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古墳から見た大和の古代 その2


前回は三輪山周辺の巨大古墳についておさらいし、幾つかの疑問点も提示しておきました。今回からは近鉄線大和西大寺駅で下車し、自転車を借りて佐紀古墳群のツアーに出発です。駅前は結構大きなビルもあり賑わっていますが、少し北に走ると道路の右手に古墳が見えてきます。古墳の前に石の鳥居と柵があるので、すぐに天皇陵だとわかります。

この古墳は佐紀高塚古墳で孝謙・称徳天皇高野陵と治定されていますが、ちょっと待ってください。佐紀古墳群の古墳は4世紀後半の後期から5世紀前半頃の築造のはずで、孝謙天皇(こうけんてんのう、重祚した後に称徳天皇)は700年代後半の人物です。700年代後半にこんな古墳が築造されるはずがありません。


佐紀高塚古墳の位置を示すグーグル画像。所在地は奈良県奈良市山陵町。

DSCN0043_convert_20191222074257.jpg
ちょっと見ただけでは古墳と思えません。それもそのはずで丘陵を切断して築造されたものだからです。

DSCN0044_convert_20191222074327.jpg
接近して撮影。

特に見るものもないので写真は2枚だけです。

この古墳に関しては以下Wikipediaより引用します。

奈良盆地北部、佐紀丘陵南麓において、丘尾を切断して築造された大型前方後円墳である。丘陵上では多くの巨大古墳を含む佐紀盾列古墳群の営造が知られるが、本古墳はその古墳群の中で佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)・佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)・五社神古墳(伝神功皇后陵)等とともに「西群」と呼ばれる一群を形成する。佐紀高塚古墳自体は、佐紀石塚山古墳・佐紀陵山古墳の南に隣接する形で築造される。明治以降は宮内庁により天皇陵に治定されているため、これまでに本格的な調査はなされていない。
墳形は前方後円形で、前方部を西方に向けており、南北を主軸とする西群の他古墳とは直交する。墳丘は3段築成。墳丘からはかつて埴輪が検出されたというが詳らかでない。墳丘周囲には不連続ながら鍵穴形で幅の狭い周濠が巡らされる。主体部の埋葬施設は不明。
この佐紀高塚古墳は、古墳時代前期後半の4世紀頃の築造と推定される。佐紀古墳群の古墳としては中型規模で、墳丘主軸も他の主要古墳とは方向を異にすることから、主要古墳に随伴するランクの古墳であったものと推測される。

主要古墳に随伴するランクの古墳とのこと。墳丘長127mですから、一般的な大王墓の半分強の規模となりますが、決して小さくはありません。一体被葬者は誰なのでしょう?この古墳に接するように佐紀陵山古墳があり、被葬者は垂仁天皇の皇妃である日葉酢媛命とされています。

「日本書紀」によれば、垂仁天皇の32年に日葉酢媛命が死去します。天皇は群卿に、殉死は好ましくないが、どのように葬儀を行おうかと尋ねます。すると野見宿禰が生きた人間を埋めるのはやめて、人や馬などの埴輪を作り陵墓に立てるのを今後のルールにしたいと奏上。天皇は大いに喜んでお前の意見は私の心にかなう、今より後は必ず埴輪を立て、人を傷つけるなと言いました。天皇は野見宿禰の功績を称え、土部(はじ、土師)の職に任じ、土部臣の本姓を与えたとのことです。

佐紀古墳群の中に垂仁天皇の皇妃・日葉酢媛命の古墳があり、佐紀高塚古墳がその南西に密着する形で築造されている点、佐紀高塚古墳が主要古墳すなわち佐紀陵山古墳に随伴するランクの古墳である点、佐紀古墳群から南に約2㎞の場所には垂仁天皇の陵がある点、土師氏の中には、姓を菅原に改めた氏があり、垂仁天皇陵の約480m北東に菅原東遺跡埴輪窯跡群がある点を踏まえると、この古墳の被葬者は土師氏の可能性が高くなります。

(注:菅原東遺跡は奈良市横領町403-2にあり、約1500年前の古墳時代に埴輪を焼いた窯跡で垂仁天皇の時代よりは遅い。ただ菅原東遺跡のすぐ南に埴輪編年Ⅱ式の埴輪が出土したそうで、時代的には300年代後半ですから整合してきます)菅原東遺跡に関しては以下の奈良市ホームページを参照ください。
http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1397538174238/index.html

以上から佐紀高塚古墳の被葬者は野見宿禰の可能性もありそうですが、佐紀陵山古墳より数十年以上遅れて築造されたと推定されますので、違うと思われます。これとは別に、野見宿禰に関する「日本書紀」の記述で一つ気になる点があります。天皇は野見宿禰を褒めて姓を与える前に、また鍛地(かたしところ)を賜うと言っているのです。鍛地の鍛を鍛錬の鍛と見れば、埴輪作りに適した地と言った意味合いかとも思えますが、刃物や金物を鍛造するための土地のように見えてしまいます。

そう考えれば、野見宿禰の野見は鑿(のみ)だったことになります。鑿は、木材、石材、金属などに穴を穿ったり、彫刻したりするのに用いる工具であることから、土師氏一族は元々古墳に用いる石材の加工業者だったのかもしれません。鑿(野見)宿禰は天皇にうまく取り入って、古墳関連のビジネスを石材加工業から埴輪製作にまで拡げていったのではないでしょうか?

天皇から称賛され新しいビジネスにまで乗り出した彼らですから、大いに繁栄したものと思われます。多分石材加工や埴輪製作だけでなく、古墳の設計や築造のための人集め・築造全般の指揮なども担ったのでしょう。そのためには彼らの拠点が古墳群の近くにある必要性が出てきます。

調べたところ、古墳群に近い平城京の東に藤原不比等の邸宅跡があり、その前は土師氏の土地で、彼らの氏寺となる土師寺があったとのことです。不比等は土師寺の建物を邸宅内の北東隅に残し、後に発展して海龍王寺となっています。また海龍王寺から佐紀高塚古墳までは直線で約1.7㎞の至近距離ですから、同古墳の被葬者は土師氏系の人物とする可能性がより高くなります。


海龍王寺の位置を示す地図画像。

佐紀古墳群のみならず、世界遺産となった百舌鳥・古市古墳群に関してもすぐ近くに土師氏の拠点が存在しています。野見宿禰が実在の人物かどうかは不明ですが、土師氏の長が最終的に127mの古墳築造を許される地位にまで到達したと考えても違和感はありません。この古墳は5世紀前半の築造とされていますので、相当な実績の積み上げの上でこの地位に達したのでしょう。以上の検討から佐紀高塚古墳の被葬者は土師氏系の長としておきます。

既に書いたように、孝謙・称徳天皇(注:以降は称徳天皇と表記します)が同古墳の被葬者でない点は確実ですが、この天皇には面白いエピソードもありますので、ついでに少し触れてみます。

称徳天皇の側近には怪僧として有名な道鏡がいます。彼は、事実関係はさて置き「道鏡は すわるとひざが 三つでき」と、川柳に詠まれるほどの巨根の持ち主でした。もっともその理由は、おしっこをしていたところ蜂に刺され、腫れ上がって大きくなったためとされています。称徳天皇は重祚する前に婦人病となり、その看病に当たったのが道鏡で、どんな弾みにか、天皇は道鏡の巨根を知ってしまったようです。それなしにはいられなくなった天皇は、療養に訪れた奈良田温泉で数年の間性愛に耽ったとか。まあこれは後世に面白おかしく創作された話なのでしょうが、何らかの元になる事実があったのかもしれません。
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