剣神社が創建されたこと。

他の年代でも色々ありそうですが、基本的には以上の5段階が原因となって尾張と遠賀川流域における伝承、神社構成、祭神などの共通性や相似性が起きたと考えられます。各年代を探りながらようやく一定の答えが得られましたが、ここまで書いておけば、九州王朝説の影響によると思われる新北の熱田神社は熱田神宮の元宮と言った珍説や、似たような発想に基づく議論は出にくくなると期待されます。

(注:上記は九州王朝説を唱えられた古田武彦氏の考えを否定するものではなく、むしろ同氏の論理力や博覧強記には畏敬の念さえ覚えます。問題は、その考えを根拠や検証もなしに様々な事象に当て嵌めようとする姿勢にあり、古田氏も泉下で苦々しく思っているのではないでしょうか?)

次回からはまだ個別に検討をしていない剣神社、八剣神社やその他の神社を見ていきます。
(注:このところ毎日記事をアップしていますが、パソコンが不調でいつ壊れるともしれないため、記事の練り上げを多少犠牲にして頻度を上げている次第です)

             尾張と遠賀川流域の謎を解く その44に続く
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酔石亭主

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