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浜松の秦氏 その33


服織神社の由緒によれば同社の創建は708年となりますが、実際には秦氏と服部氏が当地に入った644年より少し後程度のタイミングだったと推定されます。前回で書いたように、遠江国に入った秦氏と服部氏は地元民に機織の技術を教え、一定期間は当地に留まりました。けれども、それ以降は自分たちの拠点地域に戻ったと推定されます。当地に秦姓と服部姓が少ないのは、ここに理由があります。

服織神社自体は708年時点でも存在していたが、奉斎氏族である秦氏と服部氏は既に帰還し、この地にはいなかった。ではなぜ、708年に出雲から勧請したのか?それを推理するには、この年の持つ意味を多方面から考える必要があるでしょう。と言うことで、708年頃の出雲に関連する状況を見ていきます。少し長くなりそうですがご容赦ください。

最初に取り上げるのは、京都府亀岡市に鎮座する出雲大神宮です。同社の社伝には、「元明天皇和銅年中(708年~715年)、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」との記述があるそうで、内容は「丹波国風土記」に書かれたものだそうです。ここから、708年は出雲大社社殿の築造(造営)を開始した年だった可能性が出てきます。実に興味深い話ですが、確認できない史料を元にした推測では確たることは言えません。

他の史料に、出雲大社が708年~715年頃創建されたと推測できる記事でもあれば、出雲大神宮の由緒にも一定の信憑性が出てきます。そうした視点からあれこれチェックしたところ、幾つかの面白い記事や情報が見つかりました。

伊勢神宮下宮と平城京内裏跡、現在の出雲大社を結ぶラインは、旧暦の正月に伊勢神宮の東から太陽が昇るラインとなります。そして、平城京遷都の詔が発せられた年も708年でした。まだ確証はありませんが、平城京遷都と出雲大社の造営はリンクしていたのではないかとも推測されます。

「続日本紀」によれば、708年に忌部宿禰子首が出雲国司に任じられています。忌部氏は朝廷の祭祀や宮殿造営を担った氏族とされており、その地位は後に中臣氏に取って代わられました。忌部宿禰子首の708年における出雲国司就任は出雲大社創建に連動しているかもしれず、仮にそうだとすれば極めて重要な人物と思われるので、もう少し見ていきましょう。

「日本書紀」の天武天皇10年(682年)3月条によると、天皇が大極殿にて帝紀と上古の諸事を記し定めることを命じています。命じられた皇族や官人の中に、小錦中忌部連首の名があります。さらに大嶋、子首が自ら筆を執って録した。と書かれています。この小錦中忌部首や子首が忌部宿禰子首と推定されるので、彼は国史編纂事業にも深く関与していたことになり、記紀における出雲の国譲り神話も彼の筆による可能性が高くなります。

忌部氏は神を祀る祭祀に知見があり、宮殿造営も担える氏族で、忌部宿禰子首は国史編纂事業や記紀の出雲神話作成に関与していたとすれば、忌部宿禰子首の持つ全ての技能・職掌は出雲大社の創建に必要不可欠なものであることを示しています。忌部宿禰子首は716年まで出雲国司の地位に留まり、次の国司として船連秦勝が就任しています。

こんなところで秦氏らしき人物が登場するのも面白いですが、ポイントはそこではありません。律令制以降の国司の任期は4年のはずなのに、忌部宿禰子首の場合はその倍と言う異例の長さ(708年~716年)となっていました。なぜ彼は長きにわたり出雲国司の地位に留まったのか?その長さに深い意味や理由がありそうです。

さらに「系図集覧」によれば、708年に出雲臣果安が出雲国造に任じられています。国司と国造が出雲においては並立しているように見えますが、政治的な実権は国司にあり、出雲国造(出雲臣)はその特別な地位から国造を称することが許されたものです。(注:出雲国造は現在の出雲大社宮司家)

国造系譜の26代国造果安臣脇注には「伝に云う、始祖天穂日命齊を大庭に於いて開き、此に至り、始めて杵築之地に移る」とあり、「続日本紀」の霊亀2年(716年)2月に書かれた内容と一致しています。この記事は、天穂日命の子孫を称する出雲国造家が、本拠地である意宇平野の大庭(注:現在の松江市大庭町一帯と推定され、大庭は祭祀の場所を意味する)を果安の時代の716年になって初めて離れ、杵築(出雲大社鎮座地)に移ったという内容です。いかがでしょう。708年から716年までにおける忌部宿禰子首と果安の動きに連動性があるように思えませんか?

出雲国造が朝廷に参向して「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)」を奏上する記事の初見も716年で、果安による奏上となります。出雲国造神賀詞は、新任の出雲国造が天皇に対して奏上する寿詞で、天穂日命が、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島国の現つ事・顕し事事避さしめき。と書かれています。

主旨は、出雲国造の大祖である天穂日命が大国主命を鎮め、大八嶋国の現世の政治から身を引かせた、と言ったところです。これは古くからいた出雲の大豪族(大国主命として祀られた一族)を果安の先祖が駆逐、謀殺し、実権を握ったと言う意味なのでしょう。仮に陰謀で一族の主を殺害したとしたら、祟り神となる恐れもあるので、果安としては丁重に祀る必要があったのです。

ここまでで708年と716年に幾つもの記事が集中すると確認されました。その背後には必ず何らかの重要事項が隠されているはずです。出雲国造神賀詞の詳細は以下を参照ください。天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉なども述べられています。
http://www.ookuninushiden.com/newpage22.html

そして「系図集覧」に「斎竟奏神賀詞至于始而移杵築之地」とあることから、果安は出雲国造神賀詞の奏上後に帰国して、松江市大庭町の国造居館を離れ、杵築に移ったことになります。国造居館のすぐ近くには神魂神社があり、以下の由緒となっています。

当社は出雲国造の大祖天穂日命がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、以来天穂日命の子孫が出雲国造として二十五代まで奉仕され、大社移住後も「神火相続式」「古伝新嘗祭」奉仕のため参向されている。

二十五代まで奉仕され、大社移住後も、」と書かれた部分が重要です。なぜなら、次の26代国造が果安臣に当たり、新たに創建された出雲大社の祭祀のため彼が杵築に移住したと確認できるからです。これでかなり筋道が見えてきましたね。

出雲大神宮の社伝では出雲大社の創建は708年~715年の間頃。708年に平城京遷都の詔があり、同年に果安が出雲国造に任じられ、また朝廷の祭祀や宮殿造営を担う忌部氏の忌部宿禰子首が出雲国司となり、716年になって果安は初めて朝廷に参向して「出雲国造神賀詞」を奏上し、その後に杵築に移りました。従って、出雲大社の造営は708年に始まり716年に竣工したと考えられます。

ここまでに書いた内容から、朝廷は平城京遷都を機に出雲国造から出雲国における政治権力を奪い取ろうとした可能性が浮上してきます。もちろんそれには出雲側の強い抵抗もあったでしょう。次回は出雲側の抵抗に対する朝廷側の対処を見ていきます。
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