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尾張と遠賀川流域の謎を解く その45


今回は鞍手郡鞍手町長谷に鎮座する鞍橋神社に行ってみましょう。下新入剣神社から見ると六ヶ岳を挟んで西側に位置しています。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

鞍橋神社は地図画像に表示されていませんが、飯盛山の山頂付近に鎮座しています。地図画像では475号線を南南西に進むと長谷寺方面に下る狭い道路があります。そして475号線の進行方向左手に妙見社の鳥居が目に入ります。車は妙見社の鳥居脇が車止めになっていますので、そこに駐車ください。車を停め長谷寺に向かう道を歩いて少し下れば山に入る登山道がありますので、この道を登り続けることになります。文章ではややわかりにくいかもしれないので、ストリートビューでチェックいただければと思います。

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妙見社の鳥居と車止め。

山道を登っていくと汗ばんできます。

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しばし登るとこんな石柱が建っていました。

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御神木的な巨木。

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社殿と言うより祠です。

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解説板。読みずらいので以下に記載します。

鞍橋様
祭神は鞍橋の君(飯盛山頂に祀る)日本書紀欽明天皇十五年の段に筑紫国造家の出身で、当時新羅との戦いに苦しんでいた百済の救援に赴いた武将の記がある。これが鞍橋君で、後鞍手の地名は此の名に起こるとされている。

鞍橋君(くらじのきみ)に関しては既に何度か検討していますので、書くべき内容はあまりなさそうです。鞍橋君の武功に関しては「日本書紀」の内容を既に引用していますが、ここでは熱田神社の手書き史料に書かれた部分を抜粋します。

百済の王子余昌が新羅の軍に包囲された。彼は血路を開かんと試みたが彼の将兵は新羅軍の勢いに圧倒され、その物々しさに為すべき術を知らなかった。余昌もまた傍観して運命に委ねるより外に致し方がなかった。その時百済の援軍に参加していた筑紫の国造がいた。彼は勇躍して陣頭に立ち新羅軍中最も勇敢な騎馬兵に挑戦した。彼は弓の名手であった。弓を引き狙った矢は見事騎馬兵を射落とした。箭は乗鞍の前橋後橋を貫き甲冑を穿った。彼が次々と続いて放つ矢は雨のごとく新羅の将士に注がれた。斯くて新羅は自らの包囲の軍を解かざるを得なかった。余昌及び百済の諸将は程なく包囲を脱して逃げ帰るを得たのであった。その勇武に対して彼等はこの筑紫の国造に鞍橋君と言う敬称を与えたのであった。

他にも鞍橋神社に関する記述があります。

黒治神社考(藤原朝臣政明)
鞍手郡新分郷長谷村倉橋山(此山飯ヲ盛リタル如クナル山ニヨリテ飯盛山トイフ)二黒治神社アリ云々。古老ノ傳二此ノ御神ハ神官金川氏ノ元祖ニシテ昔ヨリイカナル祈願ヲスルトモ其霊験アラズト云フ事ナシ。


鞍手郡新分郷長谷村倉橋山(この山は飯を盛ったような形の山なので飯盛山と言う)に黒治神社がある云々。古老の言い伝えによると、この御神は神官金川氏の元祖で、昔からいかなる祈願をするともその霊験がないと言うことはなかった。

以上、鞍橋君に関しては、黒治、鞍闇、暗路、闇路などの別表記があり、それらに倉師大明神の名前を併せ考えれば、倉の暗さを示す方向に傾いていると見て間違いないでしょう。過去記事において大倉主命と洞海(くきのうみ)の関係を書いたように、大倉主命(高倉下)の名前も倉の暗さに関係している点を考慮すると、やはり鞍橋君は磐井の本拠地である御井郡(現在の久留米市)からプレ物部氏エリアに強制移住させられたことになります。

次回は倉師大明神問題の流れを受ける形で、大倉主命を祀る高倉神社を訪問します。

               尾張と遠賀川流域の謎を解く その46に続く
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