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浜松の秦氏 その5


坂上田村麻呂将軍と赤蛇伝説に関しては、「遠江国風土記伝」のデジタル版コマ番号93に関連する話が出ています。これを一読しただけでも、馬込川と天竜川流域には坂上田村麻呂の伝説が多いと理解されます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876528

秦氏とは直接関係ありませんが、赤蛇伝説に関して「遠江国風土記伝」に書かれていた内容を以下に現代文でざっと書いてみます。かなり端折っている点はご容赦ください。

昔この国の海に赤蛇(おろち)が住んでいて海を荒れ狂わせ船を転覆させていた。延暦14年(795年)、坂上田村麻呂将軍が東征の際、この海の西岸の船岡山(現在の半田山)に到着した。日々を経て、城飼郡の潮海寺(静岡県菊川市の潮海寺)の薬師菩薩の霊が現れ、将軍はここに御在所を建てた。東夷の輩を成敗して軍勢が山名郡に帰った時、逆風がしきりに吹いて海が荒れた。再び薬師菩薩が現れると、風は止み浪も穏やかになり、船岡山に無事到着した。そこへ美女がやって来て仕えたいと言上した。将軍は怪しみながらも女を召し入れた。

延暦15年、女は妊娠したので産屋を造るよう願い出て、出来上がった産屋の中に入ったが、中を見ないように言った。将軍は怪しいと思って中を覗き見た。すると女は大蛇と化していて、子を産んでいた。大蛇は、自分の本性を見せるのは恥ずかしい、将軍はこの子を育てて頂き私は子を守る神になろう。私はこの海の三千歳を経た主であると言って、一個の玉を子に授けて海中に身を隠した。

将軍は子供を育て、都に復命した。その後東夷がまた背いたので将軍と子の俊光に東夷を討てとの命が下った。あら玉の郷に着くと海が荒れたので、俊光は母から授けられた珠を海に投げた。すると潮はたちまち涸れ陸地となった。大蛇は水沫うずまく今洲の淵(浜松市天竜区二俣町鹿島付近の天竜川)に身を隠した。

故に淵上に二つの社を建てた。一社は父神田村麻呂、一社は母神闇龗神(くらおかみのかみ)。今神主が祀る椎河大明神(浜松市天竜区二俣町鹿島1-14の椎ケ脇神社)がこれである。珠の沈んだところを有玉と言う。珠は夜光った。そのところに有珠の社を建てた。今の有玉村八幡宮(有玉神社)がこれである。潮を干した珠にちなんで御子を尊び俊光の霊社(浜松市東区有玉西町285の旧俊光将軍社跡)を建てた。赤蛇の住んだところを赤池と言う。敷知郡上嶋村の赤池がこれである。そこに寺を建て、赤池山光福寺(浜松市中区上島7-14-50の白華寺)と号す。

上記を読んだ限りでは、船岡山や有玉の一帯はほとんど坂上田村麻呂と赤蛇伝説一色のようです。龍や蛇の伝説に珠は付き物で、それが有玉の地名になったのも理解はできますが、秦氏に関係する話が少なそうにも思えてきます。また船岡山や有玉は浜松市の中央部に当たる東区ですが、椎河大明神は現在の椎ケ脇神社で浜松市の北に当たる天竜区に属しており、赤蛇伝説が二つの異なる地区に存在していると理解されます。

女が妊娠したので産屋を造り、それを田村麻呂が覗いたら、女は大蛇と化し子を産んでいた云々の部分は、記紀神話の豊玉姫と山幸彦の話を流用しています。その概略は以下のようなものです。

豊玉姫は産屋に入って出産する際、山幸彦に「私が出産するときは見ないでください」と請いました。けれども山幸彦は我慢できず、ひそかに盗み見ます。豊玉姫は出産の時に本来の姿である竜となっていました。自分の姿を見られた豊玉姫は恥じて、子を草で包み海辺に捨て、海途を閉じて立ち去ります。

神話を流用するとはちょっと首を傾げてしまいますが、赤蛇伝説に登場する神社やお寺は後の回で見ていくことにして、何とか秦氏に関係しそうな話を掘り起こしていきましょう。

有玉神社に関して、往古は旧有玉畑屋村本祠山にあって、社殿は東面し朝日を受け麓に鳥居があつたものの、古天龍鹿玉川の洪水で坂路大に崩れ登ることが困難となりこれを南側に改めたと伝えられているそうです。明治40年本祠山の神明宮を同村字宮廻、村社八幡宮境内(現在地)へ移転合祀した上郷社有玉神社と改称し、旧地には現在は小祠将軍社の跡が残されているだけとのこと。

上記のように、有玉神社はかつて旧有玉畑屋村本祠山に鎮座していました。さてそこで、旧有玉畑屋村の「畑屋」の地名が気になります。「遠江国風土記伝」のデジタル版を見ると、同じコマ番号93に「畑屋 本字幡屋 昔神服部之處」とありました。ここで言う「神服部」の神は多分美称で、以前に書いた初衣生神社の神服部氏とは直接の関係がないと推定されます。

それはさて置き、幡屋は秦屋かもしれないし、そうでないとしても有玉南町辺りと推定される畑屋は秦氏の半田町の南隣に位置し、そこが「遠江国風土記伝」の記述通り服部氏の居住地であるなら、秦氏と服部氏は密接な関係があったと理解されます。さらに、服部氏は秦氏の遠江国行きに同行していたと言う酔石亭主の推論を補強する材料にもなりそうです。

既にご存知のように、有玉神社は有玉村の12社が一つに集約されたものなので、どの神社が元の朝日波多加神社だったのか判定はできません。けれども、有玉に畑屋の地名があり、昔は神服部の居住地だったことから、有玉神社に合祀された内の一社が朝日波多加神社だった可能性はより高くなってきました。

朝日波多加神社の候補として最有力と思われた六所神社と有玉神社には一定程度の可能性がある。けれども、決定的な証拠を見出すには至らないと纏めておきます。残る可能性は内野の神明宮ですが、前回でも書いたようにこちらは赤蛇伝説関連の各所を見てからアップする予定です。

続いて、旧有玉畑屋村本祠山(旧俊光将軍社跡)を見に行きます。鎮座地は浜松市東区有玉西町285。



位置を示すグーグル地図画像。

DSCN0504_convert_20181129071756.jpg
俊光将軍社跡。建物左手の木が立っているところです。

何と驚いたことに、赤蛇伝説において重要な跡地にはラブホが建っていました。「BEN・HUR」とあります。その左手横に身を小さくするような形で旧俊光将軍社が鎮座しています。ひょっとしたら、この場所で坂上田村麻呂と赤蛇は愛を交わし子供の俊光ができたので、それを示すようにラブホの建築が許可されたのかも…。なんてことは有り得ませんね。

DSCN0505_convert_20181129071905.jpg
祠です。右側と背後はラブホの壁でした。いくら何でも酷いですね。

さて、半田町や半田山の半田は既に書いたように、秦氏地名です。にもかかわらず、現在の半田町に秦姓は見られず、(目秦姓が一件)その南に位置する有玉の各町には秦姓のみならず服部姓もいないのは不可解です。一方、お隣の東三河は豊橋市や豊川市に秦氏の痕跡が残り、また秦姓も一定の集中度を示していました。この違いには必ず何らか意味や理由があるはずです。

半田町や有玉の各町になぜ秦姓が存在しないのか?例えば、彼らは浜松にやって来て一定期間を過ごし、その後、出身地に帰還してしまったと仮定すれば筋は通ってくるでしょう。この仮定が正しいとした場合、なぜ彼らは帰還してしまったのか、その理由を明確にする必要があります。これらは厄介な謎であり、現時点での解明は困難なので、後の回における検討事項としておきます。

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