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古墳から見た大和の古代 その17


前回で少し困った状態になったので、神功皇后を一旦横に置き、彼女の夫であった仲哀天皇を見ていきます。なぜなら、糸島宇美八幡宮の由緒に応神天皇生誕伝承はなく、その前段階となる仲哀天皇崩御の部分に比重が置かれているし、皇后と仲哀天皇の年代はほぼ重なっているはずだからです。どんな内容が語られているのか、早速同社の概要や由緒などを参照してみます。(注:今回は糸島宇美八幡宮を訪問することなしに書いていますが、近い将来是非行ってみたいと思っています)

糸島宇美八幡宮は長野八幡宮とも呼ばれており、明治維新の際に長野、川付、飯原小蔵(白糸)、四ヶ村(長野庄)の氏神社となったそうで、長野川沿いに鎮座しています。同社の祭神は、上宮に仲哀天皇、本宮には応神天皇、神功皇后、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、気比大神(けひのおおかみ)、菅原大神となっており、瓊瓊杵尊は日向一代、玉依姫命は父が綿津見神、弟が穂高見命ですから安曇族の姫となります。玉依姫命の夫は鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)で日向三代となります。(注:玉依姫に関しては史料により様々な異説があります)上宮に仲哀天皇が祀られていることから、天皇が同社にとって特別な存在だと理解されます。

糸島宇美八幡宮の宮司さんは同社のホームページによると武内宿禰の82代目になっているようです。これは驚きですが、怡土郡長野村蚊田の地に武内宿禰の子孫が代々いたことになり、この事実はかなり重大な意味を持っているように思えます。そして「古事記」の仲哀天皇記・神功皇后の新羅討伐の段には大略以下のような記述がありました。

仲哀天皇が熊曽国を討とうとしていたとき、天皇が琴を弾き武内宿禰が斎庭(さにわ、託宣を請う人)となり神の命を請うた。神功皇后に神が依り付き受けた命は 朝鮮半島出兵だった。けれども九州の熊曽討伐を優先する天皇はこの神託に不満を示した。神の命に逆らった仲哀天皇は神の怒りを受け、琴を弾いている最中に崩御した。

上記は簡略に書いたものですが、それでも実に不穏な内容だとは思えませんか?この場所にいたのは武内宿禰、神功皇后、仲哀天皇の三者であり、神功皇后が神の命を話したとは、神功皇后本人の意志が伝えられたと解するしかありません。神功皇后の意志に反した仲哀天皇は、神すなわち神功皇后の怒りを受けてすぐに亡くなってしまったのです。

亡くなった仲哀天皇に関して、糸島宇美八幡宮のホームページには以下の記述がありました。

当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、大臣武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて香椎の宮に安置していた仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御棺を当山、長嶽山山頂に納めて陵を築いたとされ、これが上宮の起源とされております。

仲哀天皇は長嶽山山頂に葬られたとのことですが、神功皇后は武内宿禰と不倫関係にあったとの根強い説があります。これを事実と仮定し「古事記」の記述と併せて考えれば、二人は共謀して自分たちの意に反する仲哀天皇を暗殺(多分毒殺)した。その後、ひそかに邑の人々に埋葬を指示し(注:稚児を使って占ったとされる)糸島宇美八幡宮のすぐ南側に位置する長嶽山山頂に葬った、との推論が成り立ちます。


長嶽山の位置を示す地図画像。

一方「日本書紀」によれば、仲哀天皇の殯斂地(ひんれんち、仮に埋葬した地)に穴門の豊浦宮(仲哀天皇が7年いた仮宮で、現在の下関市)があります。仲哀天皇の崩御に関しては色々ややこしい問題がありそうなので、後の回で詳しく検討します。また仲哀天皇陵は河内の岡ミサンザイ古墳とされますが、この問題も後の回とします。

仲哀天皇の死後、神功皇后は新羅遠征に出立し、勝利を収めて帰還します。そして武内宿禰の子を怡土郡長野村蚊田の地で出産したので、「筑前国風土記逸文」に書かれたように土地の人は芋湄野(うみの)と言ったことになります。ここで武内宿禰の子孫が代々糸島宇美八幡宮の宮司を務めていた理由が明らかになります。

彼らは、謀殺された仲哀天皇の怨霊が害をなさないよう、長きにわたり天皇の霊を鎮め封じ込めていたのです。また実際に謀殺したのは武内宿禰自身と考えられることから、その子孫が天皇の霊を鎮めるのは当然の話と言えるでしょう。これで神功皇后が伊都県にて応神天皇を産んだとする伝承は、武内宿禰の子を産んだに訂正される必要があります。(注:まだ論拠が弱いので後の回で引き続き考えてみたいと思っています)

以上、仲哀天皇を見て行く中で、武内宿禰の子孫が代々糸島宇美八幡宮の宮司を務める、仲哀天皇の陵が長嶽山山頂に築かれる、神功皇后の鎮懐石と応神天皇の出産(実態は多分武内宿禰の子)など、ほとんどの重要な事柄が怡土郡長野村蚊田(現在の糸島市長野、糸島市川付一帯)と言う極めて狭い世界の中で完結していると判明しました。

ほぼ全ての事柄が伊都県内にて完結していることから、仲哀天皇の殯斂地とされる穴門の豊浦宮は「日本書紀」編纂者による創作と判定されますし、後の回で詳しく見ていきますが、そもそも仲哀天皇には天皇としての実体がなく、豊浦宮の存在も消滅することになります。

唯一蚊田と関係ない場所として、武内宿禰、仲哀天皇、神功皇后が新羅討伐を審議し、天皇が反対の意見を述べすぐさま崩御された香椎宮があります。けれども、糸島宇美八幡宮宮司家の伝承では、崩御されたのは同社の東南約300mに位置する室小路(注:現在は水田になっている)とのことで、重要な部分は蚊田の範囲内に収まってしまいます。(注:香椎宮に関連する事項も後の回でも少し詳しく見て行きます)

神功皇后が応神天皇(実態は多分武内宿禰の子)を出産したのが怡土郡長野村蚊田(現在の糸島市長野、糸島市川付一帯)で、ここに仲哀天皇も含め事実の核となる諸要素がほとんど出揃っている以上、彼女は北九州の人物とならざるを得ません。この問題をどう理解すればいいのか、既に書いたように北九州の神功皇后と大和の神功皇后は別人とすべきなのか、次回でさらに検討を加えます。
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