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浜松の秦氏 その28


今回は644年における秦氏の動きを別の例から検討してみます。想定されるのは、蜂子皇子の伝説です。この人物に関する具体的内容は以下Wikipediaより引用します。

蜂子皇子(はちこのおうじ、波知乃子王、欽明天皇23年?(562年?) - 舒明天皇13年10月20日?(641年11月28日?))は飛鳥時代の皇族。崇峻天皇の第三皇子。
欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。

聖徳太子に匿われた(とされる)場所は蜂子皇子の名前から蜂岡寺(広隆寺の前身)になりそうです。などと期待したのですが、蜂岡寺の創建は602年或いは622年。どちらの説でも崇峻天皇暗殺の592年にはお寺はまだなかったことになります。全体のストーリー自体は蘇我入鹿の乱と酷似しているものの、残念ながら一時代前の話でした。ところがです。「上宮記下巻注云」には以下の記載がありました。

長谷部王 娶大伴奴加之古連女子名古氐古郎女生兒 波知乃古王 錦代王 二王也

長谷部王は大伴奴加之古連(おおとものぬかてこのむらじ)の娘である古氐古郎女(こてこのいらつめ)を娶り、波知乃古王(はちのこのおう)と錦代王の二王が生まれた。

長谷部王は聖徳太子の子で、その子供が波知乃古王(=蜂子皇子)とあります。これなら、644年における秦氏の動きと充分対応し得る年代になりそうです。一方、上記のWiki記事とも対応する以下の記述が「日本書紀」にありました。

崇峻天皇元年春三月。立大伴糠手連女小手子為妃。是生蜂子皇子与錦代皇女。

崇峻天皇元年(588年)春三月。大伴糠手連(おおとものぬかてのむらじ)の娘である小手子を妃とする。これにより蜂子皇子と錦代皇女が生まれた。

「上宮記下巻注云」と「日本書紀」の記事内容は全く同じですが、前者は聖徳太子の子である長谷部王の話となり、後者は崇峻天皇の名前となっています。何とも不可解ですね。一体どちらが正しいのでしょう?理解を深めるためまず関係者の生没年代を以下に書き出します。

欽明天皇:509年~571年
崇峻天皇:553年(推定)~592年(注:記紀に生誕年の記載ない。553年から559年の間辺りと推定される)
聖徳太子:574年~622年
長谷部王:594年(推定)~628年

没年齢で崇峻天皇と長谷部王の間には36年もの時代差があるのに、なぜこんな混同が起きたのか理解に苦しみます。一般的には、崇峻天皇の即位前の名は泊瀬部皇子(泊瀬部=長谷部)だったので、「上宮記」の作者が混同してしまい、聖徳太子の子供の長谷部王に崇峻天皇の妻や子に関する話を接続させてしまったと見られているようです。

けれども、「上宮記」の成立は記紀よりも古いとの見解もあり、「日本書紀」の編者が何らかの意図に基づき聖徳太子の孫の話を崇峻天皇に接続させてしまった可能性もないとは言えません。例えば、聖徳太子の孫が生きていたら当時の皇統に悪影響があるので、何の事績もない崇峻天皇の子供に置き換えてしまった等々…。その一例を以下に挙げます。

マグダラのマリアがキリストと結婚しており、その子孫が現在も生きていたらどうなるでしょう?キリストの後継者ペトロから代々跡を継ぎ、ローマ教皇(法王)を頂点として全世界に12億人以上の信徒を有するカトリック教会の正当性と権威が根底から崩れ去ると言う大問題が発生します。よってマリアとキリストの子孫は存在してはならない。小説や映画の「ダ・ヴィンチ・コード」はその辺りの問題も取り上げています。聖徳太子の孫も同様に、この世にあってはならない存在だったのでしょう。

では、「上宮記」は本当に記紀より古いのか?「上宮記」の成立はもっと後との見解もありますが、「上宮聖徳法王帝説」も記紀より古いとされ、聖徳太子の子供に関して「「上宮記」の内容を誤記しているように見えます。具体的には以下。

上宮記
舂米女王、己乃斯重王(長谷部王)、久波侈女王、波等利女王、三枝王、兄伊等斯古王、弟麻里呂古王、次馬屋古女王 合七王也

上宮聖徳法王帝説
舂米女王、泊瀬王(長谷王)、久波太女王、波止利女王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王、
馬屋古女王 已上八人

「上宮記」では三枝王は明らかに三人の王を意味し、その内訳を記しているので合計7王となっているのに対し、「上宮聖徳法王帝説」は三枝王を一人の王とカウントして合計8人としているので、「上宮聖徳法王帝説」が「上宮記」を誤記した、従って「上宮記」の方が古いと推論されます。これで「上宮記」が「日本書紀」より古い可能性も見えてきました。その前提で考えれば、「日本書紀」が「上宮記」の記述を何らかの理由・事情により意図的に崇峻天皇の時代に繰り上げ繋げてしまったとも言えそうです。

ただ、聖徳太子の孫が生きていたら当時の皇統に悪影響があるのは蘇我氏であって、「日本書紀」の編者ではありません。蘇我氏自身が当時書き継がれていた史書で、長谷部王の子を崇峻天皇の子にすげ替える捏造をしたとも考えられます。「日本書紀」の編者はこの捏造に気が付かずそのまま崇峻天皇の子として記載したのでしょう。けれども、後代になって「日本書紀」と「上宮記」の隠せない矛盾に首を傾げた歴史家が出てくるはずです。

と言うことで調べてみると、「扶桑略記」(1094年編纂)や「神皇正統記」など後代の史書が、崩御年592年からすると30歳代で亡くなったはずの崇峻天皇の年齢を72歳にしていると判明しました。崇峻天皇は欽明天皇の子なので、仮に崇峻天皇が592年に72歳で崩御したのなら、欽明天皇が即位前である12歳頃の子供となってしまい、継体天皇の15年(521年)に当たることになってしまいます。12才なら生殖の可能性はあるものの、崇峻天皇は欽明天皇の第12子とされているので実際的には有り得ないとすべきでしょう。

「扶桑略記」は以下のコマ番号254を参照ください。年六十七即位。明年を以って元年と為す。とあり、没年が5年なので72歳となります。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991096/233

一方長谷部王の死去年が推古天皇36年(628年)なので、後代の史書は崇峻天皇の年齢に長谷部王の年齢をプラスして算定した様にも見えてしまいます。その上で、崇峻天皇の崩御年を628年にすると後の時代との辻褄が合わなくなる恐れもあり、崩御年を592年のままとして生誕年を後ろに下げたとも考えられます。

各史書の編者は長谷部王の子が蜂子皇子だと理解していたので、天皇としての実態が薄い崇峻天皇に合体する形で寿命を引き延ばしたのだとすれば、苦し紛れに近い説明ではありますが、蜂子皇子は長谷部王の子とすべきではないかと思います。と言うか、他に崇峻天皇の寿命を72歳とする説明が付かないのです。また崇峻天皇は没後の殯宮儀礼も執行されず、即日埋葬されていることから、本当に天皇だったのか疑問もあり、捏造や長谷部王との合体を施しやすい人物であったと思われます。

事実関係が上記の推論通りであれば、蜂子皇子も644年に秦氏の保護下で避難した人物とすべきでしょう。秦氏は中央の混乱を避けるため、東に西に、そして北にまで、聖徳太子の孫を保護しつつ緊急避難行動に出たことになります。644年が秦氏にとっていかに重要で緊迫感溢れる年であったかがこれらから見て取れますね。

さらに気になるのは蜂子皇子の母である小手子です。この女性に関しては次回(来年)で取り上げる予定です。

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