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尾張と遠賀川流域の謎を解く その47


今回は高倉神社の由緒内容を検討します。

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解説板。

祭神は天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、大倉主命(おおくらぬしのみこと)、莵夫羅媛命(つぶらひめのみこと)となっています。天照皇大神が最初に出ていますが、これは中世に加わったもので除外していいと思います。由緒内容は以下となります。

當社は國史所載の古社にして第十四代仲哀天皇八年正月己卯朔壬午筑業に行幸し給いし時、岡の縣主の祖熊鰐周防婆歴浦(さばのうら)に参迎え海路を導き山鹿岬より巡りて岡の浦に入らむとし給ふ。時に神異あり、天皇勅して挾抄者(かじとり)倭國莬田の人伊賀彦命を祝部としめ給ふ。神功皇后摂政二年五月午の日に此の地に神祠を建て神田千町を以って定めらる 即ち大倉主命莬夫羅媛二神の本宮なり。
 古来武人の崇敬厚く年中三度の大祭には在廳の官人をして祭儀を監察せしめられ、武家執政の後も検使を遣して祭儀を援けしめられき、天文五年九州探題大内義隆公社殿の造営ありしも、永禄二年大友宗麟の兵火にかかり、壮麗なりし社殿も貴重なる社宝と共に烏有に歸せしが、天正十五年國主小早川隆景公之を再建、慶長十八年黒田長政公梵鐘及び鳥居の献納あり。再来歴代の國主、神田・神山を寄進して、崇信の念殊に厚く、宝暦元年旧遠賀郡の惣社として定めらる。
 明治五年十一月郷社に列せられ大正九年縣社に昇格す。現今の神殿・幣殿は明治九年旧遠賀郡の造営もよるものにして、古は神傅院、千光院、穂智院、勝業院、正覚院の六坊あり又社家・五家・巫女四家ありしも、明治初年同時に廃せらる。
 境内には御神木として、杉・楠・松・楓・柳の五樹ありしが、今は神功皇后御親裁と傳へられる綾杉と楠のみ残せリ。
史蹟 伊賀彦命古墳 綾杉・大楠(懸重要文化財指定五本)

古代は別として、大友宗麟、小早川隆景、黒田長政など戦国時代の有名人が登場しています。古代の詳細は以下の解説板を参照ください。

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詳しい解説板。汚れが目立ちます。

高倉神社の由来
高倉区の南山麓にあって神殿は西を向き、芦屋町岡湊神社の本社で、以前は遠賀郡二十二村の総社であった。明治五年郷社と定められ、大正九年九月二十八日県社に昇格、昭和二十年官幣社に昇格される予定であったが、終戦のためなされなかった。
祭神は大倉主命・莵夫羅媛命の二神で、中世天照大神を合祀し、左殿に氏森大神、秋葉大神、室大神、高田大神。右殿に白山大神、中山大神、山崎大神、国常立大神を合祀する。祭日は十月九日、社記は「日本書紀」を引用して「仲哀天皇が筑紫に行幸されたとき、岡の県主熊鰐はそれを聞いて、百枝の榊をとり、今の百合野で九尋の船のへさきに立て、上の枝に白銅で造った鏡を掛け、中枝は十握の剣をかけ、下枝に八尺瓊の勾玉をかけて、周防の沙歴の浦にお出迎えし、魚や塩、地図を奉献する。(これは八尺瓊の勾玉の美妙なように天下を治め、白銅鏡の明晰な如く山川海原をみそなわし、十握剣をひっさげ、天下の賊を平定くださいとの意で、神代の天照大神の故実に始まり、赤心を顕し、至誠を表現し、当時諸臣が天皇を奉迎する礼儀であった)熊鰐は海路を導いたが、山鹿岬より御船が進まなくなった。天皇は「熊鰐よ、お前は忠誠心があって出迎えに来たのだろう。それなのに船が進まないのは何故か、策略があってとめたのだろう」と吃問されると、熊鰐は「御船が進まないのは、私の罪ではありません。この浦の先に男女二柱の神がおられ、男神を大倉主命、女神を莵夫羅媛命といいますが、その神に挨拶をしないからです」と奏上した。そこで天皇は、大和の国の伊賀彦を祝部となし、祭とし祈願をされたら、御船は進むことが出来た」と。仲哀天皇は神功皇后と岡津に暫く駐まり、作戦を練られ、諸軍に命じて兵器弓矢を整備される、そこを矢矧という。熊鰐は皇后に奏上して「この県に高津峯という三面宝珠の山があります。この峯に国々を鎮護するため神々が天降っておられます。いそいであの峯に登られ、朝敵誅伐のことをお祈りください」と。皇后は悦んで高津峯に登られ、熊襲征伐のことを祈られる。間もなく岡津に帰られ、天皇と相談される。「ここは国の端で、暫くでも皇后をおく所ではありません。香椎の宮に移ってください」と。軍勢はお立ちになる。今度この九州に下られたのは熊襲征伐のためだから、敵国はまだ遠いとはいえ、隊伍を整え号令を厳格にされる。そして先ず御旗を立てられた所を旗の浦といったが、今は訛って波津の浦といい、鏝を残された所を小手の村といったのを、後世小の字をとり手の村という。こうして程なく香椎に入られたが天皇は宿陣されたとき海からの風が烈しかったので千本の松を植えられた。それを垣崎松原(三里松原)という。香椎で天皇は崩御されたので、皇后が代わって熊襲を伐ち平げ、朝鮮の新羅も伐ち従え、その年の十二月に御帰還される。
この西征で、天皇、皇后は各所で祈願をされたので、御帰還後それぞれお礼をいい祭りをされた。中でも大倉主、莵夫羅媛の二神は水神で、仲哀天皇が筑紫に下られた時も神異があり、皇后が三韓を伐たれたときも神助が浅くなかったので、皇后が摂政の二年五月、午の日に勅を下して、この高倉村に御柱を建てて祭りをされる。これが高倉神社である。だから今に至るまで午の日を祭日にしている。(岡垣風土記)

やたらと長いですね。要約すれば、仲哀天皇の船を進まなくさせたのは大倉主命と莵夫羅媛命の意志によるもので、天皇が大和国の伊賀彦に祈願させたら船は進むことができた。そして、神功皇后の摂政2年5月、皇后が熊襲討伐を祈願した高津峰のある高倉村に御柱を建てて祀ったのが高倉神社の始まりとなります。摂政2年は紀年で202年になりますが、実年代では干支2運の差を計算に入れ322年となります。但し、神功皇后の寿命は紀年では100歳となるので、そんな長寿は実際にはあり得ず、実年代の322年もあまり意味のない年代と言えます。

さて、過去記事においては、大倉主命(おおくらぬしのみこと)と高倉下(たかくらじ)が同一人物(神)かどうかについて、一応同じ人物だろうとしてそれ以上の追及はせず打ち切っています。今回はそのような曖昧な形では終われないので、大倉主命と高倉下は同一人物か否か結論を出したいと思います。

大倉主命は既に書いたように、嶋戸物部が奉斎する神でした。嶋戸物部の移住先は尾張の熱田台地で、ここには高倉下を祀る高座結御子神社が鎮座し、鎮座地は遠賀川式土器が出土した高蔵遺跡の上となっています。また、高倉下を祀る神社が四国の伊予、紀伊半島など移動経路上に数多く見られます。こうした関係から大倉主命は高倉下と同じだと理解されます。

次に大倉主命と高倉下の名前を検討してみます。二人の名前は表記も音もかなり違いがあり、同一人物と見做していいのか難しい部分があります。なので、名前を細かく分析してみましょう。大倉主命の「大」と高倉下の「高」はいずれも立派さを示す美称です。似た例では大物主神がいますね。大倉主命の「主」は(ぬし)、(あるじ)などの読みがあります。読みの最後が(し)、(じ)である点に注目すると、高倉下(たかくらじ)の(じ)と同じになります。つまり、高倉下は本来高倉主であったものが高倉下に転じたと理解されます。従って、かなり違いがあるように見える大倉主命と高倉下の名前は、いずれも同じ倉主となり、同一人物と考えられるのです。

他にも大倉主命=高倉下を裏付ける例がないか見ていきましょう。仲哀天皇の船が進まなくなったとき、大和の国の伊賀彦を祝部として祀らせたら船は進むことができました。「日本書紀」を見ると、倭国の菟田(うだ、現在の宇陀)の人伊賀彦を以って祝(はふり)として祭らしめたまう。とあります。ストーリーに全く関係なさそうな宇陀の人物が突然登場するのには大きな違和感があります。きっと何らかの必然性があってのことなのでしょう。ではどんな必然性があったのか?

宇陀に関してあれこれ調べたところ、宇陀郡榛原町福地1には高倉下を祀る椋下神社(くらげじんじゃ)が鎮座していました。由緒によれば、神武天皇の軍勢が熊野に迂回する際、悪い神の毒気に当って、気を失い倒れてしまいます。そのとき高倉下が布都御魂を献上し、剣の霊威によって軍勢は正気を取り戻しました。

この功績を称えて文武天皇の慶雲2年(702年)に八咫烏神社と同時期に創建されたのが当社とされています。何と高倉下の登場する最も重要な場面に関係するのが宇陀に鎮座する椋下神社だったのです。大倉主命と高倉下が同一であったからこそ、その高倉下を祀る地の人物が大倉主命を祀れば神の心も鎮まると言うものではないでしょうか?椋下神社に関しては以下を参照ください。
http://kamnavi.jp/mn/nara/mukusita.htm

また、「先代旧事本紀」には伊賀彦王の名前があり、日本武尊の子となっています。伊賀彦と伊賀彦王が同じ人物かは不明ですが、同じだとすれば日本武尊の子になります。地元で崇敬されている日本武尊(実態は北九州の武人ですが…)の子が大倉主命を祀るのであれば、大倉主命としては心を鎮めるしかありません。(注:伝説的な話なので時系列は無視しています)それらの関係を踏まえて、仲哀天皇8年条に伊賀彦の話が出てきたと推察しますが、いかがなものでしょう?(注:境内には伊賀彦古墳があるとのことで、高倉村の内山下には伊賀彦の子孫と称する人もいたようです。古墳は残念ながら見落としました)

そもそも大倉主命を祀る神社なら、社名も大倉神社でいいはずですが、高倉下を連想させる高倉神社になっているのも、大倉主命=高倉下の関係を示しているように思えます。以上から、大倉主命と高倉下は同一人物(神)とほぼ確認されました。

            尾張と遠賀川流域の謎を解く その48に続く

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