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浜松の秦氏 その39

浜松の秦氏
01 /16 2019

今回は神服神社の由緒内容を検討します。まず前回でアップした同社の解説板内容を記載します。

平安時代以来の延喜式内の古社。素盞鳴命、熯之速日命、麻羅宿禰の三神を祀る。
この地和名抄にいわゆる「服部郷」で諸国の織部の部民を統括した服部連の居住地である。伝承では允恭天皇の時麻羅宿禰が織部司に任ぜられたというから八・九世紀のころ服部部民の神を勧請しあわせて民族の始祖をその本貫の地に祀ったのが創祀である。当時は「服部神」と呼ばれのち、醍醐天皇の延喜年間(10世紀初頭)神服神社と定められ現在に至っている。維新以前、神仏混交の時代には安岡寺の社僧が執務したが、明治初年これを廃し同5年には郷社に列した。また近世には農耕・養蚕の神として村民の信仰厚く、社前の鳥居は延宝6年(1678)雨乞いの祈願成就の折建立されたもの。祭礼は毎年5月5日古くは棒振りの神事があり、神輿は阿久刀神社までお渡りがあった。氏地は広く、塚脇、宮の川原、浦堂、大蔵司、西の川原を含む旧服部村一円にわたっている。

次に同社のホームページより以下引用します。

神服神社由緒略記
神服神社は延喜式内の古社で、19代允恭天皇(大和時代の西暦443年頃。仁徳天皇の第4皇子)の御世に、この付近一帯に機織りが盛んであったところから地名を服部(はとり)と呼んでおりました。服部はもともと「機織部=はとりべ」からきたもので、機織りを職とする部族の名前でした。服部連は允恭天皇から機織部司に任命され、国々の織部を総領したことにより「連」姓を賜り服部連と称しておりました。その服部連の勧請により建立されたもので「服部神」と称しておりましたが、醍醐天皇(887年~930年)の延喜年間に「神服神社」(カムハトリカミノヤシロ)と改めました。いつの頃からか「しんぷくじんじゃ」と音読みされるようになりました。御祭神は熯速日命、麻羅宿禰、素戔嗚命(牛頭天王)をお祀りしておりましたが、明治41年11月宮之川原の春日神社(天児屋根命)稲荷神社(宇賀御魂大神)を、また塚脇の上ノ宮神社(服部連公)浦堂の若宮神社(天児屋根命)大蔵司の神明神社(天照大神、豊受大神)を合祀し、お祀りするようになりました。


詳細は以下の同社ホームページを参照ください。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kamuhatori/yuisyo.htm

最後に前回でアップした服部連公の解説板を以下に掲載します。

服部連は十九代允恭天皇の治世(四四三~)諸国で機織に従事する村々を統括する責任者、織部司(おりべのつかさ)に任命され、服部連「はとりのむらじ」の姓(かばね)を賜りました。連の先祖は十五代応神天皇の治世に渡来した中国皇帝の後裔秦氏で、秦氏は朝廷に仕え灌漑治水、酒蔵、機業等、先進文明を伝え多くの功績を残しました。ここ神服神社には秦氏の氏神牛頭天王(ごずてんのう)、熯速日命(ひのはやひのみこと)、親神麻羅宿禰(まらのすくね)と服部連が祀られています。地名服部は全国各地にありますが、連(むらじ)の住まいしたのはこの地方であり、脇塚が墳墓の地「連塚(むらじづか)」になります。

上記由緒から、神服神社は機織、秦氏、服部氏(服部連)が関係し祭神も熯速日命であると確認できました。蜂前神社の場合神服神社と同一になるのは、祭神の熯速日命だけとなります。けれども浜松においては、神服神社同様機織、秦氏、服部氏の三要素が揃っていることから、熯速日命を主祭神とする蜂前神社に秦氏と服部氏の関与があっても違和感はありません。さらに同社を勧請したのが八田毛止惠で、秦氏を連想させる名前であること、同社が羽鳥大明神と称されていた点も秦氏と服部氏の関与を推定させる根拠となります。

これらの要素を踏まえれば、蜂前神社が神服神社から勧請された可能性さえ浮上してきます。それは蜂前神社の由緒に「(八田毛止惠が)本社を八ケ前に勧請して蜂前神社と斎き奉り」と書かれていることからも窺えます。由緒に書かれた「本社」が多分神服神社に相当するのでしょう。

ただ解説板によると神服神社の創祀は8、9世紀なので、蜂前神社の事実上の創建時期は800年代まで下がりそうな問題も出てきます。既に書いたように、呉織、漢織の渡来時期は雄略天皇の時代と推定され、その場合服部連が允恭天皇から機織部司に任命され、国々の織部を総領するのは難しいようにも思えてきます。神服神社の秦氏に関しても、服部連の解説板に出てくるだけで他の由緒には名前が見られません。

このように幾つかの問題点はあるものの、服部連公の解説板だけを見ると、秦氏=服部連が証明されたかのような内容となっています。とは言え、熯速日命が秦氏の氏神で麻羅宿禰が秦氏の親神かどうかは疑問もあるので、祭神に関してどう判断すべきかさらに検討を進めます。

まず両社の主祭神である熯速日命から見ていきましょう。新撰姓氏録には摂津国神別の服部連に関して、「(熯)之速日命十二世孫麻羅宿祢之後也 允恭天皇御世。任織部司。(総)領諸国織部。因号服部連」と書かれていました。神服神社の由緒内容はほぼ姓氏録の記載に沿ったものと理解されます。もちろん姓氏録の内容は服部連の自己申告をそのまま書いたものでしょうから、神服神社の由緒と姓氏録の内容が一致するのは当然の話です。問題は熯速日命が秦氏の氏神とは書かれていない点で、この見方はかなり後の時代(現代の可能性もある)に唱えられたもののようにも見受けられます。

一方大和国の服部連として、「天御中主命十一世孫天御桙命之後也」とあり、同じ服部連でも出自が異なっています。この服部連は奈良県磯城郡田原本町蔵堂に鎮座する村屋坐弥富都比売神社境内摂社・服部神社に関係し、谷川健一氏の「四天王寺の鷹」によれば、「蔵堂に属する杜屋の楽戸郷は秦姓の伎楽戸の在所であった。」とのことで、秦氏の関係地でもありました。

村屋坐弥富都比売神社に遷座する前は、同社の西2㎞の大安寺村字神来森(かきのもり)に鎮座し波登里村(はとりむら)の氏神だったとのこと。奈良の大安寺は秦氏の関与する寺であり、波登里も機織に関係し秦氏地名とも言い得るので、摂津国にせよ大和国にせよいずれも秦氏と服部氏が関係していると理解されます。

神服神社の服部連は一般的な渡来系や非渡来系の機織技術者集団ではなく、諸国の服部(呉織や漢織なども含む)を総領する立場にありました。「日本書紀」の雄略天皇15年条には、秦の民が分散され臣・連などによりほしいままに使役されている情況を嘆いて、秦造酒が天皇に訴えた。天皇は彼らを集めて酒公に賜った。酒公はこの百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を率いて庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹・縑が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜った。と言った主旨の記述が見られます。

分散されていた「秦民」とは秦氏一族なのか秦氏配下の各種職能民(百八十種勝)だったのか酔石亭主には判別できませんが、百八十種勝を率いとあることから配下の職能民を秦民と書いたようにも見受けられます。「秦民」がどちらであるにせよ、服部連は諸国の服部(呉織や漢織なども含む)を総領する立場にあった訳で、その意味では秦氏と立場を同じくしています。

服部連と秦氏が同じ立場であれば、服部連=秦氏と見做し得る必然性が出てきます。具体的には、秦氏の中で機織を管掌するグループが後世になって服部連を称したことになります。その前提で考えると、浜松に来た本流の秦氏は朝鮮半島南部から渡来した機織技術者の子孫に当たる服部氏を貴平町一帯)に配置し、諸国の服部を統括する服部連(=秦氏)を蜂前神社一帯に配置したとなります。以上から服部連は、呉織、漢織系の流れに連なる服部氏とは立場が異なります。

以前に、秦氏は二つの異なる服部を引き連れて浜松に来たと書いていますが、この点は今回の検討から一応確認できました。但し服部連=秦氏とする根拠は、服部連の解説板や秦氏の立場と服部連の立場が同じになる点のみであり、なおも確定し難い部分が残ってしまいます。服部連の由緒のように、秦氏の子孫が服部連になったとするなら、それを示す系図が必要であり、もし存在するならより確度は高くなるのでしょう。けれども、服部氏の系図は平安時代から始まるものがせいぜいで、秦氏とリンクした系図はなさそうです。

また高槻市における秦姓の数は大阪府下で6番目となりさほど多いものではなく、服部姓に関しては府下でトップとなりますが、各町内で1件程度と広く薄く分布しており旧服部郷と思われる地域でも集中はしておらず、他地域と同様の状態です。要するに、現在の高槻市においては秦氏も服部氏(服部連)も特段の存在感はない状態となっているのです。残念ながら秦氏と服部連或いは服部氏の関係は、細かく分析しようとすればするほど答えは逃げ水のように遠くなってしまいます。

まあ、微妙な面は残るもののも、服部連は一般の服部氏より秦氏との密着度が高く、少なくとも秦氏系服部連と言い得る存在であり、見方によってはそれ以上の関係と言ってもよさそうだと纏めておきましょう。今回は熯速日命を検討するはずだったのに、いつの間にか話がそれて秦氏と服部連の関係になってしまいました。次回は熯速日命をより深く見ていきます。
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酔石亭主

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