FC2ブログ

浜松の秦氏 その40


短いシリーズで終わると思っていた「浜松の秦氏」がもう40回目に到達したとは感慨深いものがあります。さて、蜂前神社の主祭神・熯速日命(ひはやひのみこと、熯之速日命の表記の場合「ひのはやひのみこと」)が神服神社の主祭神と同じ点は確認され、秦氏と同行して二系統の服部が遠江国に来たのも間違いなさそうです。とは言え、主祭神に関する本質的な疑問はなおも残っています。

熯速日命は名前、字義、その出自、また他社で焼速日命と表記されることからしても、火の属性を持つ神となるはずなのに、なぜ機織の神になっているのかと言う疑問です。この解明は大変重要なのであれこれ考えてみましょう。

服織連の解説板に従えば、彼らは秦氏を先祖とし允恭天皇の御代(注:この時代かは疑問がある)になって服部連を賜り、国々の織部を総領する極めて高い地位に就きました。そうなると、彼らも地位に見合った祖神と歴史を欲するようになります。問題は古代豪族のほとんどが既に自分たちの祖神を持っており、それらと重複しない神様を選択するしかなかった点です。彼らは本流の秦氏も交えた議論の末、熯速日命を取り上げたものと推察されます。

けれども、火の属性を持つ神を機織の神とするのは簡単な話ではないので、あれこれ知恵を絞り極めて巧妙な仕掛けを施しました。服部連が祖神を設定する際の前提条件は、できる限り古い神で何らかの仕掛けにより機織と関係し得ること。他の氏族の神と重複しない神(他氏族から文句の出る恐れのない自然神)であること。かなり苦し紛れだが、音で機織に関係できる神であること、などであったと思われ、そうした条件に唯一適合する神が熯速日命(ひはやひのみこと)だったのです。この名前の中でポイントとなるのが「熯」(ひ)の部分です。

記紀において最も古い機織神話の基本形は、天照大神(この場合の実像は機織女)が斎服屋で神衣を織っていた時、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで投げ込み、驚いた天照大神がホト(女性の陰部)を「杼」(注:杼は機織において横糸を通す道具を意味する)で突いて死に、天岩戸に隠れたと言ったものです。ここで火を意味する「熯」(ひ)と機織に関係する「杼」(ひ)が音で結び付きましたね。もちろん音の結び付きだけでは不十分で、熯速日命を最古の機織神話の中に位置付けることはできません。

機織神話における最も重要な部分は、杼でホトを突く場面です。ホトは女性の陰部を意味しますが、その表記は火所、火門、火処などがあり、本来はたたら製鉄の炉を意味しています。熯速日命は火の属性を持った神で、「熯」(ひ)と杼は音で結び付き、さらに機織神話のホトとも結び付くことになります。一方「杼」(ひ)はその形状から男根に見立てられています。杼の形状を示す写真は以下を参照ください。
http://www.odette.or.jp/virtual/homespun/process/explain07-1.html

熯は火であり女性器のホトであり、杼もその音は火であり男性器であり、ホトを杼で突くとは性行為を意味しているので、機織神話の全体部分と熯速日命は極めて密着度が高くなります。以上の操作から、天照大神が斎服屋で神衣を織っていた時、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで投げ込み、驚いた天照大神がホト(女性の陰部)を「杼」(ひ)で突いて死んだと言う機織神話全体の中に熯速日命を位置付けることが可能になります。そうした操作を経て秦氏と服部連は、火の神だったはずの熯速日命を最古の機織神話に関連付け、機織の神に神格転換させたのです。

彼らが構築した仕掛けの意味は後世になってわからなくなってしまうので、12世孫に麻羅(まら)宿祢を持ってきました。麻羅はご存知のように男根を意味し、杼の持つ裏の意味に通じ、麻羅→杼→熯と遡ることができてしまいます。いかがでしょう?相当複雑な操作で祖神設定が行われたと思えませんか?以上により、本来は火の神だった熯速日命がそうとはわからないように機織の祖神に仕立て上げられた訳です。裏でいろいろ操る秦氏の面目躍如と言ったところですね。

秦氏は自分たちの祖を始皇帝や徐福だと言上し「姓氏録」にそのまま記載させてしまうほどですから、この程度の裏技は簡単だったと思います。従って、神服神社の熯速日命と麻羅宿祢までは実在ではなく造作された祖神となります。なお、彼らの祖神設定時期は由緒に従うと允恭天皇の御代になりますが、既に書いたようにこの時代になるのかは疑問があります。また、「新撰姓氏録」が編纂される際に祖神を書くよう要請され、その時点で祖神を決めた可能性もある点お含みください。

さて、ここまで熯速日命を機織神話に関連させて見てきましたが、その後に続く天岩戸神話も別の重要な意味があります。ずっと以前に、秦氏は死と再生を司る一族だと書きました。そして、死んだ機織女が天岩戸に籠って後、太陽神・天照大神として出現する天岩戸神話もまた死と再生の話になっているのです。これは大和岩雄氏が「天照大神と前方後円墳の謎」(ロッコウブックス)にて述べられており、酔石亭主も同感だと思っていました。

ところが本シリーズを書く中で、この解釈は正しいのかちょっとした疑問がわいてきたのです。そこで、死んだ機織女が天岩戸に籠って後、太陽神・天照大神として出現する死と再生の神話を、もっと現実的な違う解釈で考察することにしました。

この神話を現実に当て嵌めると、どうなるでしょう?天照大神の原像は卑弥呼ですから、死んだ卑弥呼が鏡などの副葬品と共に埋葬され、その後卑弥呼の霊の依り代となる鏡が墓から取り出された。となるはずです。卑弥呼の鏡は太陽を象徴するものですから、それが取り出された結果、死んだ卑弥呼は太陽神・天照大神として復活し再生したことになります。

「日本書紀」の神代上第七段一書に曰くには、日神(天照大神)が岩戸を開けて出るとき、戸に触れて小瑕が付いた。この瑕は今も失せずに残り、これが伊勢に斎祀る伊勢の大神だと書かれていました。ここからも卑弥呼の墓から取り出された鏡が、後に伊勢神宮で祀られる天照大神になったと確認されます。

この天岩戸神話に関して疑問に思った部分は、なぜ卑弥呼を埋葬した墓を開き、そこから鏡を取り出さねばならなかったのかと言う点でした。常識的に見て墓を暴くような行為は許されるはずがありません。卑弥呼が亡くなったのは248年頃で、死後に彼女の墓が築造され、鏡などと一緒に埋葬されたはずです。

それ以降、後継の宗女である台与は日々卑弥呼の霊を神(太陽神)として祀ってきたのでしょう。なのに、どうして鏡を墓から取り出さねばならなかったのか?神話を現実に引き戻して考えた場合、そうせざるを得ない何らかの重大な事情があったと理解するしかなさそうです。

その重大な事情を現実的な側面から考察すれば、卑弥呼の後継となった女王国の台与が、卑弥呼の墓から遠く離れた場所への移動を余儀なくされた。だから墓から鏡を取り出さざるを得なくなった。となります。台与は不弥国或いは伊都国の南に位置していた女王国を離れ、宇佐まで移動して一旦留まります。「魏志倭人伝」で帯方郡から不弥国までの合計距離と、帯方郡から女王国までの総距離が短里で約100㎞の違いがあるのは、総距離が宇佐までの距離で書かれたからでしょう。

つまり、台与は北九州の沿岸に近い場所(女王国所在地)から一旦宇佐に移動したことになり、移動に際して墓から鏡を取り出したのです。目的はもちろん鏡を依り代として卑弥呼の霊を祀り太陽を祭祀するためです。

その後台与一行は大和(=邪馬台国)に入りますが、新参者の立場から卑弥呼の鏡(=太陽神・天照大神)は当時の大王の領地内に祀るよう要請されたと考えられます。これが天照大神(鏡)の大和への遷座となります。台与はプレ物部氏との協力で勢力を増し、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の名で箸墓に埋葬されました。その後に鏡は取り戻され、台与の宗女豊鋤入姫命・倭姫命によって伊勢に遷座し、現在まで皇祖神天照大神として祀られ続けているのです。

以上はもちろん酔石亭主の推定ストーリーに過ぎませんが、天岩戸(卑弥呼の墓)から卑弥呼の鏡が取り出された理由と、天照大神が考昭天皇から崇神天皇の時代まで大和の宮中で祀られていたとされる理由を併せ考えれば、現実味を帯びたものになってきます。卑弥呼と太陽を象徴する鏡が持ち込まれない限り、大和の大王たちは天照大神を祀るなどできないのです。

なお、「邪馬台国と大和王権の謎を解く その13」以降で邪馬台国問題や台与が大和に移動した経緯などを詳しく書いています。ご興味があれば参照ください。(注:上記の天岩戸に関する考察は今回で思い付いたものであり、「邪馬台国と大和王権の謎を解く」シリーズの中で書いてはいない点お含みください)次回も神服神社関連の検討を続けます。
スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
12 | 2019/01 | 02
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる