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浜松の秦氏 その42


今回は浜松に戻ります。蜂前神社の由緒では詳しい内容が不明なので、「遠江織物史稿」(山本又六著)を参照することに…。同書には以下のような内容が書かれていました。(注:浜松市図書館で既にご紹介した他のページ分と合わせてコピーしたのに、紛失したのか見当たらないので、三つ柏服部さんの記事より引用させていただきました。)

由緒 蜂前神社々掌・荻原元良調書抜粋(八田氏は萩原、荻原二家に分かれたと伝えられる。)旧記に、応神天皇十一年(推定西暦390年)、私達祖・八田毛止恵と申す者、敕(みことのり)を奉じ遠江国へ下向し、八田(祝田村の古名)四十五町、広田(刑部村の古名)七十町、岩瀬(瀬戸村の古名)八町三反、合わせて百廿三町三反を開墾し、八田郷字神出(此字祝田村にある)に居住、後孫代々氏神蜂前神社に奉仕す、とあり。抑是を蜂前神社御鎮座の元始とする。脇宮四柱の大神勧請は、人皇十九代允恭天皇御宇(推定439~460)、熯速日(ひのはやひ)命十二世の孫・麿(麻羅)の宿祢、諸国の織部を惣領し、服部の連と云うと『姓氏録』に見える。此の宿祢、此の里に巡回し来たって、養蚕織工等の事業を郷党に教授して大いに此の郷を賑給した。依って、御本社天照大御神、天上高天原で始め給うた養蚕織工の御神徳に基づき、宿祢の祖・熯速日命御親子四柱の大神を脇宮に奉斎して、養蚕織工の事業を後世に奨励したと云う。   ~中略~ 
 以上、古文書其の他により、蜂前神社が由緒正しい織物に関係深い神社であることが明らかである。服部の連麻羅の宿祢が指導して開いた織物生産の地域は、蜂前神社氏子の地域で、相当広く又多数の集団であったであろうと察せられる。麻羅の宿祢が開発以前に此の地方に織物が出来たであろうことが想像せらる。そう考えると、土地の開発者八田毛止恵の八田は秦氏の一族ではないか。秦は波多、羽田、幡多等と書かれ、八田もその例であるとも考えられる。果たして然りとすれば、八田氏が当地方を開発以来、殖桑機織の業をも扶植し、後、麻羅の宿祢によって、改良発展せしめられたことと成るが如何であろう。以上、述べる所により、蜂前神社が遠州に於いて、最も古い織物の神社であり、其の氏子は織物生産の大集団で、遠州織物の先駆者であったと云うべきである。  ~中略~
本社を中心として、付近の神社の摂社末社に織物の諸神を祀るものの多いことなどを考え合わせ、又、今の浜松市豊西町羽鳥の服織神社のことも併せ考えて、旧中川村、都田村から浜名平野北部にかけて、庸調時代に養蚕、機織の盛んであったことを察することが出来る。又、秦氏に関係ある地名の多いことも考え合わすべきである。


最初の行にある荻原元良は八田毛止恵の遠い子孫に当たり、祝田村の医師で幕末から明治時代初め頃の人物のようです。従って上記の内容は萩原家に伝わる古文書などが元になっていると考えられ、一定の信憑性があると思われます。その場合、酔石亭主の推論とは異なる部分も出てきます。例えば「その40」における検討結果から麻羅宿祢は実在の人物ではないと推測していますが、上記では実在の人物となり、驚いたことに遠江にまでやって来て養蚕織工等の事業を郷党に教授したと書かれています。

上記の部分に関しては、麻羅宿祢の遠江到来が事実でないにしても、644年に入鹿の乱を避けて来た秦氏と服部連が麻羅宿祢を奉斎していたことから、そうした記事内容に繋がったと理解すべきでしょう。またこのことは神服神社(当時は服部神)の服部連が秦氏と共に移住して来た証明にもなりそうで、蜂前神社と神服神社の深い繋がりや関係性が感じられます。

「遠江織物史稿」の記述では、八田毛止恵(はったもとえ)を秦氏ではないかと推定し、彼らが養蚕機織を当地に扶植、その後熯速日命十二世の孫・麻羅宿祢がここに来たて発展させたと、二段構えのストーリーで描いています。

ただ、秦氏系の八田毛止恵が遠江国に来たのが応神天皇11年(記紀年で280年)とすると、秦氏の祖とされる弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏したのが応神天皇14年ですから、それ以前にこの人物が遠江国に行くなど有り得ません。蜂前神社の由緒は応神天皇の御代に秦氏が渡来した内容を自分たちに引き寄せ、八田毛止恵が来たとの話にしたものでしょう。麻羅宿祢がこの里に巡回し来ったとの話は、彼の子孫を称する服部連がこの地に来たことを意味しているようにも受け取られます。

今までの検討結果や蜂前神社の祭神、地元郷土史家の見解などを総合すれば、同社は神服神社より祭神を勧請した可能性が高くなります。ただ、神服神社の解説板には以下のように書かれていました。

伝承では允恭天皇の時麻羅宿禰が織部司に任ぜられたというから八・九世紀のころ服部部民の神を勧請しあわせて民族の始祖をその本貫の地に祀ったのが創祀である。当時は「服部神」と呼ばれのち、醍醐天皇の延喜年間(10世紀初頭)神服神社と定められ現在に至っている。

允恭天皇から続いているはずの内容が、一気に8、9世紀まで下ってしまっているのは理解に苦しみます。文脈も整合していません。服部神(熯速日命と十二世の孫・麻羅宿祢)が祀られたのは服部連塚周辺の古墳から判断して、6世紀から7世紀になるのではと思われます。ここから、秦氏が浜松に向かった644年段階では、高槻に祀られていた服部神が浜松に勧請されたことになります。

もう一つの別の可能性も考えてみます。644年に秦氏に従って浜松に来た服部連は、この地に服部神(特定の神名のない先祖)を祀ったが、700年頃には本国に帰還した。815年に姓氏録が編纂され、その前段階で各氏族に祖神や由来などを報告するよう要請があった。その際摂津国の服部連は具体的な神名のない服部神を具体性のある神とすべく祖神設定を行った。それが熯速日命と十二世の孫・麻羅宿祢になる。

このシナリオの場合、八・九世紀のころ服部部民の神を勧請しあわせて民族の始祖をその本貫の地に祀った、との神服神社由緒に合致する。新たに設定された祖神は浜松に分祀され蜂前神社の実質的な創建となった。その後摂津国においては由緒略記にあるように、醍醐天皇(887年~930年)の延喜年間に「神服神社」(カムハトリカミノヤシロ)と改め、神服神社の創建となった。

色々錯綜しておりきちんと読み解くのは困難ですが、蜂前神社の祭神は神服神社の服部連との関係性を否定できないとしておきます。次回はまた摂津国に戻り、秦氏=服部連となりそうな例を検討してみます。
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