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浜松の秦氏 その31

浜松の秦氏
01 /04 2019

今回は羽鳥八幡神社を見ていきます。鎮座地は浜松市東区豊町2174。位置関係は前回の地図画像を参照ください。

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公会堂の表示板。

羽鳥と豊はいずれも秦氏に関係しそうな名前です。羽鳥が本来機織(服部氏)に関係する名前なのに、秦氏地名と言えるのは、秦氏と服部氏が一体的に活動していたからでしょう。

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羽鳥八幡神社の鳥居と細長い参道。

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拝殿です。

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本殿。

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解説石板。画像サイズを大きくしています。

創建は不詳とあり、その次は江戸時代に飛んでいますので、古代の様子はわかりません。「浜松市史」で羽鳥庄をチェックしてみたところ、以下のような内容となっていました。

永暦のころ(一一六〇)、後白河上皇の御願により、熊野社を模して京都に建てられた新熊野社に寄進された多くの諸国荘園の中に、遠江国羽鳥庄の名がみえる。これは市の東端、笠井の東にいまも羽鳥の地名を存するところで、服織神社がある地にほかならない。

平安末期の話となっていますが、羽鳥の地名は1160年よりずっと以前から存在していたものでしょう。貴平も羽鳥庄の中の郷だったようです。他にも秦氏関連の場所はあるでしょうが、中心的な場所はほぼ検討し終わったと言ってもよさそうです。不思議に思えるのは、お隣の東三河に秦氏の痕跡があり、現在も豊橋市と豊川市に秦姓が集中している現実があるのに、当地域では秦姓も服部姓も非常に少ない点です。

既に書いたように秦姓は浜松市東区で8件が最も多く、中野町に4件ありましたが、実質は3件(同じ方が二つの電話番号を持っている)で集中度が小さいし、一帯が松尾大社の社領となった1171年の池田庄立券文に関係している可能性があり、古代の話ではなくなります。

では、遠江国と三河国における秦氏の違いは何なのでしょう?考えてみれば、遠江国の場合入鹿の乱からの一時的な避難でした。645年には入鹿が暗殺されて中央の政治情勢は安定します。遠江国に入った秦氏と服部氏は地元民に機織の技術を教えるため、一定期間は当地に留まった。けれども、それ以降は自分たちの拠点地域に戻ったと推定されます。秦氏と服部氏が当地にいない理由は他に考えられません。

静岡県においては、馬込川(古代の天竜川)、大井川、安倍川、富士川の各流域に秦氏の痕跡が見られるのに、それら地域の秦姓は数人程度で、静岡県の全体数でも少なく54件でした。(注:静岡市葵区は7件とやや多い)神奈川県の大磯も同様に数人程度しかいません。想定される理由は入鹿の乱を避けるため秦氏一行は東国に避難したが、中央の政情が安定したため一定期間の後、自分たちの拠点地域に戻ったからとなります。この仮説はある程度説得力があると思うのですが、いかがなものでしょう?次回は上記の「浜松市史」にも書かれている服織神社を訪問します。

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酔石亭主

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