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古墳から見た大和の古代 その13


今回は、「日本書紀」の編纂者と天皇家が佐紀王朝で神功皇后以外を無視した背景に迫っていきたいと思います。「日本書紀」の編纂に当たって編纂者は、日本の歴史が中国にも比肩できるものだったことを示すため、初代神武天皇の即位を紀元前660年に設定しました。もちろんこれは天皇家の意向を忖度した捏造だと容易に理解されます。

とは言え、中国のファーストエンペラーとされる始皇帝が紀元前200年代の人物ですから、それより400年以上も古い時代に天皇家の始まりを設定するなど盛り過ぎもいいところです。お蔭で実年代との時代差を調整するのに四苦八苦し、100歳以上の天皇を何人も登場させてしまいました。垂仁天皇など140歳ですから、一人で3人分に近い寿命を背負わされた計算になります。

編纂者は日本の歴史を引き延ばすだけでなく、できる限り大きく見せようともしたはずです。そうした視点から佐紀王朝の問題も解き明かせないか、今までに書いた内容も含め整理していきましょう。問題の中心には、佐紀王朝で実質的に取り上げられている人物が神功皇后しかいない点、垂仁天皇は300年代後半から末に近い佐紀王朝の人物のはずなのに、300年代前半の崇神天皇、300年代半ばから後半の景行天皇の間に飛ばされ、しかも宮殿は三輪山の北側とされ三輪王朝のように見せかけられている点などがあります。

さらに、4世紀の後半から5世紀半ば頃にかけては、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇だけに焦点が当てられ、200m超級古墳が狭い墓域に密集する佐紀古墳群や比較的広域にある馬見古墳群の大王たちまでも、編纂者からはほとんど無視されています。では、なぜそのような扱いになったのでしょう?

300年代の半ば前後から後半、400年代の前半頃には倭人(北九州の倭国の兵)が度々新羅に攻め込み支配下に置く勢いを見せていました。詳細は「三国史記」の新羅本紀に書かれています。対外的に日本の力量を大きく見せたかった「日本書紀」編纂当時の天皇家は、新羅本紀(の既に逸失した元史料)などを参照して、朝鮮半島に侵攻した北九州・倭国の海賊や王を神功皇后として書き入れさせ、大和にある他の200m超級古墳の大王をすっ飛ばしたのではないかと推察されます。

すっ飛ばした上で、次を超巨大古墳(誉田御廟山古墳で墳丘長425m)の被葬者とされる応神天皇に接続させ、その次の、世界でも類例を見ないような超巨大古墳(大山古墳で墳丘長は486m。宮内庁測量により525mとなった)の被葬者とされる仁徳天皇へと続いていく形で「日本書紀」を編纂したのです。このような意図的編纂により、古代における日本の姿を目一杯大きく描き出すことが可能になりました。

すっ飛ばすために没年齢も、神功皇后100歳、応神天皇111歳、仁徳天皇110歳と引き伸ばし、またこれによって書紀紀年と実年代の差を数十年にまで縮小させています。従って次の履中天皇以降は実年代・実年齢に近いものとなっています。参考までに、神功皇后の没年を起点として年代の比較を以下に書いてみました。
名前    生没年    書紀紀年の没年  時代差   古墳築造時期
神功皇后 339年~389年   269年     120年  4世紀末から5世紀初頭
応神天皇 350年~400年   312年      88年  5世紀前半
仁徳天皇 380年~430年   399年      31年  5世紀前半から中葉
注:生没年は推定の実年代で没年齢を50歳に設定して生誕年を記載。時代差は推定実年代における没年と書紀紀年の没年との差を記載。

以上から「日本書紀」編纂者の意図を整理すれば、
目一杯膨らませた神功皇后像→2番目の超巨大古墳の被葬者である応神天皇に繋ぐ→日本最大となる超巨大古墳の被葬者・仁徳天皇に繋ぐ→この期間における他の大王はすっ飛ばされ無視された。
となります。

ここまでの検討により、「日本書紀」の編纂者が佐紀古墳群と馬見古墳群の大王たちを無視した理由が明確になりました。彼らは4世紀後半から5世紀前半頃における日本の歴史を目一杯大きく見せかけるため、そうした操作を実行したのです。続いて垂仁天皇の問題を見ていきましょう。

垂仁天皇の宮殿は纒向珠城宮で崇神天皇の行燈山古墳、景行天皇の渋谷向山古墳に近く、しかも(「日本書紀」の記述によると)時代的には両者に挟まれていることから、三輪王朝の人物に見え、当然古墳も三輪山の近くにあるべきなのに、実際には佐紀王朝の地(宝来山古墳)に存在すると言う問題です。

垂仁天皇は佐紀王朝系の人物と考えられるのに、三輪王朝のように扱われていると言うややこしい問題を整理するため、過去記事と重複しますが佐紀古墳群をもう一度見ていきます。佐紀王朝エリアの中心的な古墳の一つである佐紀陵山古墳の被葬者は垂仁天皇の皇妃・日葉酢媛命と伝えられています。そして日葉酢媛命は母が丹波之河上之麻須郎女で丹波の出身となります。ちなみに神功皇后の母も丹波出身の可能性があります。

垂仁天皇90年2月1日に田道間守(天日槍の玄孫)は天皇の命により非時香菓(ときじくのかくのみ、橘)を求めに常世国に派遣されました。この人物は天日槍の系図に登場し、名前からしても但馬の人物となり、但馬国の国守(くにもり)の意味だともされています。

天日槍は神功皇后の母方の先祖で垂仁天皇期に渡来したとされ、しかも天日槍の玄孫となる田道間守が垂仁天皇と異様に深い関係を結んでいます。また宝来山古墳の築造時期から判断すると、垂仁天皇と神功皇后はほぼ同世代だった可能性があります。本論考を書き始める前には全く考えてもいなかったのですが、垂仁天皇の実像は佐紀王朝系(或いは佐紀王朝に入り婿した)で、神功皇后と何らかの関係があるように思えてきます。

垂仁天皇は「日本書紀」の編纂者も無視できない事績のある大王で、神功皇后とも何らかの繋がりが推定される。けれども神功皇后の時代と被ってしまうし、編纂方針に反するので佐紀王朝の天皇としては書き込めない。佐紀王朝関連では神功皇后で目一杯膨らませて書いた関係上、年齢を140歳にまで引き延ばした垂仁天皇を佐紀王朝の人物として書き加えるのは困難だ。ではどうするか?

ここでも賢い編纂者は知恵を発揮しました。彼らは佐紀王朝系だった垂仁天皇を三輪王朝のように見せかけて過去へ飛ばし、三輪王朝の崇神天皇と景行天皇の間に嵌め込み、宮殿も三輪山の北部にある形に変え、三輪王朝の一員のように装ったのです。これだけの策を弄して佐紀王朝を消し去ってしまうとは、驚くほかありません。

このような操作により神功皇后以外の佐紀王朝の大王たちをすっ飛ばし、皇后の次を超巨大古墳(誉田御廟山古墳で墳丘長425m)の被葬者とされる応神天皇に接続させ、その次の、世界でも類例を見ないような仁徳天皇陵とされる超巨大古墳(大山古墳)へと続いていく形で「日本書紀」を編纂させたのです。無理を重ねた操作により多くの大王を消し去った悔恨のみならず、事実とは異なる天皇を配したことによる矛盾の発生など、やりくりに悩む当時の編纂者たちの心情が偲ばれます。正に「すまじきものは宮仕え」でありますが、「すさまじきものも宮仕え」だと思います。
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