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古墳から見た大和の古代 その3


前回は終わりの方で少し話がそれてしまいました。佐紀古墳群は西群と東群に大別され、今回からは西群に属する佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)、五社神古墳(神功皇后陵)を宝来山古墳(垂仁天皇陵)も含めた形で検討したいと思います。ただ佐紀古墳群の各古墳は密接に関係している可能性があり、個別の古墳を書いていくだけだとうまく纏められそうにないので、取り敢えず各古墳の写真と一般的な解説や問題点を簡単に書き、その上で総括的な検討を進める予定です。

現在の各古墳の推定築造年代は一旦横に置き、「日本書紀」の記述から築造の順番を見ると、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)、宝来山古墳(垂仁天皇陵)、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、五社神古墳(神功皇后陵)となるはずです。そして五社神古墳の前に神功皇后の夫となる仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳、「日本書紀」では河内国の長野陵)が置かれるはずですが、同古墳は5世紀末葉の築造とされていますので、全く時代が合いません。この問題も後でじっくり検討する予定です。と言うことで、「日本書紀」の記述に基づく築造順の最も古い佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)から見ていきます。(注:古い順に見て行く形にしていますので、実際の訪問順序とは異なります)


佐紀陵山古墳の位置を示す地図画像。隣の成務天皇陵との密着具合がよくわかります。

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注意書きですが、解説板も設置して欲しいですね。そうしたサービス精神を期待するのは無理でしょうけど…。

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前方部の拝所。

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周濠と古墳です。全体を撮影するのは無理なようです。

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もう一枚。

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成務天皇陵から佐紀陵山古墳にかけては公園のようにきれいに整備されています。

手抜き工事ですが同古墳の概要は以下Wikipediaより引用します。(注:今後も同様にWikiより引用しますのでご了承ください)

佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)は、奈良県奈良市山陵町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ、狹木之寺間陵)」として第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている。大正時代に盗掘事件が発生し、それに伴って当時としてはかなりの規模の調査が実施されたとされる。殉死のかわりに初めて埴輪を御陵に立てたという説話が日本書紀に記されているのがこの古墳ではないかとされている。すぐに西側に接して築かれている佐紀石塚山古墳のくびれ部に佐紀陵山古墳の後円部がくい込んだ配置になっている。このため佐紀石塚山古墳の周濠は極端に狭くなっており、佐紀陵山古墳の方が先に築かれたことが推定されている。全長207メートル、前方部幅約87メートル、後円部径131メートル、前方部高さ12.3メートル、後円部高さ約20メートルの規模の三段に築成された古墳である。
佐紀陵山古墳と相似形の古墳は、五色塚古墳(兵庫県)・膳所茶臼山古墳(滋賀県)・御墓山古墳(三重県)・摩湯山古墳(大阪府)など各地で知られる。これら「佐紀陵山型」前方後円墳が畿内を取り囲むように分布することから、この4世紀後半当時に畿内制的な領域支配が存在したとする説がある。


佐紀陵山古墳は上記から佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)よりも古いと推定されています。成務天皇は第13代の天皇であり、日葉酢媛命は第11代垂仁天皇の皇妃ですから、そうした見方で間違いなさそうです。また日葉酢媛命の父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女となっており、彼女は丹波から迎えられたと確認されます。

Wikiには、佐紀陵山古墳と相似形の古墳が幾つか書かれており、どれもかなり大きな古墳なので、所在地、墳丘長、築造時期などを以下に書いてみます。

五色塚古墳(神戸市垂水区五色山4丁目1、194m、4世紀末から5世紀初頭)
膳所茶臼山古墳(滋賀県大津市秋葉台、122m、4世紀末から5世紀初頭)
御墓山古墳(三重県伊賀市佐那具町、188m、5世紀で初頭から後半まで諸説あり)
摩湯山古墳(大阪府岸和田市摩湯町、200m、4世紀後半から末葉)

上記から滋賀県の膳所茶臼山古墳を除きどれも大王墓級の規模となっている点が確認されます。これらに対して佐紀陵山古墳は207mですから、各古墳は佐紀陵山古墳の設計を配布されたものと理解されます。問題は佐紀陵山古墳の築造時期で、Wikiは4世紀末頃、その他に4世紀後半から5世紀前半と言った説もあります。二つの説から判断すれば、4世紀の終わりに近い時期となりそうです。5基の相似古墳の築造時期も佐紀陵山古墳とほぼ同じかやや遅いと見られるので、佐紀陵山古墳からの配布と考えても違和感はありません。

注目すべきは河内にある摩湯山古墳で、古墳の設計を佐紀王朝(佐紀陵山古墳)から配布されたと考えられる点です。この古墳には陪家と見られる小古墳も周囲にあることから在地の大王クラスの豪族の墓と見られます。注目すべきは佐紀王朝が、後に超巨大古墳が築造される河内(の一部地域)を支配下に置いている点でしょう。

また五色塚古墳に関して仲哀天皇の偽墓(被葬者のいない墓)との見方もあり後の回で検討してみます。佐紀陵山古墳の設計が4基もの大型古墳に配布されていることから、この古墳の重要性が理解される一方、本当に日葉酢媛命が被葬者なのか疑問も湧いてきます。けれども疑問を解消させる手立てはないので、佐紀陵山古墳の築造時期から第10代崇神天皇、第12代景行天皇の間に位置する第11代垂仁天皇の時代を検討してみます。

酔石亭主は第10代崇神天皇の崩御を318年と推定しており、行燈山古墳の築造は一般的に4世紀前半とされているので、崩御年と築造時期はほぼ見合っています。また第12代景行天皇の渋谷向山古墳の築造は4世紀半ばから後半と推定されています。両者の間に位置する第11代垂仁天皇の皇妃である日葉酢媛命の佐紀陵山古墳が4世紀の終わりに近い時期に築造されたとすれば、垂仁天皇陵は4世紀末頃の築造となり、景行天皇陵の後になることから、「日本書紀」の記述と不整合になります。つまりこの三者の実際の時代は崇神天皇→景行天皇→垂仁天皇の順となってしまうのです。

上記の問題は「その1」にて垂仁天皇の宮殿が三輪山の近くにあるのに、古墳は奈良市北西部の佐紀古墳群に近接した場所にある疑問と関係しているような気がします。これはかなりややこしい問題と思われるので、各古墳について簡略に書いた後の総合的な検討の際詳しく見ていきましょう。

さて、佐紀古墳群最古の佐紀陵山古墳築造時期が4世紀の終わりに近い時期で垂仁天皇陵が4世紀末の築造とすれば、神功皇后が被葬者とされる五社神古墳の築造時期である4世紀末とほぼ重なってしまうことになります。つまり、第11代垂仁天皇は既に書いたように景行天皇の後世代であり、神功皇后とほぼ同世代の人物と位置付けられてしまうのです。

そして垂仁天皇の時代に有名な天日槍が登場していました。神功皇后は天日槍の7代目の子孫とされているものの、この二人も実際にはほぼ同世代と言えそうな気配です。古墳を中心に据えて歴史を見ていくと、あれこれややこしくなり頭を抱えてしまいますが、謎の中心には垂仁天皇の存在がありそうです。次回は垂仁天皇陵とされる宝来山古墳を探索します。





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