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浜松の秦氏 その34


出雲側の抵抗を受け、彼らとの交渉に当たったのが忌部宿禰子首でした。彼は、言うことを聞いてくれれば国造の称号は与え続けるし、類例のない巨大な神殿も建ててやる、出雲国造が代替わりする毎に朝廷に参向して、「出雲国造神賀詞」を奏上できるよう特別に計らってやる、などと懐柔策を次々に繰り出したのでしょう。そうした交渉が可能なのは、様々な祭祀や宮殿造営を担える忌部氏の忌部宿禰子首以外に有り得ません。

これはあくまで推測ですが、朝廷の国史編纂事業に関与していた忌部宿禰子首は、記紀において(特に「古事記」)出雲の存在を神話的ではあるが異例の長さで取り入れてやる、とも言ったように思えます。但し、記紀において天穂日命は葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされましたが、大国主神に国を譲れと説得すべきはずが逆に心服してしまい、3年間も高天原に戻らず、任務を果たさないまま敵方に付いた神として低い評価を与えられています。

一方「出雲国造神賀詞」の内容は記紀とは真逆で、天穂日命は大国主命を鎮め、大八嶋国の現世の政治から身を引かせた、と言った趣旨で書いています。記紀では任務を果たせないどころか敵方に付いたような書かれ方なのに、「出雲国造神賀詞」では出雲国造が就任する度に、遠祖の天穂日命がきちんと任務を果たしたと天皇に奏上できるのですから、その栄誉と現実を踏まえれば国造家としても妥協せざるを得なくなります。これも柔軟性とバランス感覚に優れた忌部宿禰子首の交渉戦略だったのでしょう。

以上のように、朝廷の意志に基づきながらも、出雲国造家に配慮を怠らなかった忌部宿禰子首の粘り強い交渉の結果、出雲国において祭政の両面を支配していた出雲国造家は政の部分の権限を朝廷に差し出します。

二人の交渉決着を受け類例を見ない巨大な社殿造営が杵築で始まりました。その難工事を完遂するには長い年月がかかったはずで、忌部宿禰子首が716年まで異例とも言える長期間国司に留まったのは、出雲大社の完成を見届ける必要があったからと理解されます。716年に果安が国造居館を離れて杵築に移ったのは、出雲大社が竣工したからだとすれば、ピタリと話の筋が通ってきます。

以上を総合すると、朝廷は708年頃出雲国造家の現世における政治権力を取り上げ、その見返りに(と同時に国造家を杵築に移させるために)、出雲大社築造が始まり、716年になってようやく竣工したことになります。716年以降も出雲国造家は国造の称号を許されますが、現世の政治には関与できず、出雲大社の祭祀に専念させられる結果となったのです。(注:出雲国造家は706年に意宇郡の大領に補任されていますので、一地方の行政は管轄できている)

さてそこで、記紀に記載された大国主命の国譲りを見ていきましょう。もちろんこれは神代の時代における話となっています。「日本書紀」では、高皇産霊尊が大己貴命(大国主命)に、「汝が治める現世の政治は皇孫が治め、汝は神事のみを治めるべきである。汝の住処となる天日隅宮(あめのひすみのみや)を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と言ったとあります。天日隅宮は出雲大社を意味します。

神代の昔に出雲大社など存在しないのに、なぜ高皇産霊尊は大己貴命にそんなことを言ったのでしょう?「新撰姓氏録 右京神別上」には、斎部宿禰、高皇産霊尊の子、天太玉命の後なり。とあります。そして忌部宿禰は後に斎部宿禰姓を称しています。よってこの場合の高皇産霊尊とは、その子孫である忌部宿禰子首を意味しています。天穂日命に祀らせようとは、その子孫である出雲国造家に大己貴命を祀らせようと言う意味で、ここに書かれているのは出雲国司・忌部宿禰子首と出雲国造・果安臣の交渉内容そのものであったと理解されます。

「古事記」には大国主神が国を譲る条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と言い、これに従って出雲の多芸志(たぎし)の浜に天之御舎(あめのみあらか)を造ったとあります。

いかがでしょう?神代のはずのこれらの話は、出雲国造家が708年に出雲国における現世の政治を皇孫(の意を受けて中央から派遣された出雲国司)に譲り、その見返りとして出雲大社の造営が始まり、竣工した716年に天穂日命の子孫となる果安が杵築(現在の出雲大社所在地)に移って、同社の祭祀権(神事)を与えられた事実を神話として語ったものだと思えませんか?出雲大社の造営が708年に始まった以上、このように理解するしかないのです。

そう、神代の話のはずだった大国主命の国譲りは、その実態を見ると出雲国造家が同国における政治権力を失い、新たに創建された出雲大社において祭祀のみが許された状況を神話的に書いたものだったのです。(注:意宇郡の行政権はなおも維持している)遠い神代の出来事が708年から716年における現実を反映した話に過ぎなかったとは、ただ驚くしかありません。

これに対して、「古事記」の成立が712年となるので、出雲大社が竣工する716年より早い段階で天之御舎(出雲大社)を造ったとする記事が出るはずがないとの見方もあるでしょう。けれども、708年段階(或いはそれ以前)で忌部宿禰子首と果安が出雲神話の構想(とそれに対応した現実)を協議していたとしても不思議ではないので、特に問題はないと思われます。

また「日本書紀」の斉明天皇5年(659)に「出雲国造修厳神之宮」と言った記事が出ています。これは出雲国造に厳神の宮をつくらせた、との意味で熊野大社を指していると考えられ、出雲大社ではありません。(注:どちらを指すかは研究者の間で議論があります)

上記した一連の出来事の背景には、701年に大宝律令が制定され、神祇制度も皇祖神天照大神を頂点として構築されていった事実があります。日本における神様はこの時点で国家の統治システムの中に組み込まれてしまい、出雲もその例外たり得なかったのです。

問題は、酔石亭主の視点だと抜け落ちる部分が出てくることです。それが大国主命であり、どうしたらこの神を一定の現実と時代の中の落とし込めるのか、実に悩ましく感じられました。何とかしたいと思っても、現地調査はしておらず知識面でも不十分な現状では全く手に負えません。それに加えて出雲の場合、大国主命以外にも素戔嗚尊や出雲神族、馴染みのない神門家や向家(富家)などまで俎上に載せる必要がありそうです。まあ、将来の検討課題と言うことで逃げを打たせてもらい、その後の出雲国造家に関してもう少し見ていきましょう。

出雲国造家も700年代の終わりになると、利権が大幅に縮小した境遇から逃れたかったのか、言を神事に寄せ意宇郡大領(郡司)としての仕事を怠り、私利ばかりを求め、公務に害を齎したとして、798年に国造家の大領兼職を解任されました。これは太政官符(だいじょうかんぷ)に書かれたもので、太政官符とは、日本の律令制のもとで太政官(司法・行政・立法を司る最高国家機関)が管轄下の諸官庁・諸国衙へ発令した正式な公文書であり、天皇の裁可か国政の枢要を担う太政官会議での決定を受けて発給されるものです。

また同年には、国造が神主に新任されると本妻を棄て、多数の百姓の女子を集め神官采女と称するが、その実は妾にしているので、そうした淫風を禁止し今後一夜妻は国司が占って定める女子一人だけに限るとする太政官符が出ています。詳細は「類聚三代格」(神宮司神主祢宜事)・延暦17年(798年)10月11日の官符にあり内容は以下となります。

太政官符
禁下出雲国造託二神事一多娶二百姓女子一為上レ妾事
右被二右大臣宣一偁。奉レ勅。今聞。承前国造兼二-帯神主一。新任之日即棄二嫡妻一。仍多娶二百姓女子一号為二神宮采女一。便娶為レ妾。莫レ知二限極一。此レ是妄託二神事一。遂扇二淫風一。神道益レ世豈其然乎。自レ今以後不レ得二更然一。若娶レ妾供二神事一不レ得巳レ者。宜レ令下二国司一注レ名密封卜中-定一女上。不レ得二多点一。如違二此制一。随レ事科処。筑前国宗像神主准レ此。
延暦十七年十月十一日

太政官符は上記のように国家の最高レベルから発給される公文書であり、極めて重いものです。そんな文書に淫風がどうのこうのなどと書かれるのですから、出雲国造家は大恥をかいたことになりそうです。

こうした行為は各地の神社にもあったようですが、出雲大社のような巨大神社ならともかく、他の一般的な神社までは当然朝廷も目は届きません。けれども、民話の形で何が行われたかを知ることができます。よく白羽の矢(しらはのや)が立つと言います。これは生贄を求める神が、その対象となる村人の家の屋根に白羽の矢を立て、娘を人身御供に出させる目印にしたと言うものです。弱い村人は泣く泣く娘を差し出すしかありませんでした。生贄を求めるのはもうおわかりのように神ではなく、当該地域に鎮座する神社の神主となります。

酷い目に遭った村人たちの悲哀は、狒々(ひひ)に毎年人身御供を出さなければならない民話の形で今に伝えられています。これらは出雲大社と全く同様・同類の話で、出雲大社の場合は朝廷からの指示でありそのまま事実が文書として残されました。けれども、地方の村人がそんな文書を残すのは神社との力関係からして不可能です。

神社の神主や出張してきた官僚に村一番の娘を提供せざるを得なかった村人たちは、事実を語ることさえ許されません。彼らにできる唯一の方策は、神社や役人の横暴を狒々に仮託し、民話として語り伝えることだったのです。浜松周辺には幾つかの人身御供民話が残り、その代表例に静岡県周智郡森町一宮3956-1に鎮座する小國神社があります。詳細は次回にて…。
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