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浜松の秦氏 その35


今回は人身御供の話が伝えられる遠江国一宮の小國神社(鎮座地:静岡県周智郡森町一宮)を見ていきます。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

こんな山の中に遠江国の一宮があるとは驚きです。残念ながら小國神社まで足を伸ばすことができなかったので、詳細は以下のホームページを参照ください。非常に麗々しく詳しいものになっています。祭神・由緒は以下の通りです。
http://www.okunijinja.or.jp/beliefs/

祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)
由緒:
創祀は神代と伝えられ上代の事で詳らかではありませんが、延宝8年(1680)の社記によると、人皇第29代欽明天皇の御代16年(555)2月18日に本宮峯(本宮山)に御神霊が鎮斎せられました。後に、都より勅使が差遺せられ、山麓約6kmの現在地に社殿を造営し、正一位の神階を授けられました。 それ以来、年々奉幣に預り勅使が下向され、文武天皇大宝元年(701)春18日に勅使奉幣の際、特に十二段の舞楽を奉奏されました。 延喜7年(907)の延喜式では式内社に列せられ、中世には武将をはじめ朝野の崇敬が極めて篤く近世に至りました。

非常に古くからの由緒を持つ神社だと理解されます。もちろんホームページのどこを見ても、人身御供の話などありません。太政官符にまで書かれてしまった出雲大社でもそんな話は表沙汰にしないのですから当然です。それを探るには既に書いたように民話から拾い出すしかなさそうで、調べてみるとありました。内容は大略以下の通りです。

当地に流れ着いた新右衛門が一宮の宮代新津に移り住み、近所の神麻家の娘を娶り子供にも恵まれた。宮代は一宮小國大明神のお膝元で、毎年お宮へ人身御供の19の娘を出さなければならなかった。今年は、新右衛門の娘がこれに当たり、親子揃って泣き暮らしていた。お宮には19の娘を喰う狒々(しょうじょう)が出るそうで、当った親御は辛い思いをしていたところ、侍がやって来て、代わりに狒々を退治してやると言って狒々を切り殺した。

民話の詳細は以下を参照ください。
http://www.chuen.net/mukashi/mukashi_025.html

民話には神麻家と狒々が出てきます。そして毎年お宮(小國神社)に人身御供として19歳の娘を差し出さなければならなかったのです。狒々の生贄としてお宮に娘を差し出すとは、小國神社に娘を人身御供(神への生贄)として供することを意味しています。出雲大社と全く同じようなパターンだと理解されますね。

村人から調達した娘は巫女にされた上で神主に供され、また勅使や役人が神社に来た際の接待役にされたと思われます。言うまでもなく、これらには性的な意味が含まれます。あまりにも理不尽な行為を強いられるのですから、当然娘たちには強い抵抗感があったでしょう。そうした抵抗感を取り除き、陶酔状態にするために大麻が使われました。

上記の民話においては神麻家とありますが、神麻とは神様の大麻草を意味していると思われます。そして小國神社には神麻久(現在の名は「新まっく」で、なんだか新しいハンバーガーのように思えてしまいます)と言う巫女舞(注:現在は子供が舞う)が伝わっています。これは神楽で十二段舞楽の第六番となっていました。従って、舞楽「神麻久」の本質は大麻の作用によって神憑り状態・性的興奮状態となった巫女の舞でしょう。宮代の新右衛門が神麻家の娘を娶った以上、二人の間に出来た娘は当然巫女として神社に供せざるを得なくなったのです。

「新まっく」に関しては同社ホームページに、「当神社では古くは「神麻久」と言い、舞人は子供4人で樺色の布衣を着けて笏を持って舞います。」と書かれていました。この舞楽の名称こそが、かつて小國神社に人身御供があったことの痕跡になるでしょう。「神麻久」やその他の舞楽の詳細は以下を参照ください。
http://www.okunijinja.or.jp/beliefs/

続いてもう一か所の人身御供伝説を見ていきます。伝説があるのは磐田市見付1114-2に鎮座する「見付天神 矢奈比賣神社」です。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

同社の場合、公式サイトに詳しく人身御供の話が出ています。ストーリーの始まりは小國神社とほぼ同じですが、後になって変わってきます。最初の部分は以下の通りです。

見付天神裸祭は、腰蓑を着けた男達によって毎年盛大に行われています。しかしながら、昔は泣き祭りといって、人身御供(ひとみごくう)が行われていたと伝えられています。遠い昔のお話です。見付の里では、毎年8月の初めになると、どこからともなく飛んで来た「白羽の矢」が、ある家の屋根に突き刺さっていました。矢を立てられた家は年番といいました。年番では、その家の娘を生きたまま柩 (ひつぎ)に入れて、8月10日の真夜中に見付天神へお供えする、悲しい「しきたり」がありました。

後半部分はかいつまんで書き出します。

毎年のように供えられた娘は怪神に食い殺されてしまいます。ある年に雲水がやって来て神社の前でそっと様子を窺うと、妖怪は信濃の国の悉平太郎(しっぺいたろう)を恐れているようでした。そこで雲水は信濃へと赴き、光前寺で飼われている犬が悉平太郎だと分かったので連れて帰り、柩の中に入れて神社の前に置きました。いつものように妖怪が現れ、悉平太郎との激しい闘いが始まります。次の日に村人が来てみると、年経た狒々(ひひ)が血まみれで巨体を横たえていたそうです。

公式サイトには詳しく書かれているので、以下を参照ください。
https://mitsuke-tenjin.com/legend.html

こちらも狒々が登場していますね。狒々爺と言う言葉がありますが、これは好色でいけすかない老人を意味します。やはり見付天神の狒々も神社の年老いた神主さんだったのでしょう。

かなり脱線したようなので、話を元に戻します。

服織神社の創建年である708年の検討が出雲大社創建に関わる謎解きにまで発展してしまいました。書く前は、こんな筋書きになるとは想像もしていなかったので、我ながら驚いています。さてそこで、服織神社にとっての708年の意味ですが、この年は出雲国造家にとって出雲国における政治権力を奪われることになった大変な年となります。

政治権力の喪失は即一族の収入減につながる問題であり、彼らは経費をかけずそれ以外の収入源を確保する必要に迫られたはず。その方策が既存のしかも奉斎氏族がいない神社の乗っ取りだったとは考えられないでしょうか?天穂日命を祀る神社を新たに創建するのと比較して、乗っ取りの場合費用もほとんどかかりません。また遠江国の国造は天穂日命の子である建比奈鳥命の子孫とされています。708年には国造制度など存在していませんが、乗っ取りを容易にする程度の影響は及ぼしていたとも考えられます。と言うことで、服織神社創建の経緯を纏めましょう。

服織神社は644年頃当地に来た秦氏と服部氏によって創建された。けれども彼らが来たのは中央の混乱を避けるための一時的避難だった。中央が安定し一定期間が過ぎた後、彼らは自分たちの本拠地に戻り、服織神社の奉斎氏族は不在となった。収入の減少に悩む出雲国造家はその隙を突いて、服織神社を取り込み主祭神も出雲系の天穂日命に取り換えようとした。遠江国造の本家本元であった出雲国造家の要求に地元民が抵抗できるはずもなく、嫌々ながら受け入れざるを得なかった。そうした経緯で、服織神社は708年に出雲から勧請されたとの由緒が成立したと考えられる。(注:もう一柱の祭神・建御名方命は大国主命の子神とされますが「日本書紀」や出雲国の伝承には登場していません。この神は諏訪大社で祀られていることから、天竜川を通じて接続するこの地に後代になってから祀られたと推定されます)

708年問題をあれこれ考えた割には、パッとしない答えしか導き出せなかったようですが、服織神社の検討は以上で終了とします。次回は秦氏や服部氏の関与が想定される蜂前神社(はちさきじんじゃ)に行ってみます。
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