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浜松の秦氏 その2


647年より少し前に遠江国に至った(と現時点で推定される)秦氏は、船で馬込川に入り一旦龍禅寺付近に停泊し、さらに上流を目指したと理解されます。当初、少し東に行けば天竜川と言う大河があるのに、秦氏はなぜこのような小河川を利用したのか疑問があり、また馬込川から出現したはずの千手観音像が海中からと書かれていたことにも納得しにくいものがありました。

その後あれこれ調べているうちに、古代の馬込川は天竜川の本流だったと判明。予想もしなかった展開に驚かされた次第です。もっとも、驚かされたのは酔石亭主だけで古代史に興味がある地元の方々にとっては当たり前の事実なのでしょう。心の中にあった疑問も氷解したので、今回は天竜川に関して見ていきます。


馬込川の位置を示すグーグル地図画像。

拡大頂ければ東にある天竜川との位置関係が確認できます。

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馬込川の流れ。

天竜川の変遷に関する詳細は浜松市史のデジタル版にわかりやすく記されていましたので、以下抜粋します。

奈良時代の天竜川は、現代の川筋とは異なり、鹿島橋のあたりから、ほぼ遠州鉄道沿線を南下して、今の馬込川が流れている川筋に入っていた。奈良時代には、現在の馬込川が天竜川の本流で「玉川」と呼ばれていた。この玉川は、天平宝字五年(七六一)の大洪水で堤防が切れ、大きな被害を出し、川の流れもかなり変わったといわれる。江戸時代初期まで、天竜川の本流は馬込川の川筋であり、かなり大きな川だったようだ。しかし、三代将軍家光の時代に、新原堤ができてから、馬込川は完全に天竜川と分離して、小さな川になってしまった。

原文は以下の町誌のコマ番号14を参照ください。
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2213005100/2213005100400010/toubu1/


現在の馬込川最上流部(起点)を示すグーグル地図画像。天竜川まで北へ500m程度です。

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馬込川最上流部に程近い天竜川の鹿島橋です。

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ついでに10分ほど探石して揚げた天竜班石。参考品程度ですが…。

鹿島橋は山間部を流れていた天竜川が浜松の平野部に差し掛かった場所となります。所在地は浜松市天竜区二俣町鹿島となり、馬込川の起点の北に位置します。以上から、秦氏が遡った馬込川は現在のような二級河川ではなく、天竜川の本流だったと確認できたことになります。なお、江戸時代初期に至っても馬込川は大河だったようで、それを示す証拠らしきものもありました。例えば、東海道線を過ぎた少し先に船越町の地名があります。


船越町の位置を示すグーグル地図画像。

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船越橋で撮影した馬込川。

川を船で越すしかなかった戦国時代から江戸時代の初期、渡船の任に当たっていたのが船越村の人々でした。徳川家康が三方ヶ原の戦いに敗れて逃げてきた時、船越村の船で家康は浜松城に無事に戻れたとのこと。これがきっかけで、家康は船越村の人々に天竜川渡船役の特権を与えたそうです。

古代から現代にいたる天竜川の変遷を事細かに調べると面白そうですが、とてもそこまで手が回らないので、近代の話を少し取り上げます。近代になって天竜川の治水に尽力した人物に金原明善(きんぱらめいぜん)がいます。

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金原明善の旧宅。

住所は浜松市東区安間町1となります。実に立派なお宅です。

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もう一枚。

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正面から。

金原明善に関しては以下Wikipediaより引用します。

金原 明善(きんぱら めいぜん、天保3年6月7日(1832年7月4日) - 大正12年(1923年)1月14日)は、明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。
1868年(慶応4年)5月、天竜川は大雨により堤防が決壊。浜松及び磐田に大被害をもたらした。明善が19歳(1850年)の時に発生した洪水は、一瞬に安間村を沈めてしまった。それは明善にとって一生忘れられない災害であった。天竜川沿岸に住んでいる人達の苦しむ様に途方に暮れていた時に、明治維新をむかえる。そんな新政府の「政体」の布達が明善に希望をあたえた。
早速、京都に上がり天竜川の治水策を民生局へ建白した。だが明善の必死の訴えも届かなかった。しかし、8月に新政府は急に水害復旧工事に着手した。明治天皇東京行幸の道筋になる東海道の補修が目的であった。当時の明善は、その事を知らずに堤防の復旧工事を行う。明善の優れた運営手腕により、8月下旬に開始した工事は10月上旬に大略が終了。その功績が認められ、明治天皇東幸において浜松行在所の時に苗字帯刀を許される名誉を得た。
翌1869年(明治2年)に明善は静岡藩から水下各村の総代・又卸蔵番格に申付けられた。そして明治5年に浜松県から堤防附属を申付けられ、戸長役・天竜川卸普請専務に任命された。1874年(明治7年)には天竜川通堤防会社を設立。
1877年(明治10年)、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の田舎農民が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。
そして、近代的な治水事業が始まった

詳細は以下を参照ください。本当に立派な人物だったと頭が下がります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/金原明善

今回は馬込川と天竜川をあれこれ見てきました。そして秦氏が浜松に来て遡った馬込川は、当時の天竜川本流だったのです。

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