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古墳から見た大和の古代 その9


前回までの検討で、佐紀王朝や馬見王朝の数多い大王たちは神功皇后を除いて「日本書紀」の編纂者により無視されていたと判明し、他にも幾つかの疑問が出てきました。ただ佐紀古墳群の東群にも200m超級の巨大古墳が4基ありますので、これらの古墳から先に見ていきます。具体的には、ヒシアゲ古墳(218m)、コナベ古墳(204m)、ウワナベ古墳(265m)、市庭古墳(推定復元墳丘長253m)で、いずれも巨大な古墳となっています。

まずは第51代平城天皇陵に治定されている市庭古墳を見ていきましょう。もちろんこの治定は誤りで、市庭古墳は生没年が774年~824年の平城天皇陵になり得ません。なんでこんな治定がまかり通るのか全く理解不能です。


古墳の位置を示す地図画像。所在地は奈良市佐紀町塚本・市庭。東群の西端に当たります。

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長い参道の前。参道はかつての前方部に当たると考えられます。

この場所はすでに平城京にかかっていることから、近くに再建の第一次大極殿がよく見えます。

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再建の大極殿。

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参道を歩くと拝所と背後の古墳が近くなります。

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丘のような立派な古墳。

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拝所です。

この古墳に関する詳細は以下Wikipediaより引用します。

平城宮大極殿跡のすぐ北に隣接しており、かつては直径100メートル超の最大級の円墳と思われていた。しかしその後の発掘調査で前方部が平城宮建設のさいに削平されており、本来は墳丘の全長253メートル 前方部の幅164メートル 後円部の直径147メートルの前方部を南に向けた前方後円墳であることが判明した。葺石、くびれ部分両側の造り出し、二重濠の一部分なども確認されている。
同古墳と同様に平城宮建設の際に破壊された古墳としては、第2次大極殿跡の下に位置する神明野古墳(全長117m)がある。
円筒埴輪、動物埴輪などが出土している。築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)と見られている。


市庭古墳は5世紀前半の築造とのことなので、神功皇后陵から少し時代を置いて後続する古墳と見られます。「日本書紀」で神功皇后に続く人物は応神天皇となり、同天皇の陵は4世紀末・5世紀初頭~5世紀前半とされていることから、この両者は時代的にはほぼ同じと理解されます。

前回で書いたように、東群が神功皇后と応神天皇系による政権簒奪後の佐紀王朝の墓と考えられるのは、神功皇后陵から少し時代を置いての築造となる点、応神天皇陵と市庭古墳が相似墳となる点、五色塚古墳が忍熊王の協力により築造された可能性がある点、などによります。市庭古墳の規模は、応神天皇陵(全国第2位で墳丘長425m)とは比べ物になりませんが、253mの墳丘長を有する市庭古墳の被葬者が有力な大王であるのは間違いありません。

次回は大きな池の北側に位置するヒシアゲ古墳を見ていきます。
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