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浜松の秦氏 その1


かなり以前に静岡県を中心とした「東海の秦氏」シリーズを書きました。書いたのは2010年ですから、もう8年も前の話となっています。当時、浜松における秦氏の痕跡は濃厚ではなさそうだと勝手に思い込んで、ほとんど何も書かずに終わっています。けれども、秦氏の痕跡が多少なりともある以上、新たに「浜松の秦氏」の記事カテゴリで検討を進めるべきと思い直しました。

そう思った背景には「平家物語を熱く語る」の掲示板で地元の歴史のみならず、様々な古代史の謎に挑戦されておられる三つ柏服部さんと空の青海のあをさんの存在があります。お二人の議論を読んだところ、浜松には相当色濃く秦氏の痕跡が残っていると思い知らされました。と言うことで、遅ればせながら浜松における秦氏の検討を進めたいと思った次第です。消えかけていた意欲を蘇らせて頂いたお二方にはただ感謝。なお、いつものように秦氏とは直接関係ない話も取り上げる点お含みください。

浜松における秦氏の検討のとっかかりとなる部分は、過去に書いた「大磯・高麗山の秦氏 その7」の中にあるので、内容を以下に抜粋します。

彼ら(秦氏)は駿河国有度山に千手観音像を安置し、続いて大磯に移住。その結果、大磯浦に千手観音像が出現したとなります。
これで観音様の出番もおしまいかと思ったら、まだありました。静岡に出現する以前に浜松にも姿を現していたようです。浜松市東区半田はかつての鹿玉(あらたま)郡に含まれ、覇多(はた)郷があり、長上郡の朝日波多加神社は秦氏に関係があるとされています。さらに半田の地名も秦氏地名です。
そこで、浜松駅の南に位置する龍禅寺(所在地:浜松市中区龍禅寺町357)を見ていきましょう。何とこの寺の創建は、推古天皇の御代に海中より出現した千手観音像を安置する堂が建てられたことに由来していました。全く神出鬼没の観音様ですね。でも、神出鬼没なのはその伝承を持ち運んだ秦氏と言うことになります。

詳細は上記ブログ記事をお読みください。要約すれば、聖徳太子から秦川勝が下賜された千手観音像(のコピー)が、駿河国有度山(久能山のすぐ近く)、相模国の大磯に出現し、それらには秦氏が関与している。これと似たような話が浜松にもあり、他地域と同様に秦氏の関与が推定され、それぞれの地域を繋げば秦氏の移動経路が復元できそうだとの趣旨で書いたものです。

面白いのは大磯の場合、海中から千手観音像が出現し、金目川を遡った上流部の秦野やさらに遡った場所に秦氏の痕跡があり、浜松の場合も馬込川の下流部に千手観音像出現の伝承があり、川の中流部に秦氏の痕跡があるなど、両者が相似形となっている点です。もちろんこれらは総括的な内容に過ぎないので、浜松(遠江国)における秦氏の全容を知るには、彼らがいつ頃、どのような目的を持って遠江国にまで至ったのか、様々な検討を加える必要がありそうです。

と言うことで、「大磯・高麗山の秦氏 その7」に書いた龍禅寺に行き、同寺に伝わる千手観音像出現伝承を探ってみましょう。


龍禅寺の位置を示すグーグル地図画像。住所は浜松市中区龍禅寺町357。近くの川が馬込川です。

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龍禅寺の本堂。

残念ながら堂宇はどれも新しく趣に欠けますが、一応あれこれ見ていきます。

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大梵鐘。

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大梵鐘の解説板。約200年前に鋳造されたものです。

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延命地蔵。

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解説板。写真がボケてしまいましたが何とか読めます。

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役の行者像。新しそうです。

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解説板。

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石碑の解説文。非常に読みにくいので主要部分を抜粋します。

龍禅寺の開創は飛鳥時代に遡り推古天皇の御代(593年)海中より出顯した本尊千手観世音菩薩を安置する寺に起源し聖武天皇の勅願所としてまた、平安初期には七堂伽藍が建立されていた。永禄年間、兵火により堂宇は焼失し天正年間に再建、豊臣秀吉公より百石の御朱印を賜り徳川時代は歴代浜松城主の帰依厚い寺院として栄えてきた。明治維新、境内十余の寺坊は廃絶し、その後改修が行われ戦前に至った。

海中からの千手観音像出現は大磯と同じパターンですが、秦氏は登場していません。他の史料にどう書かれているのか見ていきましょう。昭和28年の「浜松風土記」(浜松出版社)には以下の記載がありました。

遠江風土記傅に「龍禅寺眞言宗在龍禅寺、稱旧市場村、寺田百石」同寺記には「此寺大同元年聖徳太子創建、自海中佛像出現、有寺中十坊、而守護七堂、有火災旧記焼失」とある、初め聖武天皇勅題所、後ち坂上田村麿東征の心願成就により七堂伽藍を寄進、徳川家康以来代々の祈願所として明治維新まで百石の朱印が附せられた。

全文は以下を参照ください。
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/history/history14/fudoki/index4.html

千手観音像が海中から出現したのは現在の光福寺(浜松市中区南浅田1丁目、龍禅寺から少し下流に位置する)がある辺りで、そこが太子淵と呼ばれる場所となります。従って、光福寺にも仏像を安置したとの伝承が残ります。今は枯れて存在していませんが、境内には樹齢約500年とされる松があって、「太子淵の松」と呼ばれていたそうです。遠州灘を航行する船は、この松を目印にして航行していたと伝えられていたとか。「太子淵の松」に関しては以下のホームページを参照ください。
http://www.asa1.net/siseki-meguri/meiboku/8taisibuti.htmlÑ

では上記した二つの由来にネット情報も加えて検討してみましょう。龍禅寺の石碑では593年に海中より出現した本尊千手観世音菩薩を安置とあり、「浜松風土記」では聖徳太子(秦氏と関係が深い)が大同元年に同寺を創建し、海中から仏像が出現したとあります。ネット上で検索したところ、龍禅寺には593年に聖徳太子が馬込川河畔で千手観世音菩薩出現のお告げを受けたとの伝説があるそうです。

どれも中途半端なのでそれぞれをミックスすると、推古天皇の御代の593年に聖徳太子が馬込川河畔で千手観世音菩薩出現のお告げを受け、海中から出現した千手観音像を安置して創建したのが龍禅寺となります。(注:現在の馬込川は小河川ですが、古代においては天竜川本流であり、下流部は海と表現できそうな状態だったため、海中から出現したとの表記になったものと推測します)

龍禅寺の由来に秦氏は出てきませんが、聖徳太子の千手観音像出現縁起や馬込川中流域などに秦氏の痕跡が幾つも見られる点、大磯の伝承との類似性などから、秦氏の関与があったものと見て間違いなさそうです。

問題は、龍禅寺の創建が石碑だと593年で、「浜松風土記」では聖徳太子が大同元年(806年)に創建とあり、時代が異なっている点です。この点を少し考えてみましょう。聖徳太子の死去年は622年とされていますから、806年にいるはずもなく、初め聖武天皇勅題所と書かれている部分についても、天皇の在位は724年から749年なので、806年より半世紀以上も前になってしまいます。従って、「浜松風土記」に書かれた龍禅寺の寺記内容に誤りがあると理解されます。

けれども、単純に誤りと見ていいのかもう少し検討する必要もあるでしょう。例えば、後の回で訪問する予定の一つに笠井観音があります。調べてみると、このお寺には大同元年(806年)、天竜川の川底で夜ごと光る物があり、村人が引き揚げるとそれは三尺くらいの木の仏像であった云々の縁起がありました。

内容的には龍禅寺と瓜二つですね。浜松三観音は、一に鴨江観音、二に龍禅寺の十一面千手観音、三に笠井観音とされています。そうした状況から同じ年代になったのでしょうか?いや、そんなことはなさそうです。

ではなぜ「浜松風土記」に806年と書かれたのか?それを探るには806年の意味を考える必要がありそうです。「浜松風土記」には「坂上田村麿東征の心願成就により七堂伽藍を寄進」と書かれており、龍禅時の石碑にも平安初期に七堂伽藍が建立されていたとあります。そして、坂上田村麻呂の生没年は758年~811年になります。これらから「浜松風土記」の言う龍禅寺の寺記は、坂上田村麻呂が実質的に創建した806年と聖徳太子の伝説を混同してしまい、編集時点で誤った記述になったものと推定されます。

龍禅寺の806年創建が坂上田村麻呂と関係しているなら、笠井観音も何らかの関係性が見られるかもしれません。調べてみると笠井の地名は、本当かどうかわかりませんが、延暦20年(801年)に坂上田村麻呂が遠江国笠江の島と命名したことに始まり、延喜元年(901年)に笠江から笠居と変更され、治承4年(1180年)源頼朝の命により笠居を笠井に定めたとのこと。

以上から、龍禅寺と笠井観音は坂上田村麻呂や創建年代で繋がりがあり、海中(実際には川の下流部)から出現した観音像と言う伝説的な共通性を持っていたことになります。龍禅寺の実質的な創建年は806年であるとして、聖徳太子による593年の創建はどうなるのでしょう?593年は聖徳太子が摂政に就任した年となり、聖徳太子自身が浜松に行くのはとても無理なことから有り得ません。

従って、上記したように秦氏が浜松に千手観音像を持ち運んだと見てほぼ間違いなさそうです。その像を安置するため大同元年(806年)に龍禅寺が創建されたとして、ではいつごろ秦氏が浜松に来たのでしょう?

龍禅寺の千手観音像の元になるのは、聖徳太子が百済王から献上された西天竺の仏師毘首羯磨(びしゅかつま、実在の人物ではない)作の千手観音像で、秦川勝に下賜されています。その観音像を安置したのが秦楽寺(所在地:奈良県磯城郡田原本町秦庄)で、創建は大化3年(647年)になります。

龍禅寺の由緒にある593年より半世紀ほど時代が遅くなっていますが、秦川勝が下賜された千手観音像のコピーを秦氏の工人が何体か造り、遠江国に持ち込んだとすれば、秦氏が同国に来たのは秦楽寺の創建時期に近い647年以降とするのが妥当なようにも思われます。

ただ上記の推定にも問題があります。谷川健一氏の「四天王寺の鷹」によれば、秦楽寺の前に新楽寺があったとのことで、仮に同氏の説が正しいとすれば、647年より少し前の時代を想定した方がいいのかもしれません。いずれにしても、秦氏の遠江国到来はその背景も含め多くの史料に当たる必要があり、647年より少し前に到来したとの見方は、現時点における仮説としておきます。

龍禅寺における千手観音像出現伝承は、駿河国有度山や相模国大磯の例から判断して秦氏が持ち込んだものであり、その時代は647年より少し前と仮定して初回の検討を終えます。次回は古代と現代ではその姿が大きく異なる天竜川に関して見ていきます。

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