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古墳から見た大和の古代 その1


大和の古墳に関しては邪馬台国の検討の際に三輪山周辺の大型古墳を訪問しています。但しその扱いは脇役程度で、詳しい検討はしていません。理由としては、例えばXX天皇陵と宮内庁によって治定されていても実際にその人物が埋葬されているのか不明である点や、天皇陵は発掘が許可されず、副葬品から人物像や時代を推定することもできないと言った問題点が挙げられます。

このため築造年代は周辺の出土物・古墳の形状その他によって推測するしかないのですが、年代に幅が出てくるのは避けられず、加えて治定そのものにも間違いがあり、古墳からある天皇の推定実年代を特定するのが困難になってしまいます。これらの理由から大和の古墳を脇役扱いしてきたのですが、一度主役として検討してみたら面白いかもしれないと思い直しました。

ただ、大和には数多くの古墳がありますし、河内にも応神天皇陵や仁徳天皇陵など超大型の古墳が存在しています。それらの中でどこの古墳を取り上げるべきかを考え、三輪山周辺の大型古墳に後続する佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん、以降佐紀古墳群と表記)に狙いを定めました。佐紀古墳群は奈良市北部に位置しており、200m超級の巨大古墳が4世紀後半の後期から5世紀前半にかけて数多く築造されています。巨大古墳が狭い墓域に密集する様は他に類例を見ないものとなっています。

またこの古墳群は、事実関係は別として治定された被葬者の名前を見ると、第11代垂仁天皇から第16代仁徳天皇の時代に相当しています。もちろんそれが正しいかどうかは不明なので、各古墳の実態を再構成しつつ、記紀の記述も参照して事実関係を明らかにできればと思っています。


佐紀古墳群の位置を示す地図画像。

「拡大地図を表示」をクリック頂きさらに拡大すれば、一つの古墳が他の古墳に食い込みそうになるほど近接している様子が見て取れます。

上記したように、佐紀古墳群は三輪山周辺の大型古墳に後続しています。その場合、三輪山周辺の古墳から影響を受けているかもしれず、両者の間に何らかの関係がある可能性も否定できないので、まずは三輪山周辺で築造された巨大古墳をおさらい的に書いてみましょう。

奈良盆地の東南部には3世紀後半から4世紀中頃にかけて古い順に、箸墓古墳(墳丘長278m、200年代後半築造)、西殿塚古墳(墳丘長約230m、200年代後半築造)、桜井茶臼山古墳(墳丘長207m、300年代初頭築造)、メスリ山古墳(墳丘長224m、300年代初頭築造)、行燈山古墳(伝崇神天皇陵で墳丘長は242m、300年代前半の築造)、渋谷向山古墳(伝景行天皇陵で墳丘長は302m、300年代半ばから後半築造とされる)などが続々と築造されました。

また実質的な初代天皇ともされる第10代崇神天皇の宮殿は三輪山の南麓のはずれにあり、磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)と称され、所在地は桜井市大字金屋896となっています。続く第11代垂仁天皇の宮殿は纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)と称され、所在地は桜井市大字巻野内420。第12代景行天皇の纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)は桜井市大字穴師447にあったとされています。

どの宮殿も三輪山山麓或いは三輪山に近接した北側にあり、三輪山を重視していた様子が伺えます。この三代続く天皇は記紀に記された事績も数多く、今の私たちが理解するような天皇であるかどうかは別として、実在した可能性は高そうです。景行天皇と垂仁天皇の宮殿に関する詳細は「邪馬台国と大和王権の謎を解く その24」を参照ください。

また彼らの宮殿が三輪山に近いことから三輪王朝と仮称したいと思います。妙に思えるのは、三人の天皇の宮殿も古墳も三輪山を正面に見るような位置からは外れている点です。これは多分、当時の人々にとって三輪山が聖なる山であり、その正面に宮殿や古墳を造ることが憚られたからでしょう。崇神天皇と景行天皇の古墳はいずれも三輪山から北の巻向川を越えた位置に築造されています。崇神天皇の場合、宮殿はかろうじて三輪山山麓でしたが、さすがに陵は三輪山から少し離れざるを得なかったようです。(注:垂仁天皇陵は佐紀古墳群の南西約2㎞に位置しており、本シリーズでは佐紀古墳群に含めて検討します)


崇神天皇の磯城瑞籬宮の位置を示す地図画像。


垂仁天皇の纒向珠城宮の位置を示す地図画像。

景行天皇の宮殿跡は垂仁天皇の宮殿からそのまま道を東に登った位置にあります。

大和における大型前方後円墳の先駆けとなった箸墓古墳は、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととももそひめのみこと)の墓に治定されていますが、酔石亭主の見解では台与となります。では大王墓級の西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳はどうなるのでしょう?古墳の規模から見て大王としか思えない彼らに関する事績は何も語られていません。

その事実から「日本書紀」の記述は、編纂者たちの都合に合わせて何人もの大王の存在を無視し(取捨選択し)、他の大王に集約してしまっているかのように見えてしまいます。(注:西殿塚古墳は第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されていますが、全く時代が合いません。箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と見て西殿塚古墳を台与とする説に関して、卑弥呼は北九州の人物なので間違っていると思われます)

ここでもう一つの疑問が生じるのですが、景行天皇の前に当たるはずの垂仁天皇陵が崇神天皇陵や景行天皇陵(二つの陵は近接している)の近くにありません。


崇神天皇陵と景行天皇陵の位置を示す地図画像。景行天皇陵は崇神天皇陵の南側。

「日本書紀」で崇神天皇→垂仁天皇→景行天皇と続く三代の天皇に関し、崇神天皇の磯城瑞籬宮は三輪山の南端部にあり、垂仁天皇の纒向珠城宮と景行天皇の纒向日代宮は三輪山から北の、巻向川を越えた位置にあります。景行天皇陵と崇神天皇陵も垂仁天皇と景行天皇の宮殿のすぐ近くに築造されました。垂仁天皇の宮殿は景行天皇の宮殿に近接し、しかも崇神、景行の両天皇の間に挟まれた時代にいるのですから、古墳も当然近くにあってしかるべきです。

ところが垂仁天皇陵は、「延喜諸陵式」に大和国添下郡とあると書かれています。ちなみに、「日本書紀」に書かれた天皇の順番は、第十代崇神天皇以降、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、(神功皇后)、応神天皇、仁徳天皇となっています。

垂仁天皇陵に治定されるのは宝来山古墳(墳丘長227mで300年代末頃の築造と推定)で、所在地は佐紀古墳群の2㎞ほど南となり、添下郡にあるとの「延喜諸陵式」記事に見合っていると思われます。規模は大王墓として相応なものですが、地域的には明らかに崇神天皇の行燈山古墳や景行天皇の渋谷向山古墳などとは異なる系列の古墳であり、年代的にも景行天皇陵より遅いと思われ(本来なら景行天皇陵より早い300年代前半から中頃の築造であるべき)、「日本書紀」に書かれた天皇の順序とも整合しない状態となっているのです。


宝来山古墳の位置を示す地図画像。
佐紀古墳群から約2㎞南に位置することから、佐紀古墳群に加えられるとする説もあります。

以上、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の宮殿が三輪山の近辺にあることから、この三代を三輪王朝と仮称しましたが、この三代に連続性があるのかどうか大きな疑問が湧いてきました。「日本書紀」の編纂者が何人もの大王を無視し他の大王に集約してしまったのと同様に、何らかの策略があるように思えてなりません。三輪山周辺の古墳と佐紀古墳群との間に何か入り組んだ問題が伏在していると推定されますが、この点は実際に佐紀古墳群に行って調査するしかなさそうです。

以上、三輪山の周辺一帯の大型古墳は200年代後半から300年代半ばにかけて築造され、景行天皇陵とされる300m超級の渋谷向山古墳を以って最後の打ち上げ花火のように打ち止めになったと確認されます。その後、大型古墳の築造は三輪山周辺から佐紀古墳群へとバトンタッチされるのですが、上記したように何らかの問題が存在していると推定されます。ここでは佐紀古墳群の被葬者たちの時代を佐紀王朝と仮称しておきましょう。なお、「日本書紀」の編纂者は幾つかの大王を取捨選択し記載しているように見える点、宮殿が三輪山近くにあり三輪王朝の人物となるべき垂仁天皇の陵がなぜ佐紀古墳群の近くにあるのかなどの問題は、佐紀古墳群を見ていく中で順次検討していく予定です。
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