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古墳から見た大和の古代 その8


前回で佐紀王朝は但馬、丹波、近江、山城方面から移住してきた人々の王朝だったとの仮説を立てました。これを証明できるか検討してみましょう。まず垂仁天皇の二番目の皇妃である日葉酢媛命です。彼女の父は丹波道主王で母は丹波之河上之麻須郎女ですから、明らかに丹波から招かれた姫となります。ちなみに最初の皇妃である狭穂姫命は父が彦坐王で、彦坐王は丹波道主王の父となります。(注:酔石亭主は彦坐王と丹波道主王は同一人物と考えています)

また被葬者が日葉酢媛命とされる佐紀陵山古墳の相似形古墳に網野銚子山古墳(京都府京丹後市)があり、4世紀末から5世紀初頭の築造で墳丘長は日本海側最大の201mとなっています。古墳の基本設計がどちらから配布されたものか判断に苦しみますが、築造時期から見ると佐紀陵山古墳からの配布と考えられる一方で、酔石亭主の想定ストーリーに沿った場合は網野銚子山古墳から配布されたとする方が合理的になります。

続いて垂仁天皇です。天皇は田道間守と異様に深い関係を持っていますが、彼は但馬を本拠とした新羅からの渡来人・天日槍の玄孫とされています。田道間守は天皇の命により非時香菓(ときじくのかくのみ)求めて常世国に行きました。しかし天皇は彼が帰る前に崩御しています。田道間守は非時香菓を持ち帰ってきたものの、天皇が既に崩御したと聞き、嘆き悲しんで天皇陵の前で自殺したとされます。宝来山古墳の墳丘南東の周濠内に小島があって、これが田道間守の墓に仮託され、湟内陪冢の「伝田道間守墓」として治定されています。

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田道間守の墓とされる小島。

田道間守は菓子の神様として崇められています。それを示すかのように古墳を取り巻く周濠の縁に鳥居があり、菓祖神田道間守の石碑もありました。

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小さな鳥居です。雑草と雑木に覆われています。

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石碑です。

以上、垂仁天皇自身とその皇妃共々に但馬や丹波との深い関係が確認されました。垂仁天皇の墓だけが佐紀古墳群からやや離れているのは、ほとんどの関係者は但馬や丹波に所縁があるが天皇自身は大和の人物だったからなのかもしれません。例えば佐紀王朝に入り婿した人物と言った見方です。なお垂仁天皇の没年齢は140歳でほぼ三人分の寿命となっています。書紀年代と実年代の差をここで100年近く縮小させたと理解される記述です。続いて神功皇后を見ていきます。

神功皇后の父は息長宿禰王、母は葛城高額媛となっており、父方は近江の息長氏系の人物です。系図では、彦坐王-山代之大筒木眞若王(山城国、現在の京田辺市付近の人物)-迦邇米雷王(山城国関連)-息長宿禰王(近江国)となります。山代之大筒木眞若王の妃は丹波能阿治佐波昆売で丹波に関係しそうです。迦邇米雷王の妃は高材比売で丹波遠津臣の女です。息長宿禰王と河俣稲依姫の子は大多牟坂王で多遅摩国の祖とされています。

系図には丹波に所縁のある彦坐王が登場し、丹波に関係しつつ山城国、近江国へと続いていく様子が見て取れます。彦坐王は、事実関係は別として淡海(近江)国造とされ、崇神天皇の御代に丹波に派遣され、陸(玖賀)耳之御笠を殺しており、尾張氏の謎解きの際に詳しく検討しています。また近淡海の御上の祝が祭っている天之御影神の娘・息長水依比売を娶って、丹波比古多々須美知能宇斯王(丹波道主命)が生まれたことになっています。

次に神功皇后の母方で見ていくと、以下のような系図となります。 
天日槍-多遅摩母呂須玖-多遅摩斐泥―多遅摩比那良岐―多遅摩比多訶-葛城高額媛-神功皇后。天日槍の本拠は但馬となっています。以上から神功皇后は但馬、丹波、近江、山城の流れに連なっており、最終的な到着地点の奈良盆地北端部にて埋葬されていると理解されます。

実在性が疑問視されている成務天皇はどうでしょう?成務天皇も没年齢が107歳の割には何の事績もなく(注:この天皇の事績と書かれた国造・県主制度の始まりはもっと遅い時代)、単に佐紀王朝の古墳に成務天皇の名前を充てただけのようにも思えます。

逆に注目すべきは天皇の宮殿・志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)で、現在の滋賀県大津市穴太となります。宮殿と古墳が離れすぎているから成務天皇は実在しないとの説もありますが、これは近江にいた人物が佐紀に移住して大王になったと整理すれば筋は通ってきます。つまり、「日本書紀」が記述する形での成務天皇は存在しないが、近江から佐紀に移住した別人の大王がいた点は確認できることになります。

以上、佐紀王朝は但馬、丹波、近江、山城方面から移住してきた人々の王朝だったとの仮説を立てましたが、その仮説が証明されたかのような感があります。ただ、これで酔石亭主の疑問が解かれた訳ではありません。神功皇后の没年は書紀紀年では269年であり実年代では干支二運(120年)を繰り下げた389年ですから、300年代後半の人物で彼女の古墳は300年末から400年初頭に築造されたと見て間違いなく、史料面の検討結果と古墳の推定築造年代は合致しています。

ところがです。この300年代の終わり近辺から400年代初頭にかけては神功皇后陵も含め全部で10基もの200m超級の巨大古墳が築造されているのです。(注:網野銚子山古墳も含めると11基)問題は、200m級の古墳は大王墓と考えて間違いないはずなのに、それらは「日本書紀」の編纂者に全く無視され神功皇后のみがクローズアップされているように見えてしまう点です。

いや垂仁天皇と皇妃の日葉酢媛命に関しても「日本書紀」に詳しく書かれているじゃないかと反論も出そうですが、この二人は崇神天皇と景行天皇の間に置かれる形で過去に飛ばされており、宮殿も三輪山の北側で三輪王朝の人物のような扱いとなっています。

つまり佐紀王朝に関しては神功皇后以外の人物が無視され、馬見王朝の大王たちもまたほぼ全て無視されているのです。(注:葛城襲津率彦は「日本書紀」に事績が書かれており、古墳は墳丘長238mと巨大で5世紀初頭の築造とされる室大墓古墳の可能性がある)「日本書紀」の編纂者はどのような意図でそうした形を取ったのか、次回で考えていきたいと思います。加えて、ここまでに全く姿の見えてこない仲哀天皇、北九州で熊襲征伐や三韓征伐など軍事面で大活躍した(別人と推定される)神功皇后に関してもあれこれ考える必要がありそうです。

今回佐紀古墳群(西群)を見て回りましたが、これだけの巨大な古墳がほぼ同時期に、また肩を寄せ合おうように次々に築造されていると確認できました。より規模の小さい古墳も、例えば佐紀陵山古墳の東隣では、同時期に瓢箪山古墳(墳丘長96m)、猫塚古墳(墳丘長120m)などが築造されています。これらの事実から、300年代後半の後期から400年代初頭の奈良盆地は極めて平和な時代であったとの印象を持ちました。時期を同じくして馬見古墳群も築造されており、普通に考えると労働力を確保するための佐紀王朝、馬見王朝間の争いも起きるはずですが、それもなさそうです。むしろ相互に労働力を融通し合っていたのではないかとさえ思えてきます。

但し「日本書紀」には、第14代仲哀天皇と、彦人大兄命の娘の大中姫との間に生まれた麛坂王・忍熊王と神功皇后の争いが、かなりのボリュームを割いて書かれています。これをどう理解すべきか、参考までに以下Wikiより引用します。

一般には、上記の内乱伝承は神功皇后・応神天皇の集団と麛坂王・忍熊王の集団との政治的な対立抗争といわれる。これに対して、4世紀後半のヤマト王権中枢である佐紀(奈良県北部:佐紀古墳群)の正統な後継者が麛坂王・忍熊王であったと見て、実際に反乱を起こしたのは神功皇后・応神天皇の側(元は山城南部の佐紀政権支持勢力か)で、勝利後に応神勢力によって佐紀から河内(大阪府東南部:古市古墳群・百舌鳥古墳群)に中枢が移されたとする説がある。

忍熊王に関しては神功皇后陵の北西約1kmに押熊町があり、この町に本拠があったと見られます。一方仲哀天皇は「日本書紀」に穴門豊浦宮と筑紫橿日宮の行宮のみが記載され、大和に宮殿もないことから忍熊王を天皇の子とは見做せません。福井県丹生郡越前町に鎮座する劔神社には、忍熊皇子が「劔御子神」の神名で同地開拓の祖として祀られており、同社の古伝によると、神功皇后の御代に忍熊王(仲哀天皇第二皇子)は、近江の国から越前の国に来られ、越前海岸やこのあたり一帯に勢力を持つ賊徒を征伐された。とのことです。

劒神社の由緒から、忍熊王は近江の出身で大和の後押熊町付近に移住して本拠を構えた佐紀王朝の王の一人のように見受けられます。佐紀陵山古墳の相似墳とされる播磨の五色塚古墳は、忍熊王が仲哀天皇の墓と称し神功皇后を迎撃するために造った砦と「日本書紀」には書かれています。この記事は多分、忍熊王がさほど勢力のない地元豪族に協力したことで築造できた古墳を、編纂者が自分たちの意図に沿う形で改ざんしたものだと推察されます。

忍熊王と神功皇后の争いは、Wikiにも記載あるように佐紀王朝の内部抗争と解釈することも可能です。忍熊王は武内宿禰の騙し討ちにより瀬田川(或いは琵琶湖)に沈んだとあるのは、皇后の軍勢に押されて出身地にまで後退し、実際には死なずそこから越前にまで逃れ、地元の賊徒を成敗した後、若くして亡くなったので劒神社にて祀られたと言ったストーリーが想定されます。

ただ劒神社には気比大神が祀られ、この神は仲哀天皇とする史料もあるので、複雑さが増しています。この問題はいずれ機会があれば検討してみたいと思いますが、忍熊王と神功皇后との内部抗争が大規模のものであれば、300年代後半の後期から400年代初頭の奈良盆地は平和ではなかったとも言えそうで、平和だから可能なはずの巨大古墳の連続的な築造と内紛との不整合が説明しにくくなってしまいます。

佐紀古墳群において西群と東群があり、西群は神功皇后陵(4世紀末から5世紀初頭)を最後に築造が終わり、少し間をおいて5世紀前半から半ばの東群に移り、且つ後の回で詳しく見て行きますが、応神天皇陵と東群のコナベ古墳、市庭古墳が相似墳となるのは、例えば佐紀王朝の主流派だった忍熊王が内部抗争で敗北し、神功皇后に続く応神天皇系に主導権が移ったからだとも思えてきます。

つまり東群の古墳は政権交代後の佐紀王朝における古墳群と見做せるのではないでしょうか?そして新たに主流派となった応神天皇自身は河内に移動し河内王朝となったと考えられます。この時点においてもなお佐紀王朝の王たちが佐紀の地にいたことは、東群の巨大古墳の存在から見て間違いなさそうです。
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